第42話 三日月の魔女の寓話

 宿の食堂にて夕食を摂った後、シェイドは食堂に併設されている酒場のカウンターに腰掛け、独り考え事をしながら黙々とカクテルを飲んでいた。


 カウンターを挟んだ向かい側では、元ハルモニア帝国軍人という異色の経歴を持つ宿の支配人が、流れるような手付きで作業をしている。聞けば"最終戦争ハルマゲドン"の際に片目を負傷し、上官や部下に迷惑は掛けられないとの理由から、やむなく退役したのだという。


 そしてカウンターからやや離れた場所では、シェヘラザードがシェイドの方をそれとなく気にしつつ、優雅な所作でカクテルを口に含んでいるのが見えた。


 パズズに見つかる恐れがあったとはいえ、初対面の相手に失礼なことをしてしまったので、詫びのしるしに是非とも酒を馳走したい──シェヘラザードはそう言って食後の酒にシェイドを誘ったのだった。


 酒代をシェヘラザードが出すことについては、シェイドも何も言わなかった。しかし、シェヘラザードと一緒に酒を飲むことだけは固辞した。


 まだ相手がさして親しくもない、知り合って間もない間柄というのは勿論だが、それ以上にシェイドが警戒していたのは、色仕掛けを用いた籠絡……即ちハニートラップであった。


 今や良き相棒と言っても差し支えないセラフィナの神秘的、耽美的とも言える美貌の前には流石に霞んでしまうものの、シェヘラザードもまた傾国の美女と呼ぶに相応しい美貌の持ち主である。その美貌を武器に異性を誑かすのは、恐らく造作もないことだろう。


 尤も、シェヘラザード本人にその気があるのか否かは現状定かではない。それでも、万が一のことを考えると彼女を警戒せざるを得ないのは、致し方のないところではあった。


「──失礼」


「……うん?」


 シェイドが顔を上げ、声のした方へと視線を動かすと、リュートを携えた青年が爽やかな笑みを浮かべながら軽く手を挙げる。


 出で立ちからして吟遊詩人だろうか。多くの異性からモテそうな甘い顔立ちをしているが、同時に歴戦の古豪かの如きオーラも纏っている、良く分からない雰囲気の青年だった。


「──隣に座っても宜しいかな?」


「それは、一向に構わないが……」


「ありがとう。では、お言葉に甘えて──」


 青年はリュートを傍らにゆっくりと置くと、シェイドの隣の席に腰を下ろす。被っていた帽子を取りつつ慣れた様子でカクテルの注文をすると、シェイドの方へと向き直り右手をそっと差し出しながら、


「私はフォルネウス……吟遊詩人を生業としていてね」


「へぇ……このご時世で吟遊詩人、ねぇ……変わっているって言われたりしないか?」


「よく言われるよ。気にしたことはないけどね」


「なるほど……俺はシェイドだ。今は……そうだな、用心棒みたいなことをやって生計を立てている」


 フォルネウスと名乗った青年と握手をしつつ、シェイドは少しだけ表情を和らげる。この後、都市国家アッカドまで行動を共にするシェヘラザードよりは、一期一会で済む可能性がある分、フォルネウスの方が酒の相手にはちょうど良い。少なくとも、シェヘラザードほど警戒しなくても良さそうだ。


「……吟遊詩人と言っていたが、普段はどのようなことをしているんだ?」


 カクテルを口に含みつつシェイドが尋ねると、フォルネウスはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、白い歯を見せて微笑みながら、


「うむ──普段は、民間伝承を調べているね」


「民間伝承?」


「文献などに記されることなく、それでいて今日まで伝わっている古の風習や伝説など。それらを纏めて民間伝承と呼ぶんだよ」


「なるほどねぇ……それが詩の題材になるのか」


「そういうことになるね」


 楽しそうに笑うフォルネウス……その様子はまるで純真無垢な少年のようである。


「中でも私は、大地の女神シェオルに纏わる伝承を集中的に調べていてね……地域毎に伝わっている内容が異なっているから、伝承を細かく調べてハルモニアの教典の内容との差異を見つけ出している時が、堪らなく楽しいんだよ」


「た、楽しいなら良いんだが……そのうち死天衆の連中に粛清されないか、些か不安になってくるな」


「粛清されたら、その時はその時というものだよ。尤もその程度のことで、死天衆たちが粛清に動くとは考えにくいけどね」


「……なら、良いけどな。そうだ、大地の女神シェオル以外の民間伝承も調べているんだろ? 何か一つ、あんたが面白いと思うものを聞かせてくれないか?」


「構わないよ。では砂漠地帯に伝わる寓話を一つ、君に語って聞かせるとしよう」


 フォルネウスは快く頷くと、カクテルの入ったグラスを揺らしつつ語り始めた。


「──今となっては、もう遙か昔のことだが。まだ今のように荒涼たる砂の大地が広がる前のこと。聖教会による迫害から逃れて、この地へと落ち延びた者たちを抹殺すべく、天空の神ソルが強大な力を持つ一柱の天使を遣わした」


 その天使の名はアズラエル。人類創造時に多大なる貢献をしたことから、生死を司る能力をソルから与えられた黒き破壊者。


 生死を司る二対の巨大な翼を持つ黒き竜の姿で降臨した天使アズラエルは、聖教に改宗しなかった者たちに対して暴虐の限りを尽くし、瞬く間にこの地に落ち延びた者の九割が、アズラエルの持つ生死を司る力によって死滅したという。


 誰もが滅びを覚悟したその時、三日月の角を持った美しい乙女が人々を守るように舞い降り、アズラエルと激しい死闘を繰り広げた。


 その死闘は一月にも及んだとされ、最終的にアズラエルは乙女の持つ杖で胸を貫かれたことで敗北、乙女によって封印された。


 何故、乙女にアズラエルの有する生死を司る力が効かなかったのかは諸説あるが、乙女が生命の神秘を司る月の化身であったからではないかという説が、今日に於いて最も有力視されている。


 戦いが終わった後、乙女は人々に言った。アズラエルは死んだ訳ではない。彼の者にとって、此度の敗北はほんの少し行動を封じられただけに過ぎない、と。


 再びアズラエルが地上に舞い降りた時、自分はもうこの世に存在しないかもしれない。強大な力を持つアズラエルに対抗するだけの力を、今この時より蓄えなければならないだろう。


 乙女が去りし後、人々は大地より生まれ出た大精霊と契約を交わし、彼の者をアズラエルに対抗しうる最高戦力とすべく、彼の大精霊を信仰する宗教を創始した。これが後の精霊教会である。


 天使アズラエルの魔の手から人々を救った、三日月の角を持つ乙女の行方は、今も尚分かっていない。だが、今も一部の人々は彼女が再び舞い降りてくれると信じて止まない。


 その乙女のことを、人はこう呼ぶ。


 ──"三日月の魔女"アスタロト、と。


「──三日月の魔女……アスタロト……」


 フォルネウスが語り終えると、シェイドは顎に手を当てながら、小さな声でその名を呟いた。


 セラフィナが旅をしていた理由の一つが、確か彼女を見つけ出すことだった筈である。ベリアルからの伝聞で、セラフィナ本人から聞いた訳ではないので本当か否かは知らないが。


 セラフィナの胸に刻まれた"聖痕スティグマータ"の状態を緩和し、その際に彼女の養父である剣聖アレスと何らかの取り引きをしたという三日月の魔女アスタロト。だが、ベリアルから聞かされた彼女と伝承の中で語られる彼女とでは、その印象に何らかの乖離が発生しているように感じられた。


「……一つ、聞いても良いか?」


「構わないよ」


「そのアスタロトっていう乙女、助ける代わりに何らかの見返りを求めたという話はあるか?」


 シェイドの問いに対し、フォルネウスは首を横に振る。


「──ないね。私自身、彼女に直接会ったことがある訳ではないから、どんな存在なのか皆目見当も付かないけれど、少なくとも見返りを求めるという話は、伝承として存在しないのは確かだ」


「なるほど、ねぇ……ありがとう、とても良い話を聞かせてもらったよ」


 ──後で時間がある時に、セラフィナに今聞いた話を伝えるとしよう。


 シェイドが心の中でそう思いつつ伝承を語ってくれた礼を口にすると、フォルネウスは柔和な笑みを口元に湛えつつ悠然とした動きで立ち上がる。


「こちらこそ。楽しい時間をありがとう。また、世界の何処かで会えることを──心から願っているよ」


 代金を支払うと、フォルネウスはつばの広い帽子を目深に被り、リュートを携えて物悲しげな口笛と共に去ってゆく。


「……うん?」


 少しずつ遠ざかってゆくフォルネウスの背を見送っていると、シェイドはふと違和感を覚えた。


 カクテル酒の酔いが回り、それに伴って質の悪い幻覚でも見ているのだろうか。或いは、目に映る悪夢のような光景は、紛れもない真実なのだろうか。


 二の腕に鳥肌が立つのを感じる。寒くもないのに震えが止まらなくなる。自分が話していた相手は、実はとんでもない怪物だったのではないか……遠ざかる彼の背を見ていると、そう思わずにはいられなかった。


 何故なら──


 悠然と去りゆくフォルネウスの背には、蛸を思わせる不気味な黒い触手が幾本も生えており、それらが不規則にゆらゆらと蠢いていたのだから。

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