第20話 受難の時、来たれり
それから数日が経過した、ある日の夕刻──
セラフィナたちは、本来の進路から少し外れた位置にある廃村に立ち寄っていた。立ち寄った理由は決して、調査のためなどではない。それには、やむにやまれぬ事情があった。
「……しっかりしろ、セラフィナ」
ぐったりとした様子のセラフィナを抱きかかえ、他の家々と比較すると状態の良い民家の中へと、シェイドは足を踏み入れた。
そのまま彼女をベッド上に横たえると、シェイドは彼女の履いているブーツを脱がし、厚手の白いストッキングに包まれた足裏を軽く手で払いながら、
「身を起こせるか、セラフィナ?」
「……うん。まだ、何とか」
緩慢な動作で身を起こしたのを確認すると、シェイドは外にある馬そりへと急ぎ、包帯と血止め草を鞄に入れ、井戸の水を汲んで、再びセラフィナの待つ民家へと戻った。
鞄から取り出した血止め草の葉を絞り、傷口に塗るための生汁を抽出する。粗方、血止め草の生汁を抽出し終えると、シェイドはベッドへと素早く歩み寄り、努めて穏やかな口調で、セラフィナに優しく声を掛けた。
「すまない……上衣を脱いでくれないか、セラフィナ」
「…………」
セラフィナは苦悶の表情を浮かべながら、覚束ない手付きでマントと上衣を脱ぐ。
上衣の下から露わになったのは、彫像を思わせる美しい身体だった。小振りながらも形の整った乳房、くっきりとした腰のくびれ、やや肉付きが悪かったものの、それでも十二分に魅力的と言えた。白磁を思わせる肌の上を、透き通った冷汗が音もなく伝う様は耽美的でさえあった。
そして、左の乳房の少し上に
──"
夕刻ということもあり、仄かに光を放ちながらスティグマータはその傷口を容赦なく開こうとしていた。
「……塗るぞ、セラフィナ」
やむを得ないとはいえ、彼女の半裸を見てしまったことを心の中で詫びつつ、シェイドは絞りたての血止め草の生汁を慎重な手付きで、彼女の左胸にあるスティグマータにゆっくりと塗り付ける。
「んっ……!!」
セラフィナの顔が、瞬く間に苦痛に歪む。必死に悲鳴を押し殺してはいるものの、かなりの激痛が全身を駆け巡っているであろうことは、想像に難くない。
「……頑張れ、セラフィナ。もう少しだ」
血止め草の生汁を塗り終えると、シェイドはそのまま包帯で丁寧にセラフィナの胸を覆ってゆく。彼女の今にも絶えてしまいそうな弱々しい吐息が顔に掛かる度、甘い匂いが鼻腔を刺激する。
「……終わったぞ、セラフィナ」
「……うん。ありがと、シェイド」
ベッドに再び横たわり、シェイドの顔を見つめながら、セラフィナは可愛らしい顔に弱々しい笑みを浮かべる。早くも胸に巻かれた包帯には、正五芒星状の血の染みが浮かび上がりつつあった。
応急処置が終わったことを察したのだろう。外にいたマルコシアスが、毛布を咥えて駆け寄ってくる。シェイドはそれを受け取ると、セラフィナの身体の上にそっと被せてやり、水で濡らしたタオルで、冷汗の浮かぶセラフィナの顔や腕などを丁寧に拭ってゆく。
「……こうしていると、小さい頃のことを思い出すよ」
悲しげな鳴き声を発するマルコシアスの頭を優しく撫でながら、セラフィナはか細い声でそう呟く。
「あの人も……今の君みたいに、私がスティグマータからの出血に苦しんでいた時、傍にいてくれたんだ……夜が明けるまでずっと、ずっと」
「……そうか。良い父親だったんだな」
「うん……血の繋がりは、なかったけど……優しくて、頼りになる、最高の父親だった。ねぇ、シェイド……」
「……何だ?」
「君、は……あの人みたいに、養父みたいに居なくならないよね……?」
小さな手を、シェイドへと伸ばすセラフィナ……その手をそっと握りしめながら、シェイドは作り笑いを浮かべて頷く。
「君を守るのが、俺の仕事だ。勝手に居なくなるものか」
「本、当……?」
唸り声が、外から聞こえてくる。声から察するに、恐らくは堕罪者だろうか。
セラフィナの血の匂いを嗅ぎ付けたのか、少しずつ声と足音が近付いてくる。
「シェイ、ド……」
「安心しろ──直ぐに戻る」
セラフィナの前髪を優しく撫でると、シェイドは民家の外へと飛び出した。
見立て通り、一体の堕罪者が窓から民家を覗き込もうとしているのが目に映り込む。既に日は沈み、夜の帳が降りつつあった。セラフィナがスティグマータからの出血により、全く身動きの取れない無防備状態となる忌まわしい夜──新月の夜がやって来た。
「させねぇよ──クソ野郎が」
馬そりに乗せてあった銃を素早く手にすると、シェイドは迷うことなく堕罪者の顔目掛けて発砲する。正確に放たれた銃弾は堕罪者の右目を撃ち抜き、堕罪者は血の溢れ出る右目を抑えて金切り声を発する。
シェイドは銃を放って抜剣すると、そのまま一陣の風となって堕罪者の懐へと飛び込む。
「身動きが取れないようにしてやるよ」
一閃、堕罪者の右足が両断される。大きくバランスを崩した堕罪者の隙を見逃すことなく、シェイドは追い討ちで左足、右腕、左腕を長剣で切断する。
生命の危機を感じたのか、堕罪者が身の毛もよだつような雄叫びを上げる。それに呼応するかの如く、幼子を思わせる不気味で物悲しい歌声が聞こえてくる。
「クソが……!!」
暗闇の中より、黒い襤褸きれを纏った死の精霊アルコーンが姿を現す。アルコーンは瀕死の堕罪者や馬そりには目もくれず、シェイド目掛けて一直線に突っ込んでくる。
無駄のないコンパクトな動きで振るわれるアルコーンの一撃を、シェイドは何とか剣で受け止める。繰り出されたその一撃は非常に重く、受けた瞬間、腕がじんじんと痺れるのを感じた。
シェイドの反撃をひらりと躱し、アルコーンは再び間合いを詰めてくる。普通の夜なら兎も角、今宵は新月。視界が悪く、相手の細かな動きが、まるで把握出来ない。
アルコーンの一撃が二の腕を掠め、真っ赤な血が噴き出す。掠めただけでこの威力。直撃していれば、命はなかっただろう。
痛みを堪えつつ、シェイドはアルコーンに対して次々と攻撃を繰り出す。アルコーンは不気味な歌声を発しながら、それらの攻撃を易々と躱してゆく。
「ちっ……!」
仲間を呼ばれる前に、何としても仕留めなければ。シェイドは徐々に苛立ちと焦りを覚えつつあった。
その焦りが、隙を生じさせたのだろう。
「ぐっ!?」
アルコーンの一撃が、手にしていた剣を弾き飛ばす。シェイドは文字通り、丸腰の状態となってしまった。
アルコーンが、歌声を発しながら迫ってくる。
最早、これまでか……シェイドがそう思った直後──
「──なっ!?」
突如、民家の中より勢い良く飛び出してきたマルコシアスが、アルコーンを組み伏せ、そのまま鋭い牙で首筋に噛み付いた。紫色の血液を周囲に撒き散らしながら、アルコーンが堪らず悲鳴を上げる。
──"早く殺れ"。
前足でアルコーンを押さえつけ、その動きを封じ込めながら、マルコシアスがシェイドに向かって吠える。弩にでも弾かれたようにシェイドは急いで剣を拾い上げると、必死に藻掻くアルコーンの頭部を一刀のもとに両断した。
「……助かったよ、マルコシアス」
血溜まりの中で末期の痙攣を繰り返すアルコーンを見下ろしながら、シェイドはマルコシアスの頭を撫でる。マルコシアスは嬉しそうに尻尾を振ると、血の溢れ出るシェイドの左腕を優しく舐めた。
「あぁ……大丈夫だ。それほど傷は深くない」
視界が悪くてよく見えないものの、近くに魔族や堕罪者の気配は感じられない。一先ず、安全は確保出来たと言ったところだろうか。願わくば、夜が明けるまでは来ないで欲しいものだ。
「さて、と──」
剣を鞘に収めると、シェイドとマルコシアスはベッド上で意識を失っているセラフィナの元へと歩み寄る。冷汗を浮かべて苦しげに喘いでおり、見ているこちらまで辛くなってくる。
「……頑張れ、セラフィナ。負けるなよ」
シェイドがそっとセラフィナの小さな手を握ると、セラフィナもまた弱々しいながらも、彼の手をそっと握り返した。
そのまま夜が明けるまでずっと、シェイドとマルコシアスはセラフィナの傍に寄り添い続けた。嘗て彼女の養父だった剣聖アレスが、スティグマータからの出血に苦しむ彼女の傍に夜通し寄り添っていたように。
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