第55話 絶望に立ち向かう時

 アッカド郊外にある、大精霊パズズを祀った大神殿に辿り着いたシェイドたち……そこに広がっていたのは、正に惨憺たる光景だった。


 王国軍の将兵や、精霊教会の巫女たち。皆、血を流して事切れている。中には上半身と下半身が真っ二つとなっており、文字通り見るに堪えないような無惨な状態となって息絶えている者も、ちらほらと散見された。


「──うっ……!」


 噎せ返るような血の臭いや臓腑の臭いに、キリエは思わず手で口を覆う。少しでも視線を動かせば、必ず血塗れの死体が転がっている。地獄を彷彿とさせる濃厚な異臭と死の気配が、この場を支配していた。


 大神殿は半壊し、半ば瓦礫の山と化している。瓦礫に上半身を圧し潰されて息絶えた巫女が、まだ死亡して間もないのか、小さな両足の爪先をぴくぴくと痙攣させている様が何とも生々しい。


「……ここで、一体何が起こった?」


「……分かりません。誰か、生存者がいれば話を聞けるのですが、この様子では……」


 その時──


 半壊した大神殿の入り口に倒れている巫女が、わずかに身動ぎしたのを、キリエは見逃さなかった。


 居ても立ってもいられず、マルコシアスの背からひらりと飛び降りると、キリエは覚束ない足取りで、血を流して倒れているその巫女の元へと向かう。


「……貴方は」


「……嗚呼。その、声は……若しかして、キリエさん、ですか……」


 薄らと目を開くと、倒れていた巫女──シェヘラザードは、キリエの方へと顔を動かした。苦しそうに咳き込む度、ごぼっと不気味な音を立てながら、口から大量の血が零れ落ちる。


「──っ!!」


 変わり果ててしまった彼女の有り様を目の当たりにし、キリエは無意識に目を背ける。そんなキリエを見つめ、シェヘラザードは弱々しく笑った。


 それもそのはず──シェヘラザードの下半身は巨大な瓦礫に圧し潰され、殆ど原型を留めていなかったのだから。瓦礫の下からじわじわと染み出てくる赤黒い血が、瓦礫の下敷きとなった彼女の下半身がどうなってしまったのかを如実に物語っていた。


 誰の目にも致命傷であることは明らか……今のシェヘラザードは、ほぼ気力だけで生き長らえているに等しい状態だった。


 如何に治癒魔法の心得があるキリエであっても、こうなっては最早傷を癒すことなど出来ない。治癒魔法とは即ち、身体組織を活性化させて傷の治りを無理矢理にでも早める魔法。若し重傷者に使えば、ほぼ確実にショック死は免れないからだ。


「……シェヘラザード、か」


 少し遅れてマルコシアスと共にやって来たシェイドが、まるで汚物でも見るかのように瀕死のシェヘラザードを睥睨する。思えば、初めて顔を合わせた時から今に至るまで一度も、彼はシェヘラザードに対して気を許していなかった。


「──その傷じゃ、もう助からないだろ?」


 すっと音もなく腰を下ろし、血でぐっしょりと濡れた黒い前髪を掴んで無理矢理顔を上げさせながら、シェイドはゾッとするような無表情のままシェヘラザードに問う。シェヘラザードの端正な顔は、瞬く間に苦痛に歪んだ。


「ほら、裏切り者のクソ女。ラマシュトゥの犬。楽になりたければ、さっさと言えよ……セラフィナを一体、何処にやった? 何が目的でセラフィナを攫った? 正直に全部吐けば、これ以上苦しまないよう楽にしてやるよ」


 段々と怒りのボルテージが上がってきているのだろう、シェイドの顔には笑みが浮かんでいる。手には何時の間にか飛刀を握っており、何時でもシェヘラザードの頸動脈を掻き切れる態勢に入っている。


「シェイドさん……駄目です」


 首を何度も横に振りながら、キリエはシェイドの肩に手を置き咎める。マルコシアスも同じ思いなのか、まるでキリエに助力するように、彼女は飛刀を持つ方のシェイドの腕に噛み付いていた。


「…………」


「…………」


 数秒の、それでいて数時間にも思える長い長い沈黙の後──


 シェイドは無言のまま、前髪を掴んでいた手を離したかと思うと、そのまま何事もなかったかのように立ち上がり、キリエに場所を譲った。


「……ありがとう、御座います。シェイドさん」


 シェイドに礼を述べつつ、キリエはすっと腰を下ろしてシェヘラザードに尋ねる。


「教えて下さい、シェヘラザードさん。セラフィナ様は今、何処にいらっしゃるのですか?」


「……それを、聞いて……どうするのですか……?」


「……決まっているじゃないですか。セラフィナ様を、お助けしに参るのです」


 それを聞くと、シェヘラザードは掠れた笑い声を発しながら首を振る。


「……セラフィナさんは、大神殿の最奥……儀式の間の祭壇に……ですが最早、手遅れですよ。キリエさん」


「……言っている意味が分かりません。貴方は一体、何が言いたいのですか?」


「……セラフィナさんは、もう戻って来ることはありません。何故なら、セラフィナさんは──」


 刹那──シェヘラザードの口から、明らかに彼女のものではない、地の底から響くような不気味な声が発せられた。


「──"天地の娘"は、我らが悲願の成就に必要な者だからだ。お前たち人の子に、渡すわけがなかろう?」


 風向きが変わった。ふと何者かの気配を感じ、キリエたちは顔を上げ──そして、言葉を失った。


 遥かなる天空より、こちらを見下ろす黒き巨獣。獅子を思わせる頭部に、筋骨隆々たる腕。猛禽類を彷彿とさせる、背に生やした巨大な翼と、鋭い爪を生やした足。そして、長大なる蠍の尾を有する異形。


 まるで我が子をあやすかの如く、大きなその手にはぐったりとした様子のセラフィナが抱かれている。


「──セラフィナ様!!」


「……うっ……ううっ……」


 夜が明けていないため聖痕からの出血は当然まだ止まってはおらず、巨獣の掌からはセラフィナの左胸から溢れ出した血がぽたぽたと、緋色の雫となって滴り落ちていた。


「──貴方、は……いえ、貴方が……!」


「──我らはパズズ。偉大なる大地の女神シェオルの力の残滓を、その身に宿す者。この地の生命の循環を促す役目を担う大精霊なり」


 シェヘラザードの──否、厳密には既に事切れたシェヘラザードの屍の口を借り、巨獣は──大精霊パズズは淡々と言葉を紡ぐ。


「……セラフィナを、一体どうするつもりだ?」


 敵意も露わにシェイドが睨め付けると、パズズは全身の毛を逆立てて唸り声を上げながら舞い降りる。


 全身から汗が噴き出てくるのは恐らく、パズズが纏う熱風の所為だけではないだろう。煌々と輝く紅い瞳の奥には、人類に対する憤怒と憎悪の激情が、荒れ狂う焔となって燃え盛っているのが見えた。


 パズズは天を仰ぎ見ると、身の毛もよだつような雄叫びを高らかに発する。その直後、パズズの咆哮に呼応するように、大神殿周辺にて事切れている将兵や巫女たちの目が一斉に見開かれた。


 シェイドやキリエ、マルコシアスへと白く濁った目をぎょろりと向けると、パズズに操られた死者たちはまるで聖歌でも歌うかのように、揃って呪いの言葉を口にする。


 ──"嘗て、この地は生命に溢れていた。鳥は歌い、大地は草木に覆われ、獣たちは野を駆けていた"。


 ──"だが、人の侵入が全てを変えた。人は自らが生命の頂点であると驕り高ぶり、不必要な殺戮を楽しんだ"。


 ──"人は決して満たされることを知らなかった。他の生命と比べても、欲が極めて深かった。それは、まるで底なし沼のようでさえあった"。


 ──"見よ、この荒涼たる砂の大地を。見よ、この変わり果てたる不毛なる大地を。これは全て人の業、人の犯せし大罪なり"。


 ──"人は皆、罪の子なれば。人は皆ソルによって生み出されし、シェオルが創りし楽園を蝕み、死に至らしめる害悪そのものなれば"。


 ──"我らはシェオル亡き今、天地の娘の名の元に罪の子らを断罪せんとするものなり"。


 ──"我らはパズズ。罪の子らを滅する断罪者。世界の理の代弁者にして、偉大なる女神シェオルの遺志を遂行せんとする代行者なり"。


 ──"滅びよ、罪の具現たちよ! 滅びよ、簒奪者ソルによって生み出されし、放縦獰悪なる醜き害獣たちよ!!"


 シェイドたちを睨み、口に生えた無数の牙を剥き出しにして唸るパズズ。黒い体毛に覆われた巨体をわなわなと震わせ、人間への激しい憎悪や怒りを爆発させたその姿は正に、怒髪衝天という言葉が相応しい。


 その怒りは、ある意味で正しいのだろう。


 だが、それでも──


「……生憎、此方も"はい、そうですか"と受け容れるわけにはいかないんだよ、パズズ。セラフィナを──俺たちの大切な人を返してもらうぞ」


 剣を抜きながらパズズと対峙するシェイド……キリエも決意を固めたように一歩前へと進み出て、シェイドと共に並び立つ。


「……私はもう、逃げません」


 大いなる絶望に立ち向かう覚悟を決めたキリエの小さな背からは、身体の奥底より湧き上がってきた膨大な魔力が、神秘的な青白い光の粒子となって溢れ出していた。

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