第49話 聖教騎士団長レヴィ
宿の中の温度が、一気に下がったような気がした。
場に立ち込める空気を察したのか、メイドたちが一斉にセラフィナたちから距離を取った。
レヴィは端正な顔に笑みを貼り付けたまま、まるで獲物を前にした捕食者のように、セラフィナたちの周囲をぐるぐると回り始める。
異教徒であるセラフィナたちに対する、差別意識や敵意といったものは微塵も感じられない。ただ、口元は笑っているのに目が全く笑っておらず、無音で周囲を歩き回りながらも、視線は常にシェイドへと向けられている。それが兎に角不気味だった。
「……教官、殿……」
顔を引き攣らせるシェイドと、口だけはにこやかに笑っているレヴィ。両者は実に対照的だった。
「──シェイド。三年前のあの日、君が犯したのは紛れもなく敵前逃亡だ」
透き通るような、綺麗なソプラノヴォイス。小鳥のさえずりを彷彿とさせる、誰もが思わず聞き惚れてしまうような美しい声で、レヴィはシェイドに優しく語り掛ける。
「何故、敵前逃亡が軍という組織の定める法に於いて重罪とされているのか。分かるかな、シェイド?」
「……じ、自軍の規律や秩序が乱れ、戦線が総崩れとなる恐れがあるから……です、教官殿」
「そうだね、シェイド。戦闘の継続が可能な状態で、防人としての責務を放棄して逃げ出せば、それは軍全体の士気に関わる。我も我もと、追随して逃げ出す者も現れるだろうからね。その上で尋ねよう。何故、君は上官である私に連絡の一つも寄越さず、無音で行方を眩ませたのかな?」
「そ、それは……」
恐怖のあまり、まるで生まれたての仔鹿のように、小刻みに身を震わせるシェイド。こんなにも怯える彼の姿を見るのは、初めてのことである。
それほどまでに、今も尚周囲を歩き回るレヴィという麗人は、彼にとって恐ろしい存在なのだろうか。見ている限りでは、とてもそうは思えない。
シェイドが嘗て聖教騎士団に所属していたという事実もまた、セラフィナにとっては初耳であった。
とはいえ、シェイドの実力を考えれば別に不思議でも何でもない。故に初耳ではあったが、特に驚くほどでもなかった。
寧ろ、彼は元々軍人だろうと、セラフィナは常日頃から思っていた。それほどまでに、彼が要所要所で見せた戦闘技術は洗練されていたのだから。まさか、元聖教騎士だとは思ってもみなかったが。
「先にも言った通り、敵前逃亡は重罪。懲役刑に再教育、懲罰部隊への転属……最悪の場合は、即決で銃殺刑だ」
「……はい、教官殿。覚悟は、とうに出来ております」
「だけどね、シェイド──」
そこでレヴィは一旦言葉を区切って立ち止まると、シェイドの肩にポンと手を置く。
「──今の君は聖教騎士のシェイドではなく、ハルモニア国民のシェイドだ。だから、聖教騎士団の定める法では残念ながら、君を裁くことは出来ないね」
「教官、殿……」
シェイドの両目が大きく見開かれると同時、透き通った涙が土埃で薄汚れた白い頬を伝う。
「君が無事で良かったよ、シェイド。君の元気な姿を見ることが出来て、感無量だ」
レヴィは静かに涙を流すシェイドをそっと抱きしめると、小さな手で優しく彼の背を撫でさすった。
「……本当に、心配したんだよ?」
「……ご迷惑を……お掛け、しました……」
「気にしなくても良いよ、シェイド。もう、過ぎたことだからね」
レヴィはそう言ってにこりと笑うと、つられて泣き笑いを浮かべるシェイドから離れ、無音でアモンの前まで移動する。
「──初めましてだね、死天衆のアモン?」
「聖教騎士団長レヴィ、とは君のことか。何でも聖教騎士団が創設されて以来の、かの剣聖アレスさえも超え得る稀代の傑物であると聞いている」
「そんな、大層なものではないよ。年寄り連中から親の七光りと馬鹿にされている、ただのお飾りだ」
はめていた手袋を外し、アモンと固く握手を交わしながら、レヴィは首を横に振って否定する。
「それで──君が、居場所を失くしたシェイドを、ハルモニアに受け入れてくれたのかな?」
「否。シェイドをハルモニアへと導いたのは私ではなく、この少女だ。名をセラフィナという」
アモンがセラフィナへと顔を向けると、レヴィはセラフィナの前へと音もなく移動する。足音一つ立てずに移動するとは、一体どのような歩き方を身に付けているのだろうか。是非とも一度、ご教授願いたいものである。
近くで改めて見てみると、化粧っ気がないにも関わらず、レヴィの顔立ちは非常に整っていた。とても現役の軍人とは思えない。睫毛は長く、黒い髪は艶やかで、白い肌は滑らかで潤いがある。薄桃色の唇は小さく可愛らしい。在り来たりな言葉になってしまうが、まるで人形のようである。
「なるほど、君がシェイドを……」
レヴィは柔和な笑みを湛えながら、セラフィナに右手をすっと差し出す。
「初めまして、セラフィナ。私はレヴィ……シェイドの元上官だ。短い付き合いとなるだろうが、この地に滞在している間、どうか宜しく頼むよ」
「こちらこそ……えっと、この場合は、聖教騎士団長殿って呼べば良いのかな?」
「いや、レヴィで良いよ」
「そう……分かった。こちらこそ宜しく、レヴィ」
レヴィと固い握手を交わしつつセラフィナがそう言うと、隣にいたマルコシアスもレヴィに対し、何度か尻尾を振りながら軽く頭を下げる。
「おっと……これは随分と、礼儀正しい子だね。そんな君には後で何か、ご褒美をあげないといけないね」
マルコシアスの顎の下を優しく撫でてやりながら、レヴィはそう声を掛ける。マルコシアスに顔を舐め回されても怒ることなく、それどころか寧ろ嬉しそうである。
「──犬が好きなの? その子は狼だけど」
「ああ、犬は大好きだよ。人間と違って、他人を不幸にするような嘘を吐いたりはしないからね」
聖教騎士団長という立場上、やはり心労が絶えないのだろうか。マルコシアスを可愛がるレヴィを見ながら、セラフィナはそんなことを思った。
「あの……えっと、その……」
遠慮がちに声を掛けるキリエに気付くと、レヴィはマルコシアスに舐め回された顔を胸元のポケットから取り出したハンカチで拭いつつ苦笑しながら、
「おっと、これは失礼……君のお名前は?」
「あ……えっと、キリエと申します」
「キリエってあの……涙の王国第一王女の?」
きょとんとした顔をするレヴィ。それも、無理からぬことである。本来なら故人……生きていたとしても四十を過ぎている筈の女性が、まだあどけなさの残る少女の姿で目の前に立っていれば、彼女でなくとも驚くことだろう。
「は、はい……今は、王女でも何でもない、ただのキリエではありますが……」
「なるほど、ね。深くは聞かないでおくとしよう」
一通り自己紹介を済ませると、ふと何かを思い出したように、アモンがレヴィに問い掛ける。
「──ところでレヴィよ、大天使ガブリエルは?」
「──ガブリエル様は街を観光してくると仰って、少し前に宿を飛び出してしまわれた。恐らく、夕方までお戻りにはなられないだろうね」
やっぱりか──そう言わんばかりに、アモンの顔に苦笑いが浮かぶ。レヴィの顔にも同様に、苦笑いが浮かんでいる。
「好奇心旺盛なのも、困りものだよ。ガブリエル様にはもう少し、ご自身が大天使であるという自覚を持って頂きたいのだけれどね」
「まぁ……そうだな。尤も、自らが大天使であることを鼻にかけず、相手が誰であろうと物怖じせず絡んでゆくのが彼女の魅力でもあるのだが」
「それは……うん、そうなんだけどね」
アモンとレヴィ……周囲に振り回される苦労人同士、どうやら気が合うようである。両者は互いの肩をポンポンと軽く叩きながら、無言のまま互いに互いを労い合っていた。
──"一時はどうなることかと思ったけれど、何やかんやレヴィたちとは、上手くやっていけそうだね"。
そのまま酒場で仲良く一杯やりそうな雰囲気の両者を交互に見やりつつ、セラフィナは心の中でそう思った。
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