第30話 シェイドとナベリウス
夜明け前──
シェイドは眠れないことに苛立ちを覚え、ベッド上で何度も寝返りを打っていた。
涙の王国をセラフィナやマルコシアスと共に調査していた時、魔族の襲来に備えて座ったまま寝ていたので、身体がそれに順応してしまったのだろう。
ベッドの寝心地はかなり良いのだが、どうにも落ち着かない。慣れるまでは暫し時間が掛かりそうだ。
「……どうしたものか」
外はまだ暗く、日が昇る気配もない。夜明けまで、屋敷の外で剣でも振ろうか。そう思った矢先──
「……うん?」
部屋の扉を軽くノックする音が聞こえ、シェイドは首を傾げる。このような時間に一体、誰だろうか。
訝しんでいると、扉の向こうから初老の男のものと思われる、やや
「──ナベリウスで御座います、シェイド殿。まだ起きていらっしゃるご様子でしたので、お声掛け致しました」
「執事さんか……こんな時間に一体、何の用だ?」
「大した用事ではありませぬが──そうですな、貴方が中々寝付けぬご様子でしたので、若し宜しければ、この私めと茶でも飲みつつ世間話でもどうかと思いまして。貴方のお口に合うかは分かりませぬが、茶菓子も幾つかご用意しております。如何でしょう、シェイド殿」
断る理由はない。ナベリウスが気を遣ってくれた可能性も考えると、寧ろ有難いとさえ思った。
「──どうぞ、入って」
「ありがとう御座います。では──」
シェイドが扉を開けると、ティートロリーと呼ばれるワゴンを押しながら、ナベリウスが部屋の中へと入ってくる。皿に丁寧に盛り付けられた焼き菓子の匂いが室内に漂い、鼻腔を程よく刺激した。
シェイドをソファーに座らせると、ナベリウスは手際良くささやかな茶会の準備を始める。
「最近は専ら、焼き菓子を作ることに夢中でして……普段ならラミアやエコーに試食してもらうのですが、生憎この時間は二人とも夢の中。些か作り過ぎたなと途方に暮れておりましたところ、貴方が起きていて下さったわけで御座います」
「……へぇ、張り切り過ぎたわけだ」
「はい、仰る通りです。少々、恥ずかしいですな」
恐らくは、寝付けないことを見越してわざわざ用意してくれたのだろう。嬉しそうに紅茶を淹れるナベリウスを見ながら、シェイドはそのようなことを考えた。
「──どうぞ、シェイド殿」
ナベリウスから差し出された、ほかほかと湯気の立ち上るティーカップ。茶を飲む際の作法が分からず逡巡していると、彼は柔和な笑みを湛えながら首を横に振った。
「礼儀や作法などは、お気になさらず。貴方の慣れた飲み方で飲めば宜しいのですよ、シェイド殿」
ナベリウスに促され、シェイドは紅茶をゆっくりと口に含む。滋味深い味わいで、思わずほっと溜め息が出る。
「うん──美味しい」
「──お口に合ったようで、何よりに御座います」
対面のソファーに腰掛け、優雅な所作で紅茶を口に含みながら、ナベリウスは顔を綻ばせた。
「ところでシェイド殿──若しかして貴方の出身は、聖地カナンではありませんかな?」
それまでの好好爺然とした態度から一変、まるで獲物を狙う捕食者のように目をすっと細めながら、ナベリウスはシェイドに問い掛ける。
「……何故、分かった?」
ティーカップをテーブルに置きながらシェイドが問い返すと、ナベリウスは口元を不気味に歪めつつ、
「言葉の訛りから判断致しました。取り敢えず、懐に忍ばせている暗器を私に投げようとするのはお止め下さい。別に取って食うつもりなど、毛頭御座いませんので」
「…………」
確かに、ナベリウスから敵意は全く感じられない。どうやら、興味本位で何となく聞いてみただけのようだ。
「しかし、聖地カナン出身であることを、貴方はセラフィナお嬢様に隠していらっしゃるご様子ですな。別に、カナン出身であることは恥ずかしいことではないと思うのですが……何故でしょうか?」
「……言ったら、セラフィナに軽蔑されるからだよ」
「──それは貴方が以前、人を殺めた経験があるということでしょうか?」
沈痛な面持ちで重々しく頷くと、シェイドはその時の出来事をナベリウスに語り始めた。
「……俺は聖地カナンの貧民街に捨てられていたところを、孤児院で働くシスターに拾われたらしい」
「らしい……覚えていらっしゃらないのですか?」
「拾われた当時まだ赤子だったから、記憶がないんだよ。拾われた俺は孤児院で育ち、十六で聖教騎士団に入った。聖教騎士団は身分を問わず迎え入れてくれるし、給料も悪くないから、世話になった孤児院に仕送りという形で恩を返せると思ったんだ」
紅茶をゆっくり口に含むと、シェイドは話を続ける。ナベリウスは興味津々といった様子で、シェイドの話に耳を傾けていた。
「魔術は苦手だったが、その代わりに武器や素手での対人戦は得意だった。孤児院育ちってことで貴族出身の連中からは高頻度で嫌がらせを受けたが……聖教騎士団は実力至上主義の組織だから、模擬戦で何度も叩きのめしたら、誰も何も言ってこなくなった」
「ふむ……」
「十八の時に、訓練期間を終えた俺は、晴れて聖教騎士になった。思えばあの頃が、人生で最も幸せな瞬間だったかもな……事件が起きたのは、その四年後だ──」
ある時、何時ものようにシェイドが貧民街を巡回していた際、魔女の嫌疑を掛けられた若い女が、異端審問官に連行されそうになっていた。
巡回時に良く顔を合わせていたその女は、天空の神ソルへの信仰厚く、とてもではないが魔女とは思えなかった。
シェイドは異端審問官を説得し、彼女の潔白を証明しようとしたが、周囲にいた貧民たちが示し合わせたかの如く次々に女が魔女だと糾弾したため、異端審問官はそのまま女を連行しようとした。
尚も食い下がるシェイドに対して徐々に苛立ちを覚えたのか、異端審問官は突然剣を抜き、シェイドに襲い掛かった。
周囲に人が大勢いる状況にも関わらず剣を振るう異端審問官を止めるべく、シェイドはやむなく剣を抜いて応戦し……相手が相応の実力者だったこともあって、本気の殺し合いへと発展した。
シェイドが正気に戻った時には既に、相手は血の海の中で目を見開いたまま倒れ伏しており、二度と起き上がることはなかった。
シェイドが異端審問官を殺害した件は当然問題となり、異端審問官たちを率いる聖教会の重鎮クロウリーは、シェイドの死刑を求刑し、それに対して聖教騎士団長レヴィがシェイドの行動は正当防衛として無罪を主張した。
この問題は結局、聖女シオンと教皇グレゴリオ、そして天使長ミカエルと大天使ガブリエルの介入によって、女に掛けられていた魔女の嫌疑がデマだったこと、異端審問官が貧民街を取り仕切る男から賄賂を受け取っていたことなどが明らかとなり、シェイドの正当防衛が認められ無罪となった。
だが──クロウリーはそれを不服に思っていた。そして思わぬ凶行に走ったのだ。
解放された後、シェイドは聖教騎士団長レヴィから休養を命じられ、自らが育った孤児院へと向かった。
そこで目にしたのは──見るも無惨な姿に変わり果ててしまった恩人や幼馴染、そして弟妹のように可愛がっていた孤児たちの姿だった。
シェイドの処遇を不服に思ったクロウリーが、異端審問官たちを孤児院へと差し向け、筆舌に尽くし難い拷問を加えた後に皆殺しにしたのだ。
シェイドは声を上げて泣いた。涙が枯れ果てるまで泣き続けた。そして涙が枯れ果てた後──彼は死に場所を求めて、聖地カナンを去った。
「……その後、俺は辺境の村で行き倒れていたところをシスターや村人たちに救われて、彼らに恩を返すために自警団の真似事をしていた。それから二年が経ったあの日……俺はセラフィナと出逢った」
「……なるほど、それはそれは」
話を聞き終えたナベリウスは、大きな溜め息を吐くと、
「私も先の大戦で聖教会側として参戦し、上からの命令で多くのハルモニア人を殺しました。何十人、或いは何百人かも知れません。殺した中には、武器を持たぬ女子供も含まれております」
「…………」
「アレス様もそうです。あの御方も上からの命令で、数え切れないほどのハルモニア人を殺しました。ですが、やむを得なかった。若しくは不可抗力と言い換えることも出来ましょう。故にあの御方も私も許され、ハルモニアに受け入れられました」
ナベリウスにそっと手を握られ、シェイドは顔を上げた。
「シェイド殿──セラフィナお嬢様は、確かに殺人を禁忌とお考えになられている御方です。ですが、貴方のそれは不可抗力だった……正当防衛だったのです。それを責めるほど、お嬢様は狭量な御方では御座いませぬ」
「……ナベ、リウス」
「先程お話した際に、セラフィナお嬢様は貴方のことを友と仰っておりました。苦楽を共にした朋友であると。その言葉に嘘偽りはありますまい。友がその昔、不可抗力で禁忌を犯したとお知りになられたとて、軽蔑はなさらぬでしょう」
だからと言って、無理に話す必要はない。何時の日か気持ちの整理が付いたなら、その時に話してやって欲しい。ナベリウスはそう付け加えると、優しく微笑んだ。
「──おや、日が昇りましたな」
「……あぁ。そうだな」
気が付くと夜が明け、少しずつ日が昇り始めていた。どうやらかなりの時間、ナベリウスと話していたらしい。
「では、私はこれで──朝食が出来ましたらお呼びしますので、それまでごゆっくりお寛ぎ下さい」
「……ナベリウス」
「はい──何でしょうか、シェイド殿」
「──ありがとう。色々吐き出せて、少し楽になったよ」
シェイドが表情を和らげながらそう言うと、ナベリウスもまた満面の笑みを浮かべ、手際良く片付けを済ませて部屋から去っていった。
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