第17話 堕天使アザゼル

 セラフィナたちが涙の王国調査のため、国境守備隊野営地を発ったちょうどその頃──


 帝都アルカディアでは、二十五年前に原因不明の病で亡くなった皇妃ソフィアの追悼式典が行われていた。


 天候は生憎の雨だったが、若くして亡くなったソフィアを偲び、大地の女神シェオルを祀る大神殿には大勢のハルモニア国教徒たちが足を運んでいた。


「……この雨の中、随分とご苦労なことだ」


 やって来たハルモニア国教徒たちが、献花台に花を供えてゆく様子を柱にもたれかかりながら、デスマスクを装着した堕天使が鼻で嗤う。


「──おや、アザゼル。君も、暇を持て余してここに?」


 天井の窓から入ってきたベリアルが、目の前に降り立ちながら声を掛けると、アザゼルと呼ばれた堕天使は肩を何度か上下させる。


 アザゼル──彼もまた、死天衆の一柱であった。


「あぁ、暇だとも──しかし、ベリアルよ。君も、随分と変わっているな。自分が殺した女の追悼式典の様子を、ただ暇を潰すためだけに見に来るとは」


 アザゼルがくぐもった笑い声をデスマスクの奥より漏らすと、ベリアルもまた口元を不気味に歪めて笑みを零す。


「殺したなどと、人聞きの悪い。ゼノンが対価として、あの女の魂を私に支払っただけです。病弱で、何時死んでもおかしくないような小娘の魂を、ね」


「まぁ、そういうことにしておこう」


 パイプオルガンの荘厳な音色が響いたかと思うと、巫女たちが清らかなる声で歌い始める。


「──"我が主を讃えよ"、か」


 アザゼルはデスマスクを外すと、大地の女神シェオルに捧げられた讃歌に耳を傾けた。デスマスクの下より現れた顔は右半分が大きく焼け爛れており、アモンとはまた異なる恐ろしさを感じさせる。


「この曲は良い──荒んだ心が、浄化されるようだ」


「確かに、良い曲ではありますね。無価値な人間が作った無価値な曲にしては、ですが」


 心から曲を楽しんでいる様子のアザゼルとは対照的に、ベリアルは軽蔑の眼差しをパイプオルガンの演奏者──ハルモニア皇帝ゼノンに向けている。


 どうやら巫女たちの美しい歌声も、ベリアルにとっては単なる雑音でしかないらしく、彼は口から出そうになる欠伸を必死に噛み殺していた。


 大地の女神シェオルを良く知るベリアルからしたら、ハルモニア国教会のやることなすこと、全て下らぬ茶番でしかないのだろう。


 大地の女神シェオルが如何に偉大で美しく、そして哀れな存在であるのか。今を生きるハルモニア国教徒たちは、それをまるで理解出来ていない。ベリアルの態度からは、そのような意図が読み取れた。


 明らかに暇を持て余した様子のベリアルのため、アザゼルは彼の食いつきそうな話題を提供することにした。


「そう言えば、セラフィナたちについてなのだが──」


「彼女たちのことで、何か気になることでも?」


「アバドンの群れの襲撃で、出発が少々遅れたようだな」


 アザゼルの言葉を聞き、ベリアルは白い歯を見せながら、


「ほぅ──それはそれは、前途多難で楽しそうですね」


「彼奴ら、無事に帰って来られると思うか?」


「無事かどうかはさておいて、私はセラフィナたちが生きて帰って来ると確信していますよ。何故なら、セラフィナはまだ目的を果たしていませんからね」


 何もかもを見透かしているのか、ベリアルは無邪気な子供のような笑みを浮かべる。


 養父である剣聖アレスとの再会、そして彼と取り引きをした三日月の魔女アスタロトの捜索。それが、今のセラフィナを突き動かす原動力となっていることを、ベリアルは良く知っていた。


 それらの目的が果たされない限り、セラフィナの生きようとする気力が決して萎えないことも──


「ベリアルよ……君は一体、何処まで見透かしているのだ?」


「何もかも……ですよ、アザゼル」


「では、これから起こり得ることも──」


「勿論──涙の王国を滅ぼした元凶ベルフェゴール、そして天使シェムハザ率いる"グリゴリ"の戦士たちと、セラフィナたちは剣を交えることになるでしょう。その先のことは、敢えて言わないでおきましょうか。折角の楽しみが減ってしまいますから」


 曲が変わった。荘厳だった先程までの曲とは打って変わって、聞く者の涙を誘う悲しい旋律。巫女たちの歌声も、旋律の所為か悲しく聞こえる。


「──"滅びに至る門"か」


「この式典のためだけに、わざわざゼノン自らが作詞・作曲をしたようですね。今は亡き皇妃ソフィアと、私たちを召喚する際に命を落とした巫女たちに捧げる鎮魂歌、だそうですよ」


「ほう、左様か……」


 啜り泣く声が、礼拝堂の至る所から聞こえてくる。雷光が大地の女神シェオルを象った美しい彫像を、ほんの一瞬だけ照らし出したかと思うと、直後に轟音が周囲に響き渡った。


「──"人は皆、罪の子なれば"ですか。実によく考えられた素晴らしい歌詞ですね。自分たちが如何に罪深く無価値な存在なのかを、良く理解している」


 珍しく、ベリアルが曲を褒める。大地の女神シェオルと自分以外の存在を、無価値と断じて嘲笑っている彼が。どうやら歌詞の一節がひどく気に入ったらしい。


「さて、と……良いものも聞けましたし、私はこれで。君はどうしますか、アザゼル」


 ベリアルに尋ねられると、アザゼルはその顔に不敵な笑みを湛えながら、


「私はもう少し、ここでゼノンの演奏を聞くとしよう」


「そうですか。では、ごゆっくり──」


 ベリアルが飛び去ってゆくと、アザゼルは再びデスマスクを顔に装着し、一心不乱にパイプオルガンを演奏するゼノンの背を見つめる。


「……君には一生分からぬだろうな、ベリアル。この世界には無価値だからこそ、美しいものが存在するということが」


 アザゼルはそのまま、献花台のある壁に掲げられた皇妃ソフィアの肖像画へと視線を移す。ソフィアの死んだ後に描かれたその肖像画は、ある少女がモデルとなっていた。


「──辺境伯となったアレスの様子を見に、グノーシス辺境伯領を訪れたゼノン。そこで出逢った神秘的な少女に、彼は心を奪われた」


 セラフィナ・フォン・グノーシス。アレスが養女として引き取った出自不明の少女。


 ゼノンはその神秘的な少女を、ベリアルによって魂を奪われた亡き妻ソフィアの生まれ変わりだと思い込んだ。身分的には地方貴族の令嬢でしかないセラフィナが、皇帝たるゼノンと容易に謁見出来るのはそれが理由だ。


 剣聖アレスと皇帝ゼノン──両者からセラフィナへと注がれる愛情は、似ているようでいて、何処か異なっていた。


 実の娘のようにセラフィナを可愛がり、不器用ながらも無償の愛を注いだ剣聖アレス。それに対し、ゼノンは亡き妻の面影をセラフィナに重ねていた。


 その感情は愛には違いなかったが、何処か歪であった。大神殿の至る所にある、セラフィナをモデルとした様々な宗教画や肖像画が、彼の愛の歪さを如実に物語っていると言えよう。


 ゼノンのセラフィナに対する独占欲は、年々少しずつではあるが強くなっている。それもまた、ベリアルの狙いの一つなのだろうと、アザゼルは考えていた。


 セラフィナは、死天衆にとっても特別な存在なのだから。


 世界が滅亡するその時までセラフィナを手元に置いておけるのであれば、それに越したことはない。だが──


「──若し、自身の出自にまつわる全ての真実を知ったならば、セラフィナは自ら破滅を選ぶであろう。何故ならば剣聖アレスも、三日月の魔女アスタロトも──」


 再び雷鳴が轟き、アザゼルの声は掻き消される。ちょうど曲の演奏が終わったのだろう、ゼノンが信徒たちの方へと向き直っているのが見えた。


「……さて、どうなるかな。これからが実に、楽しみだよ」


 万雷の拍手で礼拝堂が溢れ返る中、アザゼルは大きく肩を竦めてその場を立ち去った。去り際に、何やら不気味な言葉を残しながら。


 ──"世に神は、二人と要らぬ"と。

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