第二章

第34話 聖地カナンにて

 聖教会自治領、聖地カナン──


 豪奢な法衣を纏い、腰に剣を帯びた初老の男が、数名の異端審問官を伴って大聖堂の前へと姿を現し、衛兵たちは顔を強張らせた。


 ゆったりとした衣服の上からでも、男の身体が引き締まっているのは一目瞭然であり、加えて所作の一つ一つには、一切の隙が見当たらなかった。


 その気になれば、衛兵たちを瞬時に斬り捨てることなど造作もない──そう感じさせる佇まいであった。


「……誰か!」


 震える声で衛兵が誰何すると、男は口元を不気味に歪めてニヤリと笑う。


 今にも激昂しそうな異端審問官たちをやんわりと制止すると、男は地の底から響いてくるかの如き、威圧感のある声でゆっくりと名乗りを上げた。


「──我は、枢機卿クロウリーなり。教皇聖下、並びに聖女シオン様に進言したきことがあり、参上した。そこを通してもらうぞ?」


「お、お待ち下さい、クロウリー卿!」


 平然と通り抜けようとするクロウリーを、衛兵たちは慌てて止めに入る。今は、聖教騎士団長レヴィが教皇グレゴリオや聖女シオンと謁見中……終わるまでは、何人たりとも通してはならないと、グレゴリオやシオンから命じられている。


 たとえ相手が枢機卿クロウリーであろうとも、絶対にここを通すわけにはいかなかった。


「ほぅ……我が前に、立ち塞がるか。邪魔立てすると言うのなら、容赦はせぬぞ?」


 クロウリーはくぐもった笑い声を発しながら、わずかに腰を落とし剣を按じる。


 刹那──クロウリーが音もなく抜剣すると同時に、衛兵たちの首が血飛沫を上げながら、虚しく宙を舞っていた。


 頭部を失い、その場に倒れ込んだ衛兵たちに唾を吐き捨てると、クロウリーは剣を鞘へと収めつつ、配下の異端審問官たちに指示を出す。


「──死体を片付けておけ、メイザース。この者たちは、聖教会に背いた叛逆者だ」


「──畏まりました、クロウリー卿」


 メイザースと呼ばれた異端審問官が頭を下げるのを確認すると、クロウリーは衛兵たちの死体の後始末を彼らに任せ、自らは勢い良く大聖堂の扉を開いた。


「──お取り込み中のところ、失礼しますぞ」


 突然扉を開けて入ってきた血塗れのクロウリーを見つめ、教皇グレゴリオは理解が追いつかないのかポカンと口を大きく開けており、聖女シオンは怯えた表情を浮かべながら口元を手で覆っていた。


 しかし、そんな彼らと謁見していたと思われる、聖教騎士団所属であることを示す、白い将官服を身に纏った三十代半ばほどの眉目秀麗なる女は、取り乱すこともなくクロウリーへと向き直り、猛禽類を彷彿とさせる鋭い目でギロリと、クロウリーの皺だらけの顔を睨み付けた。


「クロウリー卿、今は私が教皇聖下と謁見している最中に御座います。何故、衛兵たちを斬り捨て、斯様な形で割り込んできたのでしょうか」


「貴官の下らぬ話よりも、我の話の方が遥かに重要だからである。聖教騎士団長レヴィ、親の七光りよ」


 クロウリーに鼻で笑われても尚、レヴィと呼ばれた将官は動じることはない。


 聖教騎士団長レヴィ──聖教騎士団の全部隊を統率している才女。先代騎士団長の愛娘にして、腐敗した騎士団内部の改革を推し進めている革新派。


 剣の腕ではアレスに劣るが、総合的な実力ではアレスを凌駕すると言われるほどの傑物である。訓練兵時代のシェイドの訓練教官であり、聖教騎士になった後は直属の上司でもあった。


 睨み合いを続ける両者──今にも剣を抜き、死闘を演じそうな勢いである。


「お二方……場所を弁えて下さい。神聖なる礼拝堂の中で、殺し合いをなさるおつもりですか?」


「──必要とあらばそうしましょう。聖教会を蝕む膿を排除するのに、場所を選んでいる場合ではない」


「──同感です。尤も、聖教会を蝕む膿はそちらの方ですがね……クロウリー卿?」


 聖女シオンが諌めても、二人は彼女の言葉に全く耳を貸そうとはしない。


 教皇グレゴリオはその様子を見て震えるばかりで、諌めることが出来なかった。何故なら、クロウリーは教皇選挙権を有する枢機卿にして、聖教会内部に多大な権力を有する、文字通りの重鎮だからだ。止めようものなら間違いなく、クロウリーの根回しで自分の首が飛ぶであろう。


 二人が正に、剣を抜こうとしたその時──


「──控えなさい。枢機卿クロウリー、聖教騎士団長レヴィ。この神聖なる礼拝堂を血に染めようとするなど、主が許されるとお思いですか?」


 鈴を転がすような声が礼拝堂の中に響き渡り、二人はピクリと動きを止めた。


 眩い光を放ちながら、一人の美しい天使が礼拝堂の中へと舞い降りる。純潔の象徴たる白百合を左手に携え、彫像を思わせる顔に慈愛の笑みを湛えながら。


「大天使……ガブリエル様……」


 聖女シオンが呟くと同時、クロウリーとレヴィは天使の方へと向き直り、その場に片膝を付いて深々と頭を下げた。


 大天使ガブリエル……天使長ミカエルに次ぐ地位を持つ高位の天使にして、天空の神ソルに謁見することを特別に許された"御前の天使"の一柱でもある。


「身内同士での不毛なる諍いは、お止めなさい。貴方たちが互いに争えば争うほどに、ハルモニアはその隙を突いて力を蓄え、国力を増強させているのです。何故、そんなことも分からぬのですか。組織の重鎮ともあろう者たちが」


 ガブリエルの言葉に、クロウリーもレヴィも恐縮するばかりであった。無理もない。神の意思の代弁者たるガブリエルの言葉は即ち、天空の神ソルの言葉に他ならない。敬虔なる信徒が、信仰する神の意思に対して反論するなど、許されるはずもないのだから。


「……申し訳、御座いませぬ」


 やや不服そうに、クロウリーが謝罪の意を口にすると、ガブリエルはくすっと笑いながら、


「それで……枢機卿クロウリー。何故、斯様な騒ぎを起こしたのですか」


「はっ……教皇聖下と聖女シオン様に、ご助言を致したく思い参上しました。火急の要件でした故、割り込んででも申さねばならぬと思い」


「なるほど……貴方の言うそれは、堕天使エリゴールの率いるハルモニア帝国第三軍が、涙の王国に進駐した件についてですね?」


「仰る通り──各国から、聖教騎士団の出動を要請する声が上がっております。しかしながら、そこの腑抜けは動く様子もなく」


 腑抜けと言われ、レヴィが再び睨み付けてくるも、クロウリーは意に介することもなく、


「教皇聖下がご命じになれば、そこの腑抜けが反対しても聖教騎士団を動かすことが可能。故に、教皇聖下に聖教騎士団を動かすようご助言に参った次第」


「愚かな……敵は、ハルモニアだけではないのですよクロウリー卿。遥か東の精霊教会も、虎視眈々と聖教会の土地を狙っているのです。今、騎士団を迂闊に涙の王国方面へと動かせば、彼らは間違いなく本土へと攻め寄せて来ることでしょう」


 精霊教会は、東の砂漠地帯に住まう者たちからなる宗教勢力である。疫病と蝗害を操る強大なる大精霊パズズを守護神として信仰しており、排他的かつ独自の文化を発展させてきた。


 "最終戦争ハルマゲドン"の際も、当初彼らは静観を決め込んでおり、死天衆の参戦によって聖教会側の敗色が濃厚になった途端、ハルモニアに加担して聖教会の軍勢へと襲い掛かった。


 ある意味、明確に敵対行動を取ってくるハルモニアよりも厄介な存在であり、ハルモニア以上に警戒しなければならない相手であった。


「──精霊教会の者たちに敵意がないことが分かるまで、騎士たちを動かすわけには参りませぬ」


「では、涙の王国に隣接する諸国をみすみす見殺しにせよと言うのだな?」


「そうは申しておりませぬ、曲解しないで頂きたいクロウリー卿。迂闊に動かせぬと申しておるのです」


 二人は正に水と油……決して相容れることはない。そう判断したのか、ガブリエルが両者の言い争いに割って入る。


「では──私が実際に、この目で確かめて参りましょう。精霊教会が、我らに対して敵意を有しているのかどうか。それさえ分かれば、涙の王国方面へと、騎士団を動かせますね?」


「馬鹿な──危険過ぎます、大天使ガブリエル様。何を考えているのか分からぬ連中の元に、ガブリエル様お一人で赴くのは無謀というものです」


「──そう思うのであれば、貴方が私の護衛として付いてきて下さい、聖教騎士団長レヴィ。貴方ほどの実力者が護衛として帯同していれば、仮に彼らに敵意があったとしても私には手を出せぬでしょう」


「……御意」


 本当はそれでも不安なのだが、レヴィはそれ以上何も言わず、渋々引き下がった。ガブリエルの出した折衷案を呑まなければ、クロウリーとの不毛な争いが終わりそうもない。そう判断してのことであった。


「クロウリー、私が戻ってくるまでの間に、少しでも変な行動を起こしたら……分かっていますね?」


 ガブリエルが念を押すと、クロウリーは不満そうに鼻を鳴らしながら頷いた。


「宜しい──行きますよ、レヴィ」


「……仰せのままに、大天使ガブリエル様。聖教騎士団長レヴィ、身命を賭して貴方様をお守り致します」


 ガブリエルが差し出した右手の甲に軽くキスをすると、覚悟を決めたようにレヴィはゆっくりと顔を上げた。

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