第22話 決戦の刻、迫る

 地下へと通じる螺旋階段を、堕天使ベルフェゴールは無言で黙々と降りてゆく。ただ足音だけをコツコツと虚しく響かせながら、ゆっくりと、ゆっくりと。


 度重なる実験ですっかり痩せ細り、最早骨と皮しか存在しないその両腕には、まだ目を覚まさぬ第一王女キリエがしっかりと抱かれていた。


「…………」


 シェムハザ率いるグリゴリの天使たち……彼らが、大精霊モレクの封印を解き、支配下に置いたのは全くの想定外だった。モレクの放った火球により、一瞬にしてこの世から焼滅してしまった王都近郊の街並みの様子を思い出し、ベルフェゴールの表情は暗くなる。


 若し、グリゴリの天使たちがモレクを支配下に置いたことを知らないまま、彼らと矛を交えていたならば、キリエの身を危険に晒していたかもしれない。


 事前に知ることが出来たのは僥倖と言えたが、それと同時にグリゴリに対する自らの認識の甘さをこれでもかと痛感させられた。


 城地下に存在する拷問部屋……その中央に位置する台座に、慎重な手付きでキリエの華奢な身体を横たえる。ここならば流石に、モレクの火球も届かないだろう。


 勿論、爆発に伴う振動で壁や天井が崩落する恐れはあるのだが。その対策も既に、ベルフェゴールは編み出していた。


「──"水よ、彼の者の身を護り給え"」


 ベルフェゴールがキリエの身に手をかざすと、仄かで暖かな光を放ちながら、水で出来た防御結界が構築される。わずか数秒ほどで、キリエの周囲には幾重もの強力な水のヴェールが形成された。


「……些か、寝心地は悪いだろうが、今はこれで我慢して欲しい、キリエ。お前の身に、何かが起こってからでは余りにも遅い……私はあの日、それを痛感させられたのだ。変わり果てた姿で、床に倒れ伏すお前を見て、な」


 キリエの身体にそっと毛布を被せ、黒蝶真珠を思わせる艶やかな前髪を優しく撫でながら、ベルフェゴールは悲しそうな笑みを湛えつつポツリと呟く。


「お前の身に降り掛かる火の粉は全て、この私が払おう。それがお前に対する私なりの恩返しであり、贖罪だ。私を匿ったことでお前は、咎人として罪に問われ、苦しむことになってしまったのだから」


 聖教徒にしては色白な、白磁を思わせるキリエの頬に手の甲で触れると、ベルフェゴールは身を翻し、悠然とした動きで城地下の拷問部屋を後にした。


 そのまま城の外へ出ると、ベルフェゴールは遠くに聳え立つ巨大な砂時計をじっと見つめる。


「──砂時計よ。どうか、この哀れで惨めな、地を這う虫けらの如きベルフェゴールに教えて欲しい。一体、終末まであと何年掛かる?」


 終末までの時を刻む"崩壊の砂時計"は、ベルフェゴールの問いに答えることはなく、黙々と時を刻み続けている。


 ベルフェゴールは確信していた。殆ど残滓と化した自らの魂は、間もなくこの世から消滅するであろうと。モレクを従えたグリゴリの天使たちと、ハルモニアから来たる刺客、その何方も相手にして勝てる可能性は、極めて低い。よしんば勝てたとしても、恐らくは生き残れないだろう。


 それでも、やるしかない。意識の戻らぬキリエの身を守ってやれるのは、自分だけなのだから。孤独なキリエの身に降り掛かる火の粉を払ってやれるのはもう、彼女と唯一接点を有する自分しかいないのだから。


 だが──


「……私が消滅したら、一体誰がキリエを守るのだ?」


 ふと、そんな思いが脳裏を過ぎる。自分が消滅したら、結局キリエは名実ともに孤立無援となる。彼女を護るために形成した防御結界とて、何時まで維持出来るのかは不明だ。魔族が入って来ないとも限らない。


 もし自分が消滅し、防御結界も消失したら──


 その時、ベルフェゴールはハッと顔を上げる。信じられないと言わんばかりに、大きく目を見開きながら。


「──まさか、私は選択を間違えていたのか? キリエを蘇生させようとしたのは、間違っていたのか?」


 命の恩人が死ぬのは間違っている──そう思い、ベルフェゴールはキリエの蘇生に心血を注いだ。自らの魂を、大きくすり減らしてまで。


 自らのエゴだとは分かっていた。服毒自殺という形で、キリエは死ぬことを選んだのだ。蘇生することなど、彼女は微塵も望んではいないだろう。


 蘇生したところで、自分以外の人間全てが死に絶えた氷の大地に一人放り出されるキリエの気持ちを、果たして自分は考えていただろうか。


「…………!」


 結局自分は、何も考えていなかった。善良なる者が死ぬのは間違っているという、短絡的かつ独善的とも言える正義感から、瀕死のキリエを蘇生させるという、最低最悪の選択肢を選んでしまったのだ。


 怒りが、沸々と湧き上がってくる。それは紛れもなく、自分自身への怒りだった。キリエのことを結局、何一つ考えていなかったことに対する怒り、自らの独善的なエゴで彼女を蘇生させようとしたことに対する怒り。


 その怒りが、残り滓と化した彼の魂に共鳴したのだろう。


 晴れていた空が、瞬く間に曇ってゆく。風向きが変化したかと思うと、それまで穏やかだった風が少しずつ強くなってゆく。


 暗雲より雷鳴が轟き、風の慟哭が木霊する。


「──私は、私が嫌いだ」


 力なく項垂れたまま、ベルフェゴールは低い声で呟く。わなわなと痩せ細った身体を大きく震わせながら。


「互いを傷付け合う醜い人間たちが嫌いだ。我欲のために世界を混沌に陥れるソルが嫌いだ。沈黙して何も語らぬシェオルが嫌いだ。ソルに従う天使たちが嫌いだ。シェオルに従う死天衆と堕天使たちが嫌いだ──」


 まるで呪詛を唱えるかのように、ベルフェゴールはひたすら呟き続ける。その身に黒いオーラを纏い、負の感情を露わにしながら。


「──罪に塗れ、大きく歪んだこの世界が大嫌いだ」


 ベルフェゴールの激情に呼応するかの如く、暴風が哭き声を発しながら吹き荒れて、廃墟と化した家々を次々と薙ぎ倒してゆく。


「キリエの身を脅かす者は、全て消し去るのみ──」


 暴風が治まり、瓦礫の山へと変貌した王都……暗雲渦巻く天より、ひらひらと白い雪が舞い降りる。そんな中、ベルフェゴールはくぐもった笑い声を発しながら、ゆっくりと顔を上げた。


「──私もろとも、な」


 やつれたその顔は、名状し難い狂気に彩られていた。


 新月の夜を乗り越えたセラフィナたち……大精霊モレクを支配下に置いた、シェムハザ率いるグリゴリの天使たち二百余名……そして"人間嫌い"ベルフェゴール。決戦の刻は、直ぐそこまで迫っていた。

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