第52話 シャフリヤール

 セラフィナたちが宿泊している宿に、ひょろりとした体躯の商人が一人の従者を引き連れて現れたのは、それから二日後の正午のことであった。


 セラフィナたちが宿を貸し切っていることをメイドたちや支配人が伝えると、その商人は自らをアルと名乗り、セラフィナに依頼されていたアレス捜索について報告したいことがあるので、セラフィナに会わせて欲しいと告げた。


 その場に居合わせたガブリエルやレヴィの説得もあり、商人たちはいとも容易く宿の中へと入ることに成功する。


 同時刻──


 静まり返った居室の中──中央のソファーに腰を下ろしたセラフィナは、胸に小さな手を当てて何度かゆっくりと深呼吸をする。


 パズズが接触してきた際に負った傷は、キリエの治癒魔法を以てしても中々思うように回復せず、白のストッキングに包まれた細い両脚からは、今も尚ズキズキと鈍い痛みが発せられていた。


 扉をノックする音が耳に届き、隣に座っているキリエが表情を強ばらせる。


 ──遂に、がやって来た。


「──どうぞ」


 セラフィナの言葉を受け、扉がゆっくりと開いてゆく。レヴィとガブリエルに続いて、二人の男が部屋の中へと入ってくるのが見えた。


 一人は初老の好々爺然とした背の低い男。そしてもう一人は如何にも人当たりの良さそうな、三十代前後と思われる長身痩躯の男。


 男たちが対面のソファーに腰を下ろすと同時、身に纏う雰囲気が変化したのを感じた。


 特に若い方の男の変化たるや凄まじく、彼は人当たりの良さそうな雰囲気から一転して、必要とあらば人を殺すことも厭わぬという、まるで刃を思わせる鋭く冷たい雰囲気を全身から醸し出していた。


「……セラフィナというのは、貴女であるか」


 無表情のまま、男が厳かな声で尋ねる。セラフィナが首肯すると、男は眉一つ動かすことなく淡々と、


「私の名はシャフリヤール。都市国家アッカドを統治する者である。こちらは宰相のハールーン」


 シャフリヤールが挨拶をするよう促すと、ハールーンと呼ばれた初老の男はにこやかに笑いながら、セラフィナに対し丁寧に一礼する。


 口元にはにこやかな笑みを浮かべていたが、目は主君であるシャフリヤールと同様、全く笑っていなかった。その様子はまるで、宿のエントランスでレヴィと初めて会った時を彷彿とさせる。


「……して、セラフィナとやら。否……この場合は大天使ガブリエル殿や、聖教騎士団長レヴィ殿にもお伺いするのが適切か。此度は一体何の用があって、この私に面会を求めたのか。私とて統治者の端くれ、決して暇ではないのだが」


 口調こそ何処か尊大だが、軽薄な態度だったラマシュトゥとは異なり、シャフリヤールの態度からは、偉大なる統治者特有の威厳が感じられた。シャフリヤールが言葉を紡ぐ度、室内に独特の緊張感が漂う。


「──シャフリヤール王」


 その場にいる者を代表し、ガブリエルが口を開く。アモンは残念ながらこの場には居ない。全員が一つの部屋に集まり、更に外部から人を呼べば当然疑念を抱かれる。そのため精霊教会に不審に思われぬよう、アモンとシェイド、そしてマルコシアスは市街地へと外出していた。


 誠実さを武器に根気強く交渉が出来るアモンと、人によって好き嫌いがはっきりと分かれるが、一発の魅力があるガブリエル。どちらかが不在であれば、たとえ人を呼んだとしても、そこまで疑問に思われない。アモンの不在は、精霊教会にこちらの思惑を悟られにくくするための策だった。


「今現在、我々は精霊教会、並びにその最高指導者である巫女長ラマシュトゥに命を狙われております。現状を打開するために、貴方のお力添えを頂きたく存じます」


「私の助力が欲しい……か。なるほど」


 シャフリヤールは感情の凪いだような目で、ガブリエルの顔をじっと見つめる。


「精霊教会の存在は、確かに目障りだ。我々為政者にとって目の上の瘤と言っても良い。貴女らに協力しラマシュトゥと精霊教会を無力化出来るのであれば、これほど喜ばしいことはないであろうな」


 だが、とシャフリヤールは続けて、


「貴女らに助力することで、我がアッカド、引いてはこの広大なる砂漠に点在する諸国家にとって、果たしてどれほどの利があるのか」


「精霊教会の無力化だけでは、足りないと?」


「足りんな。精霊教会を無力化しただけでは、傍から見れば我らが内輪揉めを起こし、弱体化したように見えよう。休戦協定が結ばれているとは言え、我々は本来敵国同士。貴女らの国が休戦協定を破り、我が方へと攻め寄せて来る可能性は否定出来ぬ」


「では──何をお望みでしょう?」


 ガブリエルの問いに対し、シャフリヤールは迷うことなく答える。


「決まっておろう。聖教会もハルモニアも金輪際、砂漠地帯に足を踏み入れぬこと。それが、私の望みである」


「それは聖教会、ハルモニア両勢力との、不可侵条約の締結……ということで宜しいのでしょうか?」


「条約、だと……? そんな下らないものに一体、何の法的拘束力がある。馬鹿馬鹿しい。条約など、破ろうと思えば何時でも破れる代物ではないか。貴女らの物差しで、物事を測ろうとするでないわ」


 シャフリヤールは初めて嫌悪感を露わにする。が、それもほんの一瞬のことで、直ぐにまた元の無表情へと戻ると、


「……だが、そうだな。恒久的なる不可侵を約束してくれるのであれば、貴女らに助力し、精霊教会を無力化してやるのもやぶさかではない」


「分かりました。本国に戻った暁には教皇グレゴリオ並びに、クロウリーを始めとする枢機卿たちに血でサインを書かせましょう」


 血で署名された血判状であれば、それは法的拘束力を有する。その上、もし誓いに背けば、大きく人望を失うこととなる。そのことをガブリエルが説明すると、シャフリヤールは数秒の沈黙の後、同意を示すように小さく頷いた。


「……宜しい。セラフィナとやら、ハルモニアも全く同じ条件で宜しいか?」


「……はい。アモンには、私から伝えておきます」


「宜しい」


 シャフリヤールはガブリエル、続けてセラフィナと固い握手を交わすと、わずかに微笑みを浮かべた。


「……それではハールーン、彼女たちに例の物を」


「畏まりました、陛下」


 シャフリヤールの言葉に頷くと、ハールーンはセラフィナたちにそれぞれ、片手銃のようなものを手渡した。


「これは?」


 ガブリエルが中身を訝しみながら問うと、シャフリヤールは抑揚のない声で、


「その筒の中には、信号弾が入っている。若し万が一、何か宜しくないことがあった時に使うが良い。では、我らはこれにて──」


「──お待ち頂きたい、シャフリヤール王」


 ソファーから立ち上がりかけたシャフリヤールとハールーンを、レヴィが制する。


「……まだ何か? 聖教騎士団長レヴィ殿」


「いえ、私からは特に何も。しかしながら──セラフィナ嬢が、シャフリヤール王にお尋ねしたきことがあると」


「ほぅ……?」


 シャフリヤールはセラフィナへと視線を向けると、嫌な顔一つせずソファーへと座り直す。


「何が聞きたいのだ、セラフィナとやら」


 ずっと彼に聞きたかったことを、やっと直接聞く事が出来る。意を決して、セラフィナは話し始める。


「……近郊のオアシス都市に立ち寄った際、そこに住まう民たちが皆殺しにされた状態で、街が火の海となっているのを目の当たりに致しました」


「…………」


「その時、辛うじて息をしていた精霊教会の巫女がこう言い遺したのです。この惨劇は、狂王と謳われるシャフリヤール王の仕業である、と」


 セラフィナの言葉に、シャフリヤールは黙って耳を傾ける。


「誠に恐縮ではありますが……今一度、シャフリヤール王にお尋ねします。近郊のオアシス都市を襲った惨劇について、何かお心当たりは御座いますか?」


 暫しの沈黙の後、シャフリヤールはゆっくりと首を横に振った。


「──心当たりはない。残念ながら、な……」


 目が濁っている。間違いない。彼があの大虐殺を主導したのだとセラフィナは察する。


 しかしながら、それ以上追及をしようとすれば、内政干渉と受け取られる可能性がある。迂闊なことを言えば、自分たちに助力してくれるという話がなかったことにされるかもしれない。そうなると、完全に詰みだ。


 口惜しいが、これ以上は何も聞かない方が良い。


「…………」


 黙りこくってしまったセラフィナを見つめ、シャフリヤールは首を傾げる。


「……他には? 聞きたいことは、それだけか?」


「……はい。もう、大丈夫です。お手数を、お掛け致しました」


 セラフィナが頭を下げると、シャフリヤールはゆっくりと立ち上がり、今度こそハールーンと共に部屋の出口へと向かう。


「──では、失礼させてもらう。此度の取り決めが、双方に取って最良の選択であることを……切に願う」


 その言葉を最後に、シャフリヤールはハールーンを伴って、悠然とした動きで部屋から出ていく。その目は、最後まで濁ったままであった。

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