第21話 目覚め、そして

 セラフィナは、暗澹たる暗闇の中にいた。底の見えぬ純黒の泥濘に足を取られ、思うように身動きが取れない。


 スティグマータからの出血が起こる新月の夜にのみ見てしまう、何とも虚しく寂しい夢だ。


「……はぁ」


 夢の中なので当たり前だが、一緒にいるはずのシェイドもマルコシアスも、その姿は見当たらない。自分しか存在しない闇の世界……気が狂ってしまいそうになる。


 いっそのこと、泥濘の中に身を横たえ、全てを委ねてしまえば遍く苦痛から解き放たれ、楽になれるのだろうかとも考える。安らかなる死の眠りに就けるのではないかと、そのような考えが心の中を少しずつ満たしてゆく。


「……駄目だと、頭では分かってはいる。でも──」


 この世は辛く、そして残酷だ。終末が迫り来るこの世界で生きていてもただ、虚しいだけ。生きている限り、満たされることは決してないのだから。


「──私は何故、生きているんだろう?」


 何故、自分は異質なスティグマータを宿し、その痛みに悶え、苦しまなければいけないのだろう。自分が一体、何をしたというのだろうか。


 何らかの罪を犯した記憶はない。ただ生きている……それだけだと言うのに、何故なのか。先の見えぬ闇の中、セラフィナは心の中で自問自答を繰り返す。


 何故、何故、何故……そうしているうちに、セラフィナは或る一つの恐ろしい考えに辿り着いた。その考えに辿り着いたのは一度や二度だけではない。それは、自己の存在理由を求めた際に、必ずと言っても良いほど辿り着く考えだった。


「……まさか、この世に存在するだけで罪だなんて……そんな筈はないよね?」


 若し、その考えが罷り通るのであれば、生きとし生けるものが生まれながらにして皆、その身に罪を背負っているということになってしまう。


 だが、仮に若しそうであるならば、この世界の創造者たる神は何故こんなにも、罪に塗れた歪で醜い世界を創り上げたのだろう。そもそもの話、罪とは一体何なのだろう。一体誰が、罪なる概念を定義したのだろう。


 分からない。分からない。分からない。分からない。何もかもが分からない。


「……私には、分からない。お願い──誰か、教えてよ」


 そう呟いた直後──眩い光に包まれたかと思うと、セラフィナの意識は現世へと舞い戻っていた。


「…………?」


 鳥のさえずりが耳に届き、セラフィナはゆっくりと瞼を開いた。ちょうど夜明けを迎えたのか、窓からは暖かな陽光が射し込み、空が徐々に明るくなってゆくのが見える。


 貧血で頭がぼうっとしているが、スティグマータから発せられる痛みは消え失せ、出血も止まったようだった。


 セラフィナが目覚めたことに気が付いたのか、枕元の椅子に腰掛けているシェイドが、溜め息と共に安堵の笑みを浮かべる。一晩中セラフィナを守り続けていたのか、衣服は魔族や堕罪者の返り血に塗れており、切れ長の目の下には酷い隈が出来ていた。


 彼の足元では、疲れた様子のマルコシアスが寝そべり、静かな寝息を立てていた。艶やかな体毛にべったりと付着した返り血から、彼女もまたシェイドと共に、一晩中魔族や堕罪者を相手に奮戦したであろう様子が見て取れた。


「……おはよう、セラフィナ」


「うん……おはよう、シェイド」


 シェイドの左腕には包帯が巻かれ、赤黒い血がじんわりと滲んでいる。セラフィナの視線に気付いたのか、シェイドはわざとらしく左腕を何度か振ってみせた。


「大丈夫だ。出血の割に、傷は深くない。恐らく傷痕も残らないだろうから、心配しなくても良い」


「……なら、良いけど。ねぇ、シェイド」


「何だ、セラフィナ?」


 セラフィナはやつれた顔に精一杯の笑みを浮かべると、シェイドの手をそっと握りしめながら感謝の意を口にした。


「ありがとう──夜が明けるまで、私を守ってくれて」











 同時刻──涙の王国、王都近郊。


 堕罪者や魔族たちの跋扈する地上を睥睨し、天使シェムハザは不快そうに眉をひそめる。


「おお、何と悍ましい……偉大なる我らが主ソルの所有物たるこの世界に、斯くも醜悪なる者たちが存在している。その事実が堪らなく悍ましい。だが──」


 だが──だからこそ、都合が良い。支配下に置いた"母の涙と子の血に塗れし魔王"モレクの力を試すのに。これほど都合の良い場所はないだろう。


「シェムハザ様、準備が整いました」


「宜しい──始めよう」


 シェムハザが指を鳴らすと、空中に正五芒星状の巨大な魔法陣が姿を現す。その中より、手足を鎖で拘束された異形の巨獣、大精霊モレクが唸り声とともに顕現した。


 モレクは口から涎を垂らし、理性の光が失われた虚ろな目で地上を見下ろす。死の国と化した、自らの箱庭を。嘗て自分が気まぐれな親切心から、加護を与えて豊かにした大地の成れの果てを。


「さぁ……お前の力を見せてみよ、大魔縁モレク」


 シェムハザが再度指を鳴らすと、強烈な電撃が鎖を伝ってモレクに襲い掛かる。モレクは苦痛に呻きながら、無数の牙を生やしたその口を少しずつ開いていった。


 何と形容すれば良いのか分からぬ強大な力の奔流が、モレクの口の中へと収束してゆく。


 刹那──モレクの口から巨大な火球が音もなく撃ち出されたかと思うと、地上が爆炎に包まれる。断末魔の叫びを上げることすら許されぬまま、魔族や堕罪者たちが瞬く間に、文字通り跡形もなく次々と焼失してゆく。


 まるで活火山が大噴火したかのような、大きなキノコ雲が轟音と共に遥かなる天へと立ち上る。着弾した地点には広大なクレーターが刻まれ、今も尚煌々と焔が燃え盛っていた。


 モレクの放った巨大な火球は、王都近郊にあった街一つを、易々とこの世から焼滅させてしまったのだ。部下であるグリゴリの天使たちがその威力に恐れ慄く中、シェムハザは余裕綽々たる態度で満足そうに何度も頷く。


「ふむ……上出来ではないか」


 これだけの威力があれば、叛逆者ベルフェゴールやハルモニアからの刺客が如何に強しと言えども、流石に無事では済まないだろう。計画が頓挫した場合の、二の矢三の矢としては十二分と言える。


 尤も──使わないに越したことはないのだが。


 鎖の拘束から逃れようとするモレクを睨みながら、シェムハザは忌々しそうに舌打ちをする。精神を破壊しても尚、思うように制御がままならない。


「私の力量が不足しているのか、将又お前が強過ぎるのか」


 前者でも後者でも別に構わないのだが、制御面で不安が残るのは大問題だ。若し暴走でもして、こちら側に火球を撃ち込んでこようものなら、グリゴリを構成する天使たち二百余名全員が、仲良くこの世から焼滅する恐れがある。


 結果次第では別の用途も視野に入れていたのだが、不安要素がある以上、モレクを奥の手にするのは流石に、危険が過ぎる。


「やはり、当初の予定通り、漁夫の利を狙うか」


「うむ──それが一番、無難な選択であろうな」


 シェムハザの呟きを聞いていたのか、彼の隣に控えていた副官たちが我も我もと同意を示す。


 叛逆者ベルフェゴールとハルモニアから来たる刺客──セラフィナたちを相争わせて、両者が疲弊したところでグリゴリが介入する。双方を討ち取ることが出来れば、涙の王国の大地は再び聖教会の……天空の神ソルの元へと戻ってくる。


「真なる世界の創造主は、我らが主たる天空神ソルのみ。世に神は二人と要らぬ。叛逆者ベルフェゴールよ、そして死天衆の犬どもよ、審判の時は近い。我らが怒り、そして天に坐す我らが主ソルの怒りが、大いなる神罰となりてお前たちに降り注ぐであろう」


 モレクの撃ち出した火球によって、未だ煌々と燃え盛る街並みを見下ろしながら、シェムハザと彼に付き従う副官たちはニヤリと、口元を不気味に歪めて笑みを零した。


 蜃気楼の如く、不規則に輪郭を変える巨大な砂時計は、そんな彼らを嘲笑うかのように、終末までの残り時間を無音で淡々と刻み続けていた。

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