第19話 不穏なる夜

 宵の口──


 静寂に包まれた町の中、アルコーンの悲しげな歌声が、何処からともなく聞こえてくる。マゴットたちも昼間に比べて活発に動き回り、目に付いた動物を片端から襲撃しているのがよく見える。


 教会の窓越しに外の様子を見つめていたセラフィナは大きく溜め息を吐くと、


「……不本意だけど、今日はここで夜を明かすしかないね。今動いたら、格好の的になってしまうから」


「……それが無難そう、だな」


 教会敷地内の厩舎から戻ってきたシェイドが、セラフィナの考えに同意を示す。衣服に若干の返り血が付いていることから、どうやら外を徘徊する魔族と一戦交えてきたようだ。


「馬は大丈夫そう?」


「厩舎でマルコシアスも一緒に寝させるから、余程のことがない限りは大丈夫だとは思うが……」


「シェイド……君さ、最近マルコシアスの扱いが、少しずつ雑になってきてない?」


 姿が見えないと思ったら、そういうことか。呆れたセラフィナは再度、大きな溜め息を吐きながらがっくりと肩を落とす。とは言え、大事な移動手段である馬を守るには、確かにそれが最良の選択とは思うのだが。


 マルコシアスが迎撃し、返り討ちにしたのだろう、アルコーンや野良犬たちの悲鳴が外から聞こえてくる。気にしたら負けだと思ったのか、セラフィナはそれ以上シェイドを咎めようとはしなかった。


 セラフィナは礼拝堂の長椅子に腰掛けると、袋の中から干し肉を取り出し、少しずつ慎重に食べ始める。小さな口で冷え固まった干し肉を相手に悪戦苦闘している様は、さながら小動物のようであり、見ていて何処か微笑ましい。


 魔族たちが集結してしまうので、夜に焚き火はご法度。況してや教会の中なので、火事にでもなったら大惨事だ。大変不便ではあるが、常温のまま食べる他なかったのである。


「──ご馳走様」


 食べるのに疲れたのか、将又もう満腹になったのか。干し肉を少量食べただけで、セラフィナはあっさりと食事をするのを止めてしまった。


「相変わらず、少食だよな……それで身体が持つのか?」


 これまた冷え固まったチーズを相手に悪戦苦闘している様子のシェイドが尋ねると、セラフィナはこくりと頷く。


 シェイドも世話になっていた村の教会のシスターが出してくれた料理は毎回、きちんと残さず完食していたとはいえ、元々セラフィナはかなりの少食家であるようで、彼女が自発的に食べ物を口にする際は、極端に食事量が少なかった。


 倒れてしまわないか何時も心配になるが、本人は至って平気そうなので何も言えない。


「──私の分の干し肉、食べる?」


「……もらうよ」


 セラフィナから干し肉の入った袋を受け取り、シェイドは袋の中に残っている干し肉を口に運ぶ。最初のうちは残量の多さに絶句したが、数日もしないうちにすっかり慣れてしまった。与えられた分量だけは、きちんと食べて欲しいと思うのが本音ではあったが。


 恐らく、マルコシアスと二人で──厳密には一人と一匹で旅をしていた時も、彼女が残した分をマルコシアスが食べていたのだろうか。


 若しかして、マルコシアスが普通の狼より、遥かに大きな体躯を有しているのは……いや、流石にそれは考え過ぎだろうか。彼女は確かに異様に大きいが、決して太っているわけではない。寧ろ抜群にスタイルが良い部類に入るのだから。


 そんなことを考えているうちに、セラフィナが残した干し肉は余すことなくシェイドの胃袋へと収まった。供給過多で胃もたれを起こしそうだ。


「辛そうだね。大丈夫?」


「…………」


 誰の所為でこうなったと思っている。喉まで出掛かった言葉を必死に呑み込みつつ、シェイドは苦笑いを浮かべて頷いた。


「……悪かったよ。これからは、きちんと食べるから」


「……是非、そうしてくれ。その方が、色々と安心出来る」


 アルコーンの歌声に混じって、ラッパのような音が遠くから聞こえてくる。どうやらアバドンの群れが、直ぐ近くにまで来ているらしい。


「奴さんたち、今夜はやけに元気だな」


「うん──何でだろうね?」


 セラフィナも疑問に思ったのか、本を読む手を止めて外へと視線を向けている。


 元来、夜は魔族の動きが活発化する時間とはいえ、今宵の魔族たちの騒々しさは何処か異様だ。まるで、何者かに追われているかのような──そんな錯覚さえ抱かせる。


「……また、天使たちが何かやっているのか?」


「どうだろうね。可能性は高いだろうけど、それだけが理由とは限らないんじゃない?」


「例えば?」


「そうだね……例えば"魔族さえも恐れを為すが、この地の何処かで目覚めようとしている"とか?」


 笑えない冗談は止めてくれと思ったが、セラフィナの目は笑っておらず、とても冗談を言っているようには思えない。


 ふと、セラフィナがステンドグラスへと視線を向ける。モレク信仰を伝えるステンドグラスは、月明かりを受けて不気味な輝きを放っていた。


 ──まさか。いや、まさかな。


 何か、嫌な予感がする。セラフィナの憂いを帯びた眼差しから、この地で何か良くないことが起きようとしていることが、ひしひしと伝わってくる。そして、その予感は奇しくも的中していたのである。











 同時刻。涙の王国某所──


 シェムハザ率いる"グリゴリ"の天使たちは、朽ち果てた神殿の地下に足を踏み入れていた。


「……ここだな」


 地面に刻まれた巨大な魔法陣を見下ろし、シェムハザは無表情のままポツリと呟く。


とハルモニアからの刺客。その何方も相手にするのは愚策。なればこそ、彼の者を手駒として扱うのが良かろう。神を騙りし大魔縁を」


 先達たちが"人間嫌い"もとい、堕天使ベルフェゴールの討伐に失敗してきたのは、己が実力を過信し、貴重な戦力を逐次投入したからだとシェムハザは考えていた。


 先達たちと同じ轍を踏むまいとする彼は、過剰とも言える戦力を以て、叛逆者たるベルフェゴールとハルモニアから来たる何者か、その双方を討ち取ろうと画策していた。


 元より、自分の手を汚さずに事を成したいという性格のシェムハザである。彼は可能な限り敵との交戦は避け、ベルフェゴールとハルモニアから来たる何者かを相争わせて疲弊させた上で漁夫の利を得ようとしていた。


「何事にも失敗は付き物。だが、我らが天使長は"失敗は許さぬ"と仰せになった。故に、我らに失敗は許されぬ。計画が頓挫した時の為の、二の矢三の矢を用意するは当然のこと」


「然り。我ら使命を果たす為ならば、如何なる手段を講じることも辞さぬ覚悟よ」


 シェムハザの隣にいた副官が、大きく頷く。


「さぁ、長き眠りより目覚めよ大魔縁モレク。母の涙と子の血に塗れし魔王よ。お前のその力、我らが主ソルの為に振るうが良い」


 魔法陣が、不気味な光を放ち始める。地の底より響くかのような唸り声を発しながら、魔法陣の中より悍ましい巨獣が姿を現す。


 雄々しき牛の如き二本角と、筋骨隆々たる複数の腕を持つその巨獣は、シェムハザ等"グリゴリ"の天使たちを見下ろすと、無数の牙を剥き出しにして怒りを露わにする。


「ほぅ……そうか、そうか。我が主の為に、力を振るう気はないと申すか。お前がそう申すのであれば、こちらはこうしよう」


 シェムハザが指を鳴らすと同時に、虚空より無数の鎖が飛来したかと思うと、巨獣の手足を瞬く間に拘束する。巨獣が暴れれば暴れるほどに、鎖はより強く、巨獣の身体を縛り上げてゆく。


「無駄な抵抗は止めよ。無意味に苦しむだけだ」


 巨獣の目から徐々に、理性の光が失われてゆく。口から涎を垂らしながら抵抗する巨獣を見つめ、シェムハザは口元を歪めてニヤリと笑った。


「その鎖には、拘束対象の理性を失わせる効果がある。間もなくお前は──我らの、傀儡人形だ」


 シェムハザの高らかなる笑い声を掻き消すように──理性を失った巨獣の咆哮が、虚しく周囲に木霊した。

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