第37話 惨憺たる晩餐
都市国家アッカド郊外──
パズズを祀った神殿を訪れたのは、清楚な衣装に身を包んだ、まだ年端もいかぬ少女だった。薄化粧の施された可愛らしい顔は恐怖に引き攣っており、華奢な手足は小刻みに震えている。
少女の来訪を待っていたかのように、神殿の奥より舞姫の如き出で立ちをした妖艶なる乙女が、二名の巫女を伴って姿を現す。
フェイスベールで口元を隠したその乙女はすらりとした長身の持ち主であり、神殿の入り口を警護する衛兵たちと比較しても殆ど背丈が変わらない。露出した手足は艶めかしく、何処か蠱惑的でさえあった。
「──待ち侘びたぞ」
少女を見下ろしながら、乙女は少し掠れた、それでいて少し離れた距離からでもはっきりと聞こえる声で言葉を発した。
「──家族との別れは、済ませたのであろうな?」
「……はい、ラマシュトゥ様」
少女は力なく頷くと、乙女──ラマシュトゥの元へと、ゆっくりとした歩調で歩み寄る。ラマシュトゥは少女の頬を慈しむように撫でると、ベールで覆い隠された口元に邪悪な笑みを浮かべながら、
「──宜しい。ほれ、喜ぶが良いぞ小娘……其方はこれから、其方の敬愛する主の一部となれるのじゃ」
神殿の最奥に佇む、巨大なパズズ像……その目の前に設置された祭壇の上へと、少女は静かに横たわる。蝋燭の薄明かりに照らし出されたパズズ像の顔は、まるで牙を剥き出しにして怒り狂っているように見える。
風向きが変わった。否……風そのものが、その在り方を大きく変容させたと言った方が良いかもしれない。
それまで吹いていた乾いた風とは異なる、何処かねっとりとした生暖かい風……少女や巫女たちの顔に、たちまち珠の如き汗が浮かび上がるも、そんな中でもラマシュトゥは一人平然としていた。
獣の如き唸り声が、神殿内に響き渡る。すぐ近くにまで迫って来ている濃厚なる死の気配に怯えているのか、少女の呼吸は徐々に浅く早くなってゆく。
ラマシュトゥが含み笑いながら、少女がその身に帯びていたパズズ像を握り潰すと同時──自分を見下ろす異形を目の当たりにした少女は、恐怖のあまり大きな悲鳴を上げた。
熱風を纏ったその異形は、神殿内に鎮座している巨像よりも遥かに巨大だった。雄々しき獅子を思わせる頭部と腕に、猛禽類を彷彿とさせる、背に生やした四枚の大きく力強い翼と脚、そして長大な蠍の尾を有する、全身が黒く塗り潰されたような外見の悍ましい怪物。
煌々と赤く光り輝く目の奥には、感情というものが一切存在しておらず、まるで塵でも見るかのように少女の顔をじっと見つめていた。
見えない力に引っ張られるかのように、少女の華奢な身体が少しずつ宙へと持ち上がってゆく。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、手足を激しくばたつかせながら、少女は大きな声で泣き叫ぶ。
怪物は少女へと顔を近付けると、牙を剥き出しにして何度か唸り声を上げる。感情が凪いでいたはずのその双眸に怒りの焔が宿ったように見えるのは、恐らく気の所為などではないだろう。
刹那──少女の四肢が、見えない力によって逆方向へと同時に捻じ曲げられた。絶叫と共に勢い良く大量の血が噴き出し、その様子を見たラマシュトゥはわずかに眉をひそめながら舌打ちをした。
「……どうやら、お気に召さなかったようじゃ」
烈火の如く怒り狂う怪物──その視線の先では、瀕死の少女が啜り泣いていた。白かった装束は赤黒い血に塗れ、名状し難い色へと変色している。逆方向に捻じ曲げられた四肢は力なく垂れ下がり、関節部からは折れた骨が、皮膚を突き破って飛び出していた。
激痛のあまりどうやら失禁してしまったようで、異臭を放ちながら、伝線した白のストッキングに覆われた少女の内腿が、徐々に黄色へと染まってゆくのが見えた。
啜り泣く少女の首が、少しずつ逆方向へと捻じ曲がってゆく。骨の砕け散る音が響いた直後、少女の身体は糸の切れた操り人形の如く、大量の血飛沫と共に力なく地面へと落下した。
怪物は見るも無惨な亡骸へと変貌した少女には目もくれず、一陣の黒い風となって、瞬く間に何処かへと飛び去っていった。
足元に転がる、少女の履いていた靴の片方を目障りだと言わんばかりに蹴り飛ばすと、ラマシュトゥは目の前で起こった惨劇に腰を抜かし、身を震わせる巫女たちを見つめながら、呆れた様子で溜め息を吐く。
「……何じゃ、其方ら。二人仲良く、小便を漏らしおって。神聖なる神殿を、其方らの汚水で穢すでないわ」
「ラ、ラマシュトゥ様……申し訳、御座いません」
「早う、着替えて参れ。臭うてかなわぬ」
鼻をつまみながら心底不愉快そうにラマシュトゥがそう言うと、巫女たちは弩にでも弾かれたように、半泣きの状態で神殿から退出していった。
数分後──半ば入れ替わるような形で、別の巫女が神殿内に姿を現す。巫女たちは何れも眉目秀麗なる生娘であるが、中でもその巫女は飛び抜けて美しい娘だった。
「──ラマシュトゥ様」
神殿内に横たわる血塗れの死体を見ても、巫女は全く動揺することなく、落ち着いた様子でラマシュトゥの元へと歩み寄る。
「誰かと思えばシェヘラザード、其方であったか」
「はい、ラマシュトゥ様」
シェヘラザードと呼ばれた巫女が恭しく頭を下げると、ラマシュトゥは表情を和らげる。
「このご様子ですと──どうやら今回の供物も、大精霊様のお気に召されなかったようですね」
「うむ──そのようじゃ。この地方の生娘には、最早飽いておるのやもしれぬの」
パズズも涙の王国の支配者だったモレク同様、加護や恩寵を与える見返りとして、供物を捧げることを要求する大精霊である。モレクとの違いを挙げるとするならば、供物の質が高ければ高いほどに、与えられる加護や恩寵の効果も大きくなるため、常に良質な供物を捧げる必要があることだろうか。
そのため、精霊教会はパズズに対して、麗しい容姿の生娘を供物として捧げる伝統を確立していた。穢れを知らぬ無垢なる乙女こそが、パズズに捧げる供物として最も良いものであるという考えが、代々受け継がれてきたのである。
今回の供物は、代々高品質な供物を輩出してきた良家の令嬢だったのだが……どうやら、パズズはお気に召さなかった様子だった。
「代わりの供物を、早く見つけねばなるまいの。このままでは、パズズの怒りは収まらぬ……最悪の場合、大規模な
まるで他人事のように呟くラマシュトゥ……実際、ラマシュトゥにとっては完全に他人事ではあった。人ならざる存在である彼女にとって、人間たちがどうなろうと知ったことではないのだから。
「──して、シェヘラザードよ。例の件については現状、どうなっておるのじゃ?」
ラマシュトゥの問いに対し、シェヘラザードは淡々とした事務的な口調で、
「──はい、ラマシュトゥ様。聖教会からは大天使ガブリエル殿、並びに聖教騎士団長レヴィ殿が、来賓として出席されるようです」
「ほぅ……中々の上玉じゃな。ハルモニアは? ベリアルの奴は、何と返事をしてきた?」
「はい……ハルモニアからは、死天衆の一柱アモン殿が出席されるとのことです」
皇帝ゼノンは引きずり出せなかったか。ラマシュトゥは面白くなさそうに鼻を鳴らす。死天衆筆頭のベリアルにはどうやら、こちらの思惑を見透かされていたらしい。
「……つくづく、厄介にして面倒な存在じゃ」
「如何なさいますか? 引き続き、ベリアル殿と交渉をなさいますか?」
「いや……これ以上の交渉は無意味じゃ。実に口惜しいが、これで妥協するしかなかろうて。それに──」
ラマシュトゥはそこで一旦言葉を区切ると、神殿最奥に鎮座するパズズの巨像を見つめながら、
「──欲をかかねば存外、向こうの方から上玉がやって来るものよ。パズズに捧ぐに相応しい、これ以上ないほどの上玉が、な」
ラマシュトゥの笑い声が、神殿内に木霊する。蝋燭の薄明かりに照らし出されたパズズ像の顔は、先ほどまでとは打って変わり、まるで不敵な笑みを湛えているように見えた。
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