第32話 キリエとエコー

 グノーシス辺境伯領でセラフィナたちが療養生活を始めてから、早くも十日が経過しようとしている。


 侍女のエコーは姿見の前で着替えを済ませると、まだ眠っているであろうキリエを起こすため、彼女に宛てがわれている部屋へと向かった。


 セラフィナたちが来るに当たって、エコーたちはそれぞれ話し合い、役割分担を予め決めていた。ナベリウスがシェイドのメンタルケアを、ラミアが怪我人であるセラフィナの介護や身の回りの世話を……そしてエコーが、キリエのメンタルケアと身の回りの世話を。


 キリエの居室の前まで辿り着くと、エコーは何度か扉を軽くノックした。


「──キリエ様、朝に御座います」


「…………」


 昨日までなら、部屋の中からもぞもぞと動く音が聞こえたり、やや間の抜けた声で挨拶が返ってきていたのだが、今日はやけに静かである。


 キリエの身に何かあったのだろうか。不審に思いながら、エコーは扉をゆっくりと開ける。


「…………」


 ベッドの上──寝間着姿のキリエが泣き腫らした顔で、膝を抱えて力なく座り込んでいるのが、目に飛び込んでくる。一晩中起きていたのだろうか、黒蝶真珠を思わせる艶やかな黒髪は激しく乱れており、目の下には酷い隈が出来ていた。


「キリエ、様……」


「あ……おはよう御座います、エコーさん」


 エコーが入室していることに気が付いたのか、キリエは慌てて取り繕ったような笑みを浮かべ、朗らかな声で彼女に挨拶する。


 しかしながら──明らかに無理をしている様子のキリエの姿は、やや呑気者のきらいがあるエコーから見ても、何処か痛ましい。


「……何か、嫌なことでも御座いましたか?」


 キリエの隣に腰を下ろしながら尋ねると、彼女は困ったように眉をひそめながら、首を横に振った。


「いえ……私事ですから、お構いなく。エコーさんたちにご迷惑をお掛けするわけには、いきませんから」


「そう仰られましても……ナベリウス様やセラフィナお嬢様から、貴方様のお世話を仰せつかっておりますので、無視するわけには参りませぬ。何かお悩み等が御座いましたら、私めに遠慮なく仰って下さいませ」


 キリエの華奢な手をそっと握りながら、エコーは彼女の顔を見つめてにこっと笑ってみせる。キリエは暫し逡巡している様子だったが、やがて躊躇いがちに話し始めた。


「私……セラフィナ様たちに助けて頂いて、今こうして穏やかな日々を過ごせていること、とても幸せに感じているんです。皆さん本当に優しくして下さって、毎日が楽しさに彩られていて……」


「…………」


「ですが──楽しく思うと同時に、こうも思ってしまうのです。私はこのまま、本当に幸せになっても良いのだろうか、幸せになる権利はあるのだろうか……と」


「それは……どういうことでしょうか?」


 キリエの言葉の意味が分からず、エコーは思わず首を傾げる。キリエは憂いを帯びた瞳で、自らの膝頭を見つめたまま、


「毎晩……私の枕元に、見知った顔が立つのです。ある晩はお父様、ある晩はお母様、ある晩は爺やに、またある晩は幼馴染の侍女。皆、この世の者とは思えぬ怖い顔をしながら、私を睨み付けてこう言うのです」


 ──"何故、お前だけが生きている"?


 キリエの呟いた言葉を聞き、エコーは二の腕に鳥肌が立つのを感じた。これほどまでに言葉から強い悪意を感じたことは、生まれてこの方一度もない。


「何故、何故、何故……何故お前だけが生き残り、私たちは死なねばならなかったのか。何故、咎人のお前だけが今も尚、のうのうと生き延びているのか。皆が代わる代わる枕元に現れては、私に向かって凄い剣幕でそう言うのです」


 ここまで来ると最早、呪いか何かの類ではないだろうか。キリエの話を聞きながら、エコーはそのように感じていた。


 同時に、キリエを呪う者たちに対し、激しい憤りも覚えていた。侍従たちは兎も角、生みの親まで我が子を呪いに来ているのは、どう考えてもおかしいのではないか。親であれば、子の幸せを願うのは当然だろうに、何故そのような惨いことが出来るのか。エコーにはまるで理解が出来なかった。


 エコーは、グノーシス辺境伯領でパン工房を営むゴブリンの父と、同じくパン職人である人間の母との間に生まれたハーフである。


 手先の器用さから武器職人になることが多いゴブリンという種族の中にあって、パン職人になった父は同族から異端と呼ばれていたものの、特に気にすることもなく、ひたすら誰かを喜ばせるためのパンを焼き続けているような男であった。そんな彼と、ひたむきな彼の姿に惚れた母が数年間の交際の後に結婚し、生まれてきた子がエコーであった。


 両親から無償の愛を注がれて育ったエコーは十二歳の時、アレスに侍女として雇われた。自らの養女となったセラフィナに、なるべく歳の近い従者を宛てがってやりたいというアレスの意向だった。


 勿論、当時まだ年端もいかない少女だったエコーを侍女とするに当たって、アレスはしっかりと対価を提示した。週末は必ず、エコーを生まれ育ったパン工房に帰省させること。毎日の主食であるパンを、エコーの実家で必ず買うこと。


 大人になった今でも、エコーは毎日欠かさずパンを買いに両親の元を訪れている。セラフィナお付きの侍女となり、やや疎遠になっても変わらず自分を愛してくれた両親には、感謝してもし切れない。


 そんな彼女だからこそ、キリエの話に激しい憤りを覚えたのかもしれない。我が子を呪う親など、最早親でも何でもないではないか。


「…………」


「……エコー、さん?」


 端正な顔を怒りで大きく歪めながら、急に黙り込んでしまったエコーに対し、キリエは心配そうな様子で声を掛ける。


「──宜しいでしょうか、キリエ様」


 直後──エコーはキリエを優しく抱きしめ、慈しむように背中をそっと擦りながら、穏やかな口調で、


「……悔しいですが、私にはキリエ様の苦しみは理解出来ません。種族の異なる両親から無償の愛を注がれて育った私に、我が子を呪う親の心情など到底理解出来るものではありませんから」


 ですが──と、エコーは言葉を続ける。


「──キリエ様は、幸せになることが許されない存在では御座いません。この世界では、咎人は須らく罪に塗れて堕罪者と成り果てます。若し、キリエ様が咎人であるならば、今こうして私と言葉を交わすこともなく、人知れず荒野を彷徨う醜悪なる怪物となっている筈です」


「……エコー、さん」


「貴方様は、幸せになっても良いのです。生きとし生けるものは皆、苦しむために生まれてきたわけではないのですから」


 エコーは白磁を思わせるキリエの頬に軽くキスをすると、彼女の髪を撫でながらくすっと笑った。


 その時──わずかに開いていた扉の隙間から、マルコシアスが尻尾を振りながら音もなく入ってきたかと思うと、楽しそうな鳴き声を発した。彼女の顔がニヤニヤと笑っているように見えるのは、恐らく気の所為などではないだろう。


 まさかと思い、エコーとキリエが顔を上げると……そこには無表情を維持したまま、こちらをじっと見つめているセラフィナの姿があった。


「……セラフィナお嬢様。何時から、そこにいらっしゃったのですか?」


「──君がキリエをそっと抱きしめて、優しく口説き始めた辺りから、かな。あと私の部屋は隣だから、話の内容は壁越しに全部聞こえていたよ。私の着替えを手伝ってくれたラミアが、ものすごく気まずそうな顔をしていたね」


 若しシェイド辺りが聞いたら、間違いなく何らかの誤解を招きそうなことを、セラフィナは表情一つ変えずに淡々と口にする。見る見るうちに、エコーとキリエの顔が火照ってゆく。


 そんな彼女たちの顔を交互に見やると、セラフィナは表情を和らげながら、


「もうすぐ朝食だから、早く着替えた方が良いよ」


 そう言い残すとセラフィナは身を翻し、マルコシアスを伴って悠然と去っていった。静寂に包まれたその場には、茹で蛸の如く顔を真っ赤にしたエコーとキリエだけが残される。


 朝食の準備が出来たことをナベリウスが報せに来るまで、二人はそのまま部屋の中で、恥ずかしさのあまりプルプルと身を震わせ続けたのだった。

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