第43話 音もなく忍び寄るは
シェイドが謎多き吟遊詩人フォルネウスより、三日月の魔女アスタロトに纏わる寓話を聞かせてもらっていた丁度その頃──
シェヘラザードに案内された客室……その中央にあるソファーにゆったりと腰を下ろしながら、セラフィナは愛用品であるブーツや剣を黙々と磨いていた。
普段ならセラフィナの傍に侍っている筈のマルコシアスは、残念ながらこの場には居ない。愛玩動物の連れ込み禁止という宿の規則に則り、彼女は外にある厩舎で寝泊まりすることになったからである。
シェヘラザードはマルコシアスについて、宿の支配人と交渉することを勧めたが、セラフィナは"規則がある以上は例外を作ってはいけない"とあっさり拒否。今頃、彼女は厩舎の中で、寝藁を涙で濡らしているかもしれない。
当然であるが異性であるシェイド、異性なのかどうかは分からないがアモンは別室である。尤も、堕天使に性を問うのは野暮というものだが……。
広々とした部屋の四隅には魔除けの意味合いが込められているのか、人間大のパズズ像が複数体、それぞれ窓や部屋の出入り口を睨み付けるような形で設置されている。
部屋を彩る装飾品として見ると悪趣味だが、魔除けとして見ると途端に頼もしく思えるのは、パズズの持つ守護者的な側面故だろうか。
そして向かい側のソファーにはキリエが腰掛けており、セラフィナが"日課"を終えるのを、茶菓子をつまみつつ今か今かと待っていた。
「……こんな所、かな」
ほっと溜め息を一つ吐くと、セラフィナは剣を磨く手を止め、顔をゆっくりと上げる。そのままキリエの方を見つめると、表情一つ変えぬまま、
「……お風呂。私なんか待っていないで、先に一人で入ってくれば良かったのに」
「だ、だって、慣れない場所ですし……一人で浴場まで行くのが怖かったので……」
「なるほどね……大丈夫って言いたいところだけど、確かに敵か味方かも分からない人たちが、宿の中に沢山溢れ返っているからね」
キリエから差し出された茶菓子を口にしつつ、セラフィナはテーブルの上に置かれていた新聞紙を手にすると目を通し始める。
「……じゃあ、私と一緒に行こうか。その代わり、この新聞を読み終わるまでの間、少し待ってくれる?」
──"アッカド郊外にて、少女の変死体発見"。
大見出しとなっている記事を見るや否や、セラフィナは心底不快そうに眉をひそめる。
発見された少女の遺体は、首や四肢の関節があり得ない角度に捻じ曲がっており、骨が皮膚を突き破って飛び出していたらしい。
都市国家アッカドの統治者たる国王は、少女は明らかに他殺であり、彼女を殺害したのは他ならぬ精霊教会であるとの声明を発表したが、精霊教会の指導者である巫女長ラマシュトゥは"精霊教会の犯行であるという証拠はなく、国王の妄言であることは明らか"と、声明の内容を否定している。
「……どうしよう。この先、不安しかないんだけど」
深く溜め息を吐くセラフィナの顔を、キリエは心配そうな様子で見つめる。
「だ、大丈夫ですか……? 何と言うか凄く、落ち込んでいらっしゃるように見受けられるのですが……」
「大丈夫、大丈夫……ちょっと厄介事が増えただけだから、心配するほどのことじゃないよ」
「ほんの少し厄介事が増えただけとは、到底思えない雰囲気を醸し出していらっしゃいますが……」
姿勢良く座った状態のまま固まり、全身から何とも言えない悲壮感を漂わせているセラフィナの手から器用に新聞紙を抜き取ると、キリエは該当記事に目を通す。
「──"アッカド郊外にて、少女の変死体発見"……これもう厄介事とか、そう言った概念を超越しているような気がするのですが……」
「……いや本当に、ね。王室と宗教団体が権力闘争している場所にこれから向かうって、正直なところ不安しか感じないんだけど」
冷めた紅茶を口に含みつつ、セラフィナは最早何度目かも分からぬ深い溜め息を吐く。
「で、でも……他国から来賓を招く以上は、自国の問題に巻き込まぬよう一定の配慮は為されるのでは」
「どうだろうね。ハルモニアや聖教会とは、置かれている環境が違う。文化が違う。信仰している宗教が違う。何より、育まれてきた倫理観が違う。こちらが常識だと思っているものが、相手にとっては非常識。場合によっては死罪案件とか、良くある話だよ」
「それは、確かにそうかもしれませんが……」
「まぁ……私たちが憂いたところで、事態が好転するわけでもないし、こればかりは諦めて切り替えていくしかないね」
それに、とセラフィナは続ける。
「──私、寧ろまだ見ぬ精霊教会の指導者の方が不安というか、もっと言えば怖くて仕方がないんだよね」
「巫女長ラマシュトゥさん……でしたっけ。一体、どんな御方なんでしょうね」
「実際に会ってみないことには分からない。でも、何故だか嫌な予感がするんだよね。出来ることなら顔を合わせたくないけど……」
まず、間違いなく顔を合わせることになる。本能的にそう直感しているのか、セラフィナは無表情ではあったものの、すっかり諦観した様子である。
「──そう言えば、巫女長ラマシュトゥさんで思い出したのですが……シェヘラザードさんって、確か精霊教会の巫女さんですよね?」
「確かに、そう言っていたね」
「その……彼女を信用するのって、大丈夫なんでしょうか。いえ、悪い人ではなさそうですが、その……」
キリエが言わんとしていることを察すると、セラフィナは表情を少し和らげつつ、やんわりと片手で制止する。
「──大丈夫だよ」
「……何故、大丈夫と言い切れるのですか?」
「そう、だね……相手の目を見れば、敵意や害意の有無が大体分かるんだよ。幾ら表情や態度で誤魔化そうとしても……目だけは、絶対に誤魔化せない。目は時として、口よりも雄弁に物事を語る」
「…………」
「確かに最初顔を合わせた時の彼女は、少し挙動不審なところがあったし、私も警戒したんだけど。アモンが事情を説明してくれたのと、彼女の目を見て敵意がないことが分かったから」
「セラフィナ、様……」
「だからと言って、彼女を信用しろって強要するつもりは微塵もないよ。あくまで、過度に警戒する必要はないってだけで。合う合わないもあるし、キリエなりの接し方を模索すれば良いよ」
キリエをフォローするようにそう付け加えると、セラフィナはゆっくりとソファーから立ち上がる。
「じゃあ……約束通り、一緒にお風呂に行こうか」
くすっと笑いながら、そっと右手を差し出すセラフィナ……彼女の手を取りながら、キリエもまたにこりと笑う。
そんな彼女たちが泊まっている部屋の方を、厩舎の中から何やら物言いたそうな目で、マルコシアスがじっと見つめていた。
金色に輝く彼女の瞳に映っていたのは、或いはこれから起こりうる"未来"だったのかもしれない。
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