第53話 新月の夜、来たれり

 セラフィナたちとシャフリヤールが接触してから数日が経過した、ある日の夕暮れ刻──


 王宮敷地内の広場に集まった兵たちを、自らも軍装に身を包んだシャフリヤールは、感情の凪いだような目でじっと見下ろしていた。


「──陛下。兵たちの準備が整いました。何時、如何なる時でも出撃が可能です」


「……うむ。ご苦労、ハールーン」


 背後に佇む宰相ハールーンには目もくれず、シャフリヤールは手にした書状へと視線を向ける。


 死天衆のリーダー格であるベリアルから届けられたその書状には、次のように記されていた。


 ──"大天使ガブリエル、並びに聖教騎士団長レヴィの首をハルモニアへと差し出せば、ハルモニアの軍事技術の一部をアッカドへと供与する"。


「……"始祖の天使"ベリアル。中々、魅力的な提案をしてくるではないか。ハルモニアの持つ最先端の軍事技術、その一端でも手に入れることが出来れば、我が国は大きく発展するであろう」


 ベリアルからの書状には他にも、"精霊教会が行動を起こすのは新月の夜以外にありえない"こと、"巫女長ラマシュトゥと大精霊パズズを討つことに協力したならば、格別の報酬を約束する"ことなどが記されている。


「……しかしながら陛下。大天使ガブリエル殿との間で取り決めた約定、破れば大いに聖教会からの不興を買いましょう」


「願ってもないこと。元々、我らは聖教会の迫害から逃れた者たちの末裔……聖教会に報いるは、遥か昔より連綿と受け継がれてきた悲願である」


 それに、とシャフリヤールは続ける。


「大天使ガブリエルと交わした約定、今はまだ単なる口約束に過ぎない。我がアッカドにとって、より良い条件をこうしてベリアルが提示してきた以上、口約束を守る義理もあるまい?」


「……貴方は変わられた、陛下。昔は、そのような目をしていらっしゃらなかったと言うのに」


 濁りきったシャフリヤールの目を見て、ハールーンは何処か悲しそうな表情を浮かべる。彼がまだ純朴な少年だった頃を知っているハールーンにとって、今のシャフリヤールの姿は正に"狂王"だった。


 突如として地上に出現した"崩壊の砂時計"、次々と堕罪者へと変貌してゆく民草、世界全土を巻き込んだ未曾有の世界大戦"最終戦争ハルマゲドン"の勃発、日に日に発言力を強めてゆく精霊教会、予断を許さない国際情勢、そして精霊教会の信仰者による、先王である父親の暗殺……幼くして即位したシャフリヤールの精神をすり減らし、崩壊させるにはそれで十分だった。


 明るく純朴だった少年は、瞬く間に人間不信を募らせた青年へと成長してゆき、少しでも疑わしい者は即座に処断する冷酷なる為政者へと変貌した。堕罪者が出た家の者は一族郎党皆殺しにするなど、苛烈なる一面を徐々に露わにしていった。


 だが、良くも悪くもその苛烈さが、都市国家アッカドの劇的な治安の改善へと繋がった。故に、シャフリヤールは良治の君、賢王と呼ばれるようになった。


 だがその本質は──精霊教会の言うように、やはり狂王なのだろう。彼は最早、草花や動物を慈しむ心さえ、失ってしまったのだから。


 今や宰相の地位にあるハールーンとて、何度処断されそうになったか分からない。それでも、彼は壊れてしまった主君に忠節を尽くす道を選んだ。


 彼を壊してしまったのは、無情で残酷なる世界そのもの。誰しもが、シャフリヤールのようになる可能性を秘めている。どうして、シャフリヤールを責め立てることが出来ようか。


「……信号弾が上がったら、私は兵の半数を率いて、巫女長ラマシュトゥが居るであろう、精霊教会の本部へと向かう。ハールーンよ、其方は残る半数を率い、郊外にある神殿へと向かえ」


「……畏まりました、陛下」


「それと……"始祖の天使"ベリアルから送られてきた書状によれば、精霊教会は銀髪碧眼の少女セラフィナを今宵、神殿へと拉致しているはずだ」


「……私に一体、どうせよと?」


 シャフリヤールはその問いに対し、眉一つ動かすことなく淡々とした調子で、


「……事故に見せかけて、息の根を止めよ。若しあの少女をこのまま生かしておいては、我がアッカドにとって新たな災いの火種となりかねん」


「……畏まりました、陛下。仰せのままに」


 夜の帳が下りつつあるアッカド……その空に、一発の信号弾が打ち上がるのが見えた。











 同時刻──


 ぐったりとした様子のセラフィナに声を掛け、自らの肩を貸してやりながら、キリエは宿への帰路を急いでいた。もう既に"聖痕スティグマータ"がその傷口を開きつつあるのか、髪や身体から香る心地良い匂いに混じって、噎せ返るような血の臭いが漂い始めている。


 シェヘラザードの招待で、セラフィナたちは彼女の実家である屋敷へと足を運んでいた。


 今宵が新月……自らにとって、最も危険な夜であることは、セラフィナも重々承知していた。それでも足を運んだのは、アッカドに着くまでの道中、何かと世話になったシェヘラザードの厚意を無下には出来ないと考えたからである。


 宗教画を専門とする画商であるシェヘラザードの父は、セラフィナを一目見るや否や飛び上がらんばかりに大喜びして握手を求め、ハルモニア出身者で聖教会勢力の元奴隷という中々に陰惨な経歴を持つシェヘラザードの母は、まるで我が子のようにセラフィナを可愛がった。


 シェヘラザードの両親から文字通りの歓待を受けたわけだが、これがあまり宜しくなかった。


 昼食後に帰るつもりが、食後のお茶を嗜みつつ彼らの話し相手をしている内に、すっかり日が西へと傾いてしまったのである。


 特に、ハルモニアを故郷に持つシェヘラザードの母は、今現在のハルモニアがどうなっているのかを聞きたがり、色々な話をセラフィナにせがんだ。


 日が沈む前に帰りたいセラフィナと、遠い故郷の現況をもっと知りたいシェヘラザードの母。どちらに軍配が上がったかは言うまでもない。


 キリエがスティグマータの影響に伴う顔色や息遣いのわずかな変化に気付かなければ、恐らくはそのまま左胸から血を流して倒れていたであろう。


「……もう直ぐ、ですよ! 気を確かに……!」


 額に汗を浮かべ、息を大きく荒げながら、キリエは必死の形相でセラフィナに声を掛ける。


 ここ数日レヴィが基礎体力や瞬発力を鍛えてくれているとはいえ、まだまだキリエは非力な部類。セラフィナに肩を貸しての小走りでの移動は、彼女の体力を大きく消耗させていた。


 それが彼女に、大きな隙を生じさせたのだろう。


「──っ!?」


 突如として、音もなく飛来した流星鎚──それが視界に入った時、キリエは自分の身が宙へと投げ出されたのを感じた。


 家屋の壁に、背中を強かに打ち付けたキリエ……彼女の目に映ったのは、飛来した流星鎚から自分を庇うセラフィナの姿だった。


 キリエの回避が間に合わないと判断したセラフィナが、弱った身体に鞭を打ち、咄嗟にキリエを突き飛ばして自らを盾にしたのだ。


「──ぐうっ……!」


 キリエを突き飛ばした直後、脇腹に流星鎚が深々とめり込み、セラフィナの顔が苦痛に歪む。直撃と同時に何本かの骨が折れ、内臓が破裂するのを感じた。


「……セラフィナ、様……? いや……いやぁ……!」


 口から大量の血を吐き出しながら、糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ち、地面に倒れ伏すセラフィナ……半泣き状態で駆け寄るキリエの目の前に、一つの影が立ちはだかる。


「……何、で……どうして……?」


 無骨な流星鎚を携えたその人物は、先ほどまで両親と共にセラフィナと和やかな会話をしていた、シェヘラザードその人だった。


「……何故、このような惨いことを……!」


「──上からの、命令だからです」


 シェヘラザードの言葉に呼応するかの如く、黒装束に身を包み、素顔を隠した精霊教会所属の兵たちが姿を現す。


「上が白と言えば、たとえそれが黒でも白となる。組織とは常にそういうもの……決して私情を持ち込んではならないのですよ、キリエさん」


「で、でも……」


「……私個人としては、出来ることなら貴方やセラフィナさんと、対等な友人になりたかった。ですが、上がセラフィナさんを大精霊様に捧げる供物とせよ、とお命じになられたからには、それを遂行しなければなりません」


「……うっ……うぐっ……」


 蹲るような形で力なく横たわり、弱々しく呻き声を発するセラフィナ……シェヘラザードは心の底から憐れむように、憂いを帯びた表情で見下ろすと、


「申し訳御座いません、セラフィナさん──負わせた傷は後できちんと責任をもって治療しますので、暫くそのままの状態で我慢して下さい」


 シェヘラザードは燃えるような赤みを帯びた栗毛の軍馬に跨り、瀕死の重傷を負って動けないセラフィナを連れて、その場から去ろうとする。


「待って……!」


 キリエが後を追おうとすると、邪魔立てさせまいと次々に兵たちが立ち塞がる。薄桃色の唇を血が出るほど強く噛み締めながら、キリエは助けを呼ぶべく身を翻す。


 キリエが逃げると同時に信号弾を打ち上げたのを見て、兵たちが顔色を変えた。信号弾を持っていたのは想定外だったようで、彼らは逃げるキリエの息の根を止めようと、我も我もと一斉に後を追い始める。


「……賽は投げられた。もう、後戻りは出来ない」


 シェヘラザードはそう言って、新月の夜空を見上げながら悲しそうに笑った。

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