第50話 純真無垢なる子供のような
セラフィナたちがアッカドに到着してから、早くも数日が経過しようとしていた。
セラフィナは当初の予定通り、アッカド内を歩き回っては養父たる剣聖アレスの痕跡を探していた。
アレスの人相書を作成し、それを載せて貰えないか地元の新聞と交渉をしてみたり、アッカドと近隣の都市国家を行き来する商人たちの協力を得るべく、商人組合の拠点に足を運ぶなどした。
人々の反応は、実に様々だった。一昨日来やがれと言って取り付く島もない者、快く協力を引き受けてくれる者。酷い者になると、異邦人だという理由で石を投げてくる者さえいた。
それでも、シェヘラザードや彼女の父親の人脈もあり、喜ばしいことに少しずつではあるがアレス捜索に協力する者は増えつつあった。
それと同時に、セラフィナは狂王とされるアッカドの統治者シャフリヤールとの接触も試みていた。こちらは聖教騎士団長レヴィが協力してくれることになり、彼女の名義で連日のように、シャフリヤールの元に面会を求める書状を送り続けている。
アッカド近郊のオアシス都市で行われた、歴史上でも非常に稀なる大虐殺。シャフリヤールはそれに関与しているのかどうか。仮に関与していたとして、その真意は何処にあるのか。直接、彼の口から確かめたいという思いがあった。
そんな、ある日のことだった。
「……ふぅ」
宿の居室へと戻ったセラフィナはブーツを脱ぐと、草臥れ果てた様子でベッドへと俯せに倒れ込んだ。既に陽は西の方に沈み、アッカドには夜の帳が下りつつある。
華奢な膝を抱えながら、何度も何度も小さく溜め息を吐くその姿は、見ていて何処か痛ましい。
連日のようにアッカド内を歩き回ったことで親指の付け根に血豆が生じ、それが知らぬ間に潰れたのだろう。厚手の白いストッキングに包まれた爪先には、じんわりと赤黒い血が滲んでいた。
「……あの人の手掛かりは、残念ながら見つからず。シャフリヤールからの返事の手紙もなし。今日も空振りだよ、マルコシアス」
ベッドの傍に座っているマルコシアスの顎を指先で優しく撫でてやりながら、セラフィナは溜め息混じりにそう呟く。
「……何時になったら、見つかるんだろうね? それとも、このまま永遠に見つけられないのかな」
疲労の所為か、珍しく弱気になるセラフィナ……マルコシアスはそんな彼女を心配するように、自らに向かって伸ばされた小さな手を何度か舐める。
「──"疲れているだろうから、今日はもう、何も考えず休んだ方が良い"?」
マルコシアスは軽く一声吠えると、頷くような仕草をしつつ尻尾を何度も大きく振った。
「そう、だね……そうしよう、かな……」
マルコシアスを見つめながらくすっと笑うと、セラフィナは緩慢なる動きで、ベッドから身を起こした。
「──ほら、ご飯に行っておいで。私のことは、気にしなくても良いから」
セラフィナがそう言うと、マルコシアスは何度か逡巡した後、器用に扉を開けて部屋から出ていった。
マルコシアスが去り、静まり返った室内──
鍵が掛けられていた筈の窓がひとりでに、ゆっくりと開き始めたかと思うと、室内の温度が急速に下がってゆくのを感じた。
「…………」
背筋に嫌な汗が伝う。誰も触れていないにも関わらず、オルゴールが突然、物悲しい音色を奏で始める。人ならざる何者かが引き起こしている霊障であることは、誰の目にも明らかであった。
セラフィナの周囲で奇妙なことが起こり始めたのは、アッカドに到着してからのことである。
窓や棚がひとりでに開く、オルゴールが突然鳴る、鏡が割れたり、絵画が逆さになるなどは最早日常茶飯事と化していた。
極めつけは三日前、セラフィナの居室を清掃していた若いメイドが突然帰らぬ人となる事案が発生した。
死体を発見した他のメイドたちの証言によると、部屋の中全体が血の海と化しており、その中央に倒れ伏す彼女の胸や足には、巨大な獣によるものと思われる引っ掻き傷が刻まれていたという。
部屋を替えたが、霊障は未だ収まっていない。宿を替えても恐らく、霊障は収まらないだろう。
それらの霊障はどうやら、セラフィナとその周囲にしか発生していないようで、シェイドやキリエ、レヴィやガブリエルといった面々に同様の現象に遭ったか否かを尋ねても、彼らは皆一様に首を横に振るばかりであった。
ふと、何者かの視線を感じ、セラフィナは何時でも剣を抜けるよう柄に手を掛け、ベッドから音もなくするりと床へと下りた。
潰れた血豆から発せられる痛みに、端正な顔をわずかに歪ませつつも、白いストッキングに包まれた爪先を優雅に滑らせながら、剣を按じた状態で、つい今し方視線を感じた方へと慎重に歩を進める。
風の哭く音、震える自分の吐息、物悲しげに鳴り響くオルゴール……それらに混じって
「……誰?」
セラフィナが臨戦態勢のまま誰何すると──
唸り声と共に、巨大な単眼がぼうっと姿を現した。
煌々と輝く紅い瞳には、無表情を装いつつも何処か不安そうなセラフィナの顔が映り込んでいる。目の下には薄らと隈が出来ており、青白い肌には、大粒の汗が浮かんでいる。我ながら酷い有様だと、セラフィナは思わず苦笑いを浮かべた。
先ほどよりも、やや大きな唸り声が響く。特徴的なその声に、セラフィナは聞き覚えがあった。
──パズズ。
姿形を変えてはいるが、間違いない。病魔をもたらす熱風と蝗害を司る大精霊。悪霊たちの支配者。
パズズはセラフィナを認識しているのか、感情が凪いだような目で、セラフィナをじっと見つめている。
刹那──
突然、足が動かなくなる。見ると、人間のものと思われる無数の痩せ細った青白い手が、セラフィナの華奢な両の足首や脛を掴んでいた。
骨の軋む音がする。爪が皮膚に強く食い込んでいるのか、強い痛みが両足に走る。
「痛っ……!」
剣を抜いて対処しようとするも、まるで金縛りに遭ったかの如く、身体が言うことを聞いてくれない。
ただ、オルゴールの鳴り響く音だけが、部屋の中に虚しく響く。
全く身動きが取れず、生殺与奪の権をパズズが握っている中、ある疑問がセラフィナの脳裏を過ぎっていた。
──"何故、パズズは自分のことを認識しているのだろう"。
ベリアルから手渡されたパズズ像は、護符として肌身離さず大切に持っている。パズズ像さえ持っていれば、パズズに認識されないのではなかったか。
否──現にこうして、パズズに認識されてしまっているではないか。ベリアルが嘘を吐いた? だとするならば、シェイドやキリエの身に何も起こっていないのは、一体どういうことだ。
「──あっ……」
そこである事実に思い至り、セラフィナは危機的状況にありながら思わず間の抜けた声を上げる。
ベリアルは一言も、パズズに認識されないとは言っていない。護符として機能すること、所持していない場合は問答無用で外敵として認識されること。彼が伝えたのは、あくまでそれだけだ。
この場合の護符としての機能とは恐らく、パズズのもたらす病魔に侵されないということ。つまり、相手を認識するもしないも、パズズの勝手なのである。
即ち、今のこの状況は──
「……終わったかも、しれないね」
身動きは取れない。目の前にはパズズ──どう考えても、詰みの状況である。
しかし──詰みの状況にありながらも、セラフィナは何故か落ち着きを取り戻していた。
「…………」
パズズがフンフンと低い音を発する度、纏わり付くような熱風が顔や身体に吹き掛かる。どうやらパズズは、セラフィナの匂いを嗅いでいるようだった。
髪、顔、身体、手、足……セラフィナの匂いを嗅ぎ終えたパズズはすっと目を細めると、唸り声とはまた異なる、くぐもった声を漏らす。彼が笑っているのだと気付くまでに、そう時間は掛からなかった。
発せられるその笑い声からは、敵意や害意を全く感じなかった。まるで純真無垢なる子供が、愛しい母に甘えるかのような……純粋なる喜びや嬉しさに満ち溢れた笑い声だった。
「……何故、笑っているの?」
セラフィナは困惑しながらも、パズズに問う。
その直後──
勢い良く扉が蹴り破られたかと思うと、剣を手にしたレヴィが悠然とした動きで、部屋の中へと入ってくる。実年齢よりも遥かに若く見えるその顔は、恐ろしいほどに無表情である。
彼女の隣には、鋭い牙を剥き出しにし、全身の黒い毛を逆立てながら、パズズを睨み威嚇するマルコシアスの姿があった。
第六感のようなものでレヴィが異変を感じたのか、それともマルコシアスが異変に気付き、レヴィに助けを求めたのか。何れにせよ、パズズの拘束から逃れるまたとない好機である。
マルコシアスが飛び掛かると同時、パズズの姿は音もなく掻き消え、拘束から逃れたセラフィナはバランスを崩してその場に倒れ込む。
「……去った、か。怪我は?」
「……何とかって、ところかな? 痛いけどまぁ、歩けないほどじゃないよ」
思うように足に力が入らず、レヴィに助け起こして貰いながら、セラフィナはそう言って苦笑する。
想像以上に強い力で掴まれていたらしく、細く華奢な両足からは、じわじわと血が流れ出していた。
レヴィは自室から応急処置用の鞄を持ってくると、セラフィナの履いている血塗れとなった白いストッキングを脱がし、血が出ている箇所を一つ一つ、丁寧に消毒、止血してゆく。
足に刻まれた傷がズキリと痛む度、先ほど自分を見つめ、純真無垢なる子供のように笑ったパズズの姿が鮮明に思い浮かぶ。
何故あの時、生殺与奪の権を握っていたにも関わらず、パズズは自分を殺さなかったのだろう。何故あの時、パズズは自分を見て嬉しそうに笑ったのだろう。
何故、何故……ぼんやりとした頭で、何度も問うセラフィナ。何も分からない。ただ、オルゴールの音だけが鳴り止むことなく、虚しく室内に響いていた。
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