第54話 風の魔王、舞い降りる

 セラフィナが目を覚ますと、そこは襲撃を受けた裏路地ではなく見知らぬ場所だった。白い大理石で出来た天井が、視界に映り込む。


「……あ、れ……私……」


 どうやら仰向けに横たえられた状態で、四肢を拘束されているらしい。拘束から逃れようと身を捩ると、脇腹に耐え難いほどの激痛が走り、苦悶の声が思わず口から迸る。


「──お目覚めになりましたか。セラフィナさん?」


 声のした方へと顔を向けると、そこには端正なる顔に柔和な笑みを湛えたシェヘラザードが優雅に佇んでいた。


「……ここは、大精霊様を祀った大神殿の最奥。皆からは儀式の間、供物の間などと呼ばれております」


「──シェヘラ、ザード……」


 そのまま言葉を続けようとしたが、聖痕からの出血に伴う激痛と、流星鎚の直撃を受けた脇腹から発せられる苦痛とに苛まれ、か細い呻き声しか発することが出来ない。


「……治癒魔法で、傷そのものは癒しましたが。どうやら受けた痛みがまだ、残っているようですね」


「ぐっ……ううっ……!」


「それにしても──驚きました、セラフィナさん。貴方がまさか、聖痕をその身に宿していたとは」


 セラフィナの左胸──聖痕が刻まれている箇所を愛おしむように撫でると、シェヘラザードはくすっと笑う。白魚を思わせるその指先には、聖痕から溢れ出たものと思われる赤い血が、べったりと付着していた。


「本当は、着替えさせようと思ったのですが……聖痕からの出血が酷く、本部なら兎も角神殿では止血も儘ならなかったので不本意ながらそのままのご恰好で、大精霊様に捧げることと相成りました」


「……はぁ……はぁ……」


「…………」


 弱々しく呼吸を繰り返すセラフィナの傍に腰を下ろすと、シェヘラザードは彼女の髪を優しく撫でながら悲しそうに笑う。


「……な、ぜ……」


「……え?」


「……何故……そんなにも、悲しそうな顔を……するの……?」


 途切れ途切れにセラフィナが問うた直後──シェヘラザードの目から、水晶のように透き通った涙が零れ落ちた。


「…………」


「……シェヘラ、ザード……?」


「……上からの命令だから……なんて言って、割り切ってみたのは良いのですが……どうしても、貴方を死なせたくないって、そう思ってしまって……」


「……そう、なんだ……」


「何故、なんでしょうね……貴方とは、知り合ってまだ日も浅いのに。この場所で供物となった者たちの最期の時を毎回、それこそ幾度となく無感動に看取ってきたというのに。人の死にゆく様を目にするなど、とうの昔に慣れてしまっているはずなのに……」


 泣き笑いを浮かべながら、不思議そうに首を傾げるシェヘラザード。自らの内に渦巻く感情の正体を、彼女自身も理解出来ていない様子だった。


「……でも、賽は投げられた。今更、私如きが必死に悪足掻きしたとて……最早、どうすることも出来ないのです」


 纏わり付くような熱風が、儀式の間の中に吹き始める。強大な力を宿した何者かが、四方八方から集まってくるのを感じる。


「……セラフィナさんは、確か大精霊様の御姿が方でしたね。なれば、護符を握り潰す必要はないでしょう」


 止めどなく零れ落ちる涙を指先で拭いながら、シェヘラザードはゆっくりと立ち上がる。巨獣の唸り声が儀式の間全体に木霊する。


「……どうか、安らかなる最期を迎えられますよう」


 シェヘラザードはそう言い残し、姿を消す。それと同時に、黒き巨獣が──大精霊パズズが顕現した。


 獅子を思わせる頭部と、筋骨隆々たる腕。猛禽類を思わせる足と翼。そして、長大なる蠍の尾を有したその悍ましい姿は、見る者に死を連想させる。


 パズズが無造作に腕を振り下ろすと、セラフィナの手足を拘束していた枷が一撃で破壊された。


 早く逃げなければ──頭ではそう理解していても、文字通り死に瀕した今の状態ではそもそも、立ち上がることは疎か、満足に手足を動かすことすら儘ならない。


 パズズが、セラフィナへと手を伸ばす。セラフィナはその手から逃れようと、反射的に大きくその身を捩った。


「──ああっ……!」


 祭壇から無様に転げ落ち、セラフィナの顔は苦痛に歪む。目の前には祭壇から滴り落ちる──厳密にはセラフィナの左胸から溢れ出した血が、血溜まりとなって大理石の床に広がってゆくのが見えた。


 血を流し過ぎたのだろう。底冷えのするような感覚と共に、少しずつ意識が遠のいてゆく。これが死ぬということなのだろうか……ふと、そんなことを考えた。


 徐々に身体が宙へと持ち上がり、パズズと目が合う。セラフィナを曇り一つない瞳でじっと見つめながら、パズズは大型のネコ科動物が甘える時に発するような、独特な鳴き声を何度か発する。


「……貴方、は……まさか……」


「…………」


「……そう、なんだね……やっぱり、貴方は……」


 まるで子を慈しむ父の如く、ぎこちないながらもパズズにそっと優しく抱きしめられるのを感じながら、セラフィナの意識は再び闇へと呑み込まれていった。











 同時刻──


「──はぁ……! はぁ……!!」


 精霊教会の追っ手から懸命に逃れながら、キリエは宿泊している宿まであと少しの所まで来ていた。


 銃弾が掠めたのか、肩や脛には血が滲んでいる。ブーツを履いたままでは走りづらいと判断し、追っ手を一度やり過ごした際に脱ぎ捨てたため、厚手の白いストッキングに覆われた足裏は土埃と血で黒く汚れ、破れた箇所からは親指が飛び出していた。


「──はぁ……! はぁ……!!」


「──逃がすな! 奴の足元を狙え! 身動きを封じよ!!」


 背後からそう叫び声が聞こえた直後、次々と耳をつんざくような銃声が響き渡る。何発か身体を掠めたのか、鋭い痛みが走るのを感じた。


 それでも、キリエは走るのを止めなかった。


「──あと、少し……!!」


 遂に、宿が見えた。そして、その入り口に二つの影が佇んでいるのが見えた。


 シェイド……そしてマルコシアス。


 刹那──


 雷鳴を思わせる銃声が轟いた直後、キリエを追っていた追っ手のうちの一人が、頭から血飛沫を上げて後方へと吹き飛んでいった。


「──シェイドさん!!」


「──その場にじっと伏せていろ、キリエ。当たるかもしれないぞ?」


 流れるように弾を込めると、シェイドはキリエの背後に迫っていた追っ手に向けて銃を放つ。キリエが咄嗟に伏せたと同時、追っ手は見事に脳天を撃ち抜かれていた。暗夜で視界が悪い中、的確に相手の急所を撃ち抜く。正に神業だ。


 立て続けに二人を撃ち殺され、怯んだ追っ手たち。生じた隙を見逃すまいと、シェイドの傍に佇んでいたマルコシアスが、黒い弾丸となって襲い掛かる。


 乗馬ほどもある巨大な黒狼が、疾風の如く突進してきたなら最早、並の軍人程度では太刀打ち出来ない。


 次々と喉笛を喰い千切られ、鮮やかな血の華を咲かせながら追っ手たちは一人、また一人と斃れてゆく。


 怒り狂うマルコシアスに蹂躙されて間もなく、キリエを追っていた者たちは全員、血の海に沈んでいた。


 マルコシアスが駆け寄ると、キリエは緩慢な動作で身を起こした。安堵すると同時に、疲労と痛みが一斉に襲い掛かってくるのを感じる。


 幸いにも傷は深くなかったが、それ以上に過度の疲労で身体が悲鳴を上げていた。


 マルコシアスに寄り掛かるようにして何とか立ち上がったキリエに対し、シェイドは無表情のまま問い掛けた。


「……セラフィナは?」


「…………」


 シェイドに合わせる顔がなく、キリエは今にも泣きそうな表情を浮かべながら、力なく項垂れる。風の哭く音に混じって、兵たちの鬨の声や大砲によるものと思われる無数の轟音が聞こえてきた。


 セラフィナが攫われてしまった。そればかりか、酷い怪我まで負わせてしまった。一体、どんな顔をしてシェイドに伝えれば良いのだろうか。


 嗚咽を漏らすキリエ……シェイドはそんな彼女を責めるでもなく、震える小さな肩に手を置いてただ一言、


「──行くぞ」


「……え?」


「──セラフィナを、助けに行くぞ。君が打ち上げた信号弾を受けて、大天使ガブリエル様や教官殿、アモンは既に動いている。俺たちも、早く動かないと」


「皆さん、が……何で……?」


「……セラフィナを攫われたのは良くないが、咄嗟に信号弾を打ち上げて異常を知らせたのは、悪くない判断だったんじゃないか? 信号弾を確認してシャフリヤールの軍勢が動いたのもあって、精霊教会側は戦力を分散せざるを得なくなった。今なら、割とすんなりと神殿まで行けると思うが?」


「……あっ」


 逃げる際に咄嗟に打ち上げた、シャフリヤールから手渡された信号弾。それを確認したことで、シェイドやマルコシアスたちは迅速に動くことが出来たのだと気付く。


「ほら……行かないのか?」


「──行きます」


「──良い顔だ」


 力強く頷くキリエを見つめて、シェイドは満足そうに白い歯を見せて笑う。


「さて──セラフィナを、俺たちの恩人を、精霊教会の下衆たちから取り返すとしようか」


「……はい!!」


 マルコシアスの背に跨り、シェイドとキリエはセラフィナの身柄が拘束されているであろう、アッカド郊外に佇むパズズ神殿へと向かう。


 巫女長ラマシュトゥ率いる精霊教会、そして病魔をもたらす熱風と蝗害を司る万夫不当の大精霊パズズ……両者からセラフィナを取り戻すための戦いが今、正に始まろうとしていた。

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