第29話 グノーシス辺境伯領への帰還
その日の深夜──
ゼノンから一月の療養を命じられたセラフィナたちは、ドラゴンに乗ってグノーシス辺境伯領へと向かっていた。
「アモン──グノーシス辺境伯領までは、あとどれくらい時間が掛かるんだ?」
大きな欠伸をするマルコシアスの毛繕いをしてやりつつシェイドがそう尋ねると、アモンはドラゴンに軽く鞭を入れながら、
「うむ──このまま、北西に小一時間ほど進めばグノーシス辺境伯領に入るぞ、シェイドよ」
セラフィナは左腕を負傷しているため、同行しているアモンが代わりにドラゴンを御し、領主の館まで彼女たちを送り届けることになっている。
流石は、上位魔族たちを統率する死天衆のメンバーと言ったところか。慣れた手付きでドラゴンを御するその姿は、驚くほど様になっていた。
「……出来れば、戻りたくはなかったんだけどね。何一つ、目的を果たせていないし」
自らの膝の上で、母に抱かれた幼子のような顔をして静かな寝息を立てているキリエの髪を優しく撫でながら、セラフィナはほっと一つ溜め息を吐く。どうやら彼女は、キリエにすっかり懐かれてしまったらしい。
三角巾で固定された左腕が、何とも痛々しい。その傷はシェムハザ率いる、グリゴリの天使たちとの戦闘で負ったものだ。剣で深々と斬られた際に筋肉の一部が断裂してしまったとのことで、暫くはまともに動かせないと聞かされている。
「そう言うな、セラフィナ……君の気持ちは分からんでもないが、その身体でアレスの行方を追うのは無謀と言うもの。ゆっくりと身を休めるのも重要だ」
アモンに窘められ、セラフィナは再度溜め息を吐いた。早くアレスを見つけ出したい彼女としては、涙の王国の件と言い、今回の療養と言い、とんでもない遠回りをさせられている気分なのだろう。
無表情ではあったものの相当苛立っているのが、向かい合って座っているシェイドにも伝わってくる。周囲に当たり散らさないのが幸いだが、若し怒りが臨界点を超えて爆発したらどうなってしまうのか、気が気でない。
「……なぁ、セラフィナ。グノーシス辺境伯領って、一体どんな場所なんだ?」
恐る恐るシェイドが尋ねると、
「……そうだね。元は、聖教会の迫害を受けたとある宗教学者がハルモニアから与えられた領地。グノーシスと呼ばれるようになったのも、領主が元宗教学者……つまり、知識の探求者であったことに由来しているね」
寝ているキリエの頭を慈しむように右手で撫でながら、セラフィナは淡々とした調子で言葉を紡ぐ。
「残念ながら領主は子宝に恵まれず、彼が亡くなった後は暫く領主不在の状態が続いていたんだけど……丁度その時だったかな、聖地カナンからハルモニアへと剣聖アレスが亡命してきてね。ベリアルの意向と領民たちの希望もあって、彼がそのまま二代目のグノーシス辺境伯に封じられたってわけ」
「……意外と、歴史的には新しいんだな」
「まぁ、そうだね。人口は確か……私がハルモニアを飛び出す前は、五百人くらいだったかな。領民の中にはゴブリンやエルフもいるから、色々と話を聞いてみると良いよ」
「話、ねぇ……鍛冶屋はあるのか?」
シェイドの問いに対し、セラフィナはこくりと頷く。
「腕の良いゴブリンの鍛冶師がいるよ。私の愛剣も実は、彼に依頼して打ってもらった特注品なんだ。若し新しい武器が欲しいと思ったら、遠慮なく私に言って。お金は幾らでも出してあげるから、君好みの武器を作ってもらうと良いよ」
「いや、それは流石に申し訳ないから……自費で、剣を打ち直してもらうよ」
実際シェイドは護衛の達成報酬として、ベリアルから結構な金額の報酬を受け取っていた。護衛対象であるセラフィナを負傷させてしまったので若干差し引かれたものの、それでも暫くは生活に困らぬほどの大金だ。
──"今後とも宜しく"。
そう言いながら握手を求め、白い歯を見せてにこりと笑うベリアルの端正な顔が脳裏を過ぎる。思い出すだけで、全身に悪寒が走り鳥肌が立った。
「……どうか、した?」
「いや……何でもない」
慌てて作り笑いを浮かべながら、シェイドは誤魔化す。ただでさえ苛立っているセラフィナに向かって、ベリアルの顔を思い出して鳥肌が立ったなどと言おうものなら、彼女の怒りが臨界点を超えかねない。
「ふぅん……なら、良いけど」
「──見えてきたぞ」
アモンの指差す方へと視線を向けると、周囲を森林や小川といった自然に囲まれた、
時間帯が深夜ということもあって、灯りの点いている家は殆どないものの、周囲にマゴットなどの魔族が跋扈している様子もなく、深夜徘徊するような不審者も見当たらない。
かなり治安が安定しているであろうことが、眼前に広がる穏やかな風景から見て取れた。
「これが、グノーシス辺境伯領か……」
グノーシス辺境伯領……セラフィナが育った場所。帝都アルカディアの荘厳さとは、また違った趣を感じさせる。
「──結構、良い場所だと思わない?」
「あぁ……思う」
ドラゴンは大きく旋回すると、街の郊外──小高い丘の上にある屋敷の門前へと着陸した。
門が開くと同時に、黒い燕尾服を身に纏った白髪交じりの初老の紳士が、二人の侍女を引き連れて歩いてくるのが見えた。
「──お帰りなさいませ、セラフィナお嬢様」
シェイドやアモンの手を借りつつ、ドラゴンの背から降りたセラフィナの顔を見つめると、紳士たちは胸に手を当てながら恭しく頭を下げた。
「わざわざ、出迎えてくれなくても良かったのに……」
「そうはいきませぬ。折角、お嬢様がご帰還なされたのですから。主人を出迎えるのは、従者たる我らにとって当然のことに御座います」
紳士は表情を和らげると、俯くセラフィナの頭を優しく撫でた。
「うん……ありがと、ナベリウス」
「──ではこれで、私は帝都に戻らせてもらう。セラフィナたちのことを、宜しく頼むぞナベリウス」
「畏まりました、アモン様。どうか、お気を付けて」
ナベリウスと呼ばれた紳士が頷くのを確認すると、アモンはドラゴンに軽く鞭を入れ、転移魔法で瞬く間にその場から姿を消した。
アモンが去ると、セラフィナは眠っているキリエと、そんな彼女を抱きかかえているシェイドを、ナベリウスたちと対面させる。
「紹介するね、シェイド。彼は、執事のナベリウス。本来は巨大な鴉の姿をしている堕天使だけど、そのままの姿だと不便だから人間に変身してもらっている」
「ナベリウスと申します、シェイド殿。こちらでお過ごしになられる上で何かご不便がありましたら、遠慮なく何なりとお申し付け下さい」
恭しく頭を下げるナベリウスに対し、慌ててシェイドも頭を下げる。所作から察するに彼は、セラフィナの養育係だったのだろうか。鷹の如き鋭い目をしているが、その奥には慈愛に満ちた暖かな光を宿していた。
「それで──ナベリウスの後ろに控えているのが、侍女のラミアとエコー。背が高くて耳が尖っているのがラミアで、小柄で少し鼻が高いのがエコー。基本的に家事や身の回りのことは、彼女たちがやってくれるから。何か困ったことがあったら、遠慮なく彼女たちに言ってね」
ラミアは純血のエルフ、エコーはゴブリンと人間のハーフだろうか。両方ともタイプは異なれど、かなりの美人であった。
服装は二人とも、ぴったりとした濃紺のロングワンピースに白いエプロン、足には厚手の白いストッキングと黒のストラップシューズを履いていた。見た目より動きやすさを重視した、地味で落ち着いた雰囲気の仕事着である。
二人はナベリウスに促されると前に進み出て、ワンピースの裾を手でつまみ、足を軽く交差させながら、シェイドに対して優雅にお辞儀をした。
「……侍女のラミアと申します。以後、お見知りおきを」
「同じく、エコーと申します。何かお困りになられましたら、遠慮なく私どもを頼って下さいませ」
「……あぁ、宜しく」
シェイドが頭を下げると、ラミアとエコーはにこりと笑みを浮かべながら彼の元へと歩み寄り、ラミアが手荷物を、エコーが眠っているキリエをそれぞれ回収する。
「あの、ちょっと……」
困惑するシェイドを余所に、ナベリウスはセラフィナの肩にそっと手を置きながら、
「積もる話も色々と御座いますでしょうが──まずは、ごゆっくりとお身体をお休めになられては如何でしょう?」
「……そうだね。お言葉に甘えて、休ませてもらおうかな」
「シェイド殿も、宜しいですかな?」
「あ、あぁ……」
「では、お部屋へとご案内します。どうぞ、こちらへ」
ナベリウスたちに案内され、セラフィナたちは屋敷の敷地内へと足を踏み入れる。
セラフィナの育った故郷である、グノーシス辺境伯領での一ヶ月間の療養生活は、こうして始まったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます