第38話 束の間の安息

 出立前夜──


 シェイドが水を口に含みつつ、ベリアルから手渡された資料に目を通していると、部屋の扉を軽くノックする音が耳に届いた。


 このような夜更けに、一体誰だろうかと訝しんでいると、ほんの少し舌足らずな聞き覚えのある声が、扉の向こう側から聞こえてきた。


「──私です。キリエです、シェイドさん」


「キリエか……どうぞ、入っても構わないよ」


 シェイドが返事をすると扉が開き、寝間着姿のキリエがグラスの乗ったトレイを携えながら、部屋の中へと入ってくる。


 少し遅れて、これまた寝間着姿のセラフィナと、マルコシアスも部屋の中へと入ってきた。てっきりもう既に彼女は就寝しているものだと思っていたシェイドは、両目をわずかに見開いた。


「意外だな……まだ起きていたのか、セラフィナ」


「……偶々だよ、シェイド。何故だか今夜に限って、思うように眠りに就くことが出来なくてね」


 シェイドと向かい合うような形で、キリエの直ぐ隣に腰を下ろすと、机の上に散らばっている資料を見つめ、セラフィナはわずかに目を細めた。


「──精が出るね、相も変わらず」


 シェイドが目を通していたのは、ベリアルたち死天衆の面々が纏めた、砂漠地帯に出没する魔族に関する資料だった。姿形、生態、急所などが簡潔かつ丁寧に纏められている。


 姿形や体色などを変化させる能力を持ち、ハイエナを装って人間の死肉を漁ったり、旅人を砂漠の奥地へ誘い込んで襲う食屍鬼グールや、炎を始めとした様々な魔術を操る獰猛なる悪鬼イフリート、涙の王国にも出没していた、人面の巨大な蝗アバドンなど、実に様々な魔族が砂漠地帯には生息している。


 中でも危険とされているのが、人間を遥かに上回る巨体を有するサソリの怪物"パピルサグ"。強固な背甲は生半可な攻撃では傷一つ付かず、大きな鋏の殺傷能力は非常に高い。それに加えて尻尾の貫徹力も高い上に、強力な猛毒まで兼ね備えている。


 アバドンとは違い、砂の中に巧妙に姿を隠し、音もなく近くにまで忍び寄ってくるため、事前に察知することが難しい難敵である。巨体に見合わず素早く動き回る点も厄介だ。


 涙の王国を調査した前回とは異なり、アモンという圧倒的強者がいるとは言え、やはり事前に現地の敵対的な存在について知っておくことは必要である。シェイドはそのように考えていた。


「──予め、現地の敵について知っておくことは確かに重要だけど、あまり根を詰め過ぎるのは、頭にも身体にも良くないよ?」


 セラフィナの言葉に同意するように、マルコシアスが傍まで音もなく駆け寄って来たかと思うと、シェイドの手を何度か軽く舐めた。


 シェイドが顔を上げると、マルコシアスは尻尾を振りながら軽く一声発してその場に座り込み、透き通った金色の瞳で彼の顔をじっと見つめる。


「……だな」


 マルコシアスの顎を優しく撫でながらシェイドが頷くと、喜色満面といった様子のキリエが、一杯のグラスを差し出してくる。


「──これは?」


「メリドラトンです、シェイドさん」


 メリドラトンとは、蜂蜜を冷水で割った飲み物である。シンプルであるが故に様々なアレンジが可能であることから非常に人気が高く、酒が苦手だという者や女子供に親しまれている。


「シェイドさんは成人していますし、ワインの方が宜しかったでしょうか?」


「──いや。酒は飲めなくはないが、そこまで好きではないから、メリドラトンで助かったよ。気を遣ってくれてありがとう」


 シェイドの言葉に安心したのか、キリエはほっと一つ小さな溜め息を吐いた。


「じゃあ──私たちは、これで。なるべく、早めに寝るんだよ? 明日は早いんだから」


「あぁ──お休み、二人とも」


 二人と一匹が扉の向こうへと姿を消すと、部屋の中は再び静寂に包まれる。キリエが持ってきてくれたメリドラトンで喉を潤しながら、シェイドは自分を気遣ってくれたセラフィナとキリエ、そしてマルコシアスに対して、"ありがとう"、と心の中で呟いた。











 同時刻、大神殿地下──


「──準備は出来ましたか、アモン?」


 鼻歌交じりに皇帝ゼノンからの差し入れである高級ワインをグラスに注ぎながら、心做しか何処か楽しげな様子のベリアルが尋ねると、アモンは無表情のままこくりと頷いた。


「……万事。抜かりなく」


「寧ろ、抜かりがあっては困るのだが……アモン?」


 バアルがデスマスクの奥よりくぐもった笑い声を漏らしつつ苦言を呈すると、アスモデウスやアザゼルも同様に不気味な笑い声を発しながら同意を示す。


「抜かりがあっても、別に構いませんよ──そんなもの、誤差の範疇ですから」


「……楽しそうだな、ベリアルよ」


「楽しいですよ。長らく、我らやハルモニアにとって目の上のこぶだった精霊教会のクズ共を根絶やしにする、絶好の機会を得られましたからね」


 病魔をもたらす熱風と蝗害を司る強大なる力を有した大精霊パズズと、彼を信仰する巫女長ラマシュトゥ率いる精霊教会。


 簒奪者ソルを信仰する聖教会との決着を付けたいハルモニアとしては、何時裏切るかも分からない精霊教会をこのまま野放しにしておくわけにはいかない。ベリアルは虎視眈々と、精霊教会に属する者たちを抹殺する機会を伺っていた。


 そんな矢先、巫女長ラマシュトゥから送られてきたパズズ降誕二千年を記念する祭儀への招待状。ベリアルにとってそれは正に、願ってもない好機だった。


 ラマシュトゥという指導者と、パズズという信仰対象を喪失すれば、精霊教会は烏合の衆も同然。内部に真正面から堂々と入り込むことが出来るのは、手間が省けるので却って有り難い。


 無論、それらがラマシュトゥの仕掛けた罠であることはベリアルも重々承知していた。故に、アモンという圧倒的強者を表向きは来賓として、その実はラマシュトゥとパズズの息の根を止める刺客として送り出すことにしたのである。


「それにしても──アモン、君も随分と言うか、かなりの物好きですね。セラフィナとその取り巻きを、従者として自らに同行させるよう願い出るとは。彼女に対して、何か思うところでもありましたか?」


「……否、特には何もない」


「……本当に、何もないのですか?」


「……うむ。何もない」


 ベリアルはワインを飲む手を止めると、アモンの顔をギロリと睨み付けながら、すっと音もなく椅子から立ち上がる。


 ベリアルの纏うオーラが一変し、アモンたちはまるで、氷を思わせる鋭利で冷たい刃を喉元に突き付けられたかの如き感覚に襲われるのを感じた。


「……嘘を吐くのは、感心しないな?」


 口元を大きく歪め不気味な笑みを湛えながら、ベリアルはゆっくりとした歩調で、アモンの元へと歩み寄る。その目は全く笑っておらず、激しい敵意と殺意が見え隠れしているのが伝わってくる。


 死天衆の他のメンバーが束になっても、ベリアルを倒すことは不可能である。何故ならば、彼は全ての天使たちの始祖とも言うべき存在だからだ。


 故に、表向きは対等な立場ではあったものの、ベリアルには決して逆らってはならない、ベリアルの逆鱗に触れてはならないという暗黙の了解が、死天衆の間には存在していた。


「私に隠し通せるとでも思ったか? アモン……お前がセラフィナやその取り巻きに対して、必要以上に肩入れしていることを。この私が知らないとでも?」


「…………」


「良いか──奴らは道具だ。我らが悲願を成就させるために必要な道具でしかない。セラフィナは器、その他は捨て駒、それ以上でも以下でもない。道具に要らぬ情を抱くなど言語道断である。分かったか?」


「……分かった。肝に銘じておこう」


 力なく頷くアモン──ベリアルはその様子を見て満足したのか、瞬く間に元の穏やかな態度へと戻った。


「──宜しい。是非、肝に銘じておいて下さい」


「……うむ」


「全く──君と言い、エリゴールと言い、何故そこまで道具如きに肩入れすることが出来るんでしょうね……私には全く、理解が出来ませんよ」


 優雅な所作で、ゆっくりとグラスに注がれたワインを飲み干すと、ベリアルは呆れたように鼻を軽く鳴らしながら嗤う。


「……失礼する」


 居た堪れなくなったアモンは素早く身を翻すと、そのまま早足で地下室を後にした。血が出るほど強く両の拳を握り締め、己の無力さを恥じながら。

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