第14話 人間嫌い

 同時刻──


 涙の王国──王の居城。


 玉座の間は血の海と化し、マゴットやアバドンといった下級魔族や、刺客として送り込まれた天使たちの死体が足の踏み場もないほどに転がっている。


「…………」


 積み重なった死体の山……その頂に、襤褸きれの如き黒いローブを纏ったその男は立っていた。骨と皮しかないような痩せ細った体躯で、背には大きな黒い翼を生やしており、頭上には光輪を戴いていることから、男が嘗て天使だったことは一目瞭然だった。


 男の視線は大きく開かれた扉へと向けられており──その視線の遙か先には、蜃気楼の如く不規則に輪郭を変化させる巨大かつ不気味な砂時計が聳え立っていた。


 ──"崩壊の砂時計"。


 男は暫しの間、感情の凪いだような目で砂時計をじっと見つめていたが、直ぐに無意味と思い直したのか、天使や魔族の亡骸を踏み躙りながら、玉座の間の外へ出た。


 氷漬けとなった回廊に、男の足音だけが虚しく響く。国王夫妻も宰相も、文官も武官も侍女たちも皆、氷の中で永遠の眠りに就いていた。


 恐怖に顔を引き攣らせ、力なく座り込んでいる者。その場から逃げようとしている者。ただ呆然と、立ち尽くしている者。泣き叫んでいる者。その死に様は、実に様々だ。


「…………」


 回廊を抜け、王女の居室へと辿り着く。扉を開けると、男はそのまま真っ直ぐ、ベッドへと歩を進めた。


 ベッドの上には白い棺が置かれており、その中には一人の美しい少女が横たわっていた。黒い長髪と白い肌とのコントラストが、何とも言えぬ儚さを醸し出している。


「……キリエ」


 棺の中で眠る少女を見下ろし、何処か憐れむような調子で男は彼女の名をポツリと呟く。少女は男の呼び掛けに答えることはなく、ただ静かな寝息を立てるのみであった。


 第一王女キリエ。"最終戦争ハルマゲドン"の後、キリエは敬虔な聖教徒でありながら、傷付いた堕天使を保護したことで罪に問われ、父である国王から斬首刑を言い渡されていた。


 刑執行の前夜、彼女は自室で服毒自殺を図り──血を吐いて倒れているところを、城内にある地下牢から脱獄してきた件の堕天使──男によって発見された。


 傷付いた自分を癒してくれた第一王女が、翌日に処刑されることを看守たちの立ち話で知った男は、居ても立ってもいられず自らを幽閉していた牢を破壊し、彼女を救うために居室へと向かった。


 そこで男が目にしたのは──口から血を流して倒れているキリエの……変わり果てた命の恩人の姿だった。


 男は怒り狂い、たった一夜で涙の王国を滅亡させた。キリエを除く全ての存在を凍てつかせ、皆殺しにしたのである。


 それからというもの、男は不定期で襲い来る天使たちや魔族たちを返り討ちにしつつ、キリエの蘇生に全力を注いだ。自らの知るありとあらゆる治癒魔術・蘇生魔術を彼女に試し、それが駄目なら新たな魔術の開発に勤しんだ。


 来る日も来る日も……男は自らの魂を削り、キリエを蘇生させる方法を模索し続けた。そして、その成果が遂に結実しようとしていた。弱々しいながらも、キリエが自力で呼吸出来るようになったのである。未だ意識は戻らないものの、彼女が目を覚ますのも時間の問題かと思われた。


「キリエ……」


 だが──男は迷っていた。この世界はあまりにも醜い。キリエの意識を元に戻したところで、彼女を余計に苦しませてしまうだけなのではないか、と。このまま、意識が戻ることなく安らかに終末まで眠り続ける方が、彼女にとって幸せなのではないか、と。そう思わずには、いられなかったのである。


 彼女が目覚めたとて、終末はすぐ近くにまで迫っているのだから。


「……私は、どうすれば良いのだ? 教えてくれ、キリエ」


 何処か疲れた様子で、男は泣き言を漏らす。何が、キリエにとって最良の選択なのか……男にはまるで分からなかった。


 その時──聖地カナンの方より、無数の力の波動が近付いてくるのを男は感じ取った。数は凡そ二百余名。その中には男のよく知る、非凡なる実力を有する者も含まれていた。


「シェムハザ──そうか、貴様が来るか」


 これまで、名のある天使が刺客として送り込まれてきたことは一度もなかった。しかし、今回は違う。名前持ち、それもシェムハザという実力者を、彼の配下たる"グリゴリ"と共に送り込んできた。


 つまり、天空の神ソルが、男という存在を自らにとっての障害と認識し、男を本気で討ち取るべく動き始めたことを意味する。


「──随分と、忠実なる下僕の数を減らしたようだな。唯一無二の創造主を騙る、狭量にして暗愚な簒奪者よ。傲慢にして強欲なるソルよ」


 男の双眸に、怒りの焔が宿る。男にとって、この地に足を踏み入れる者は全て敵だ。キリエの──命の恩人の、安らかなる眠りを妨げる唾棄すべき邪悪だ。


「──我が身が朽ち果てるは本望。だが、キリエには……彼女には、指一本たりとて触れさせぬ」


 男はこの時、ハルモニアからも何かが近付いてくるのを感じ取っていた。相手の数は少ないが、発せられる力の波動が何やら異質だ。死天衆が送り込んできた刺客だろうか。


 シェムハザ率いる"グリゴリ"の天使たち、そしてハルモニアより来たる何者か。両者の動くタイミングが、些か良過ぎるような気がするが、男にとってそれは些事。最早、どうでも良いことである。


「──来るなら来い! 全て返り討ちにしてくれるわ!!」


 満天の星空に向かって、高らかに男は吠える。来たる死闘に臨む自らを鼓舞するように、大きく身を震わせながら。


 男の名は──ベルフェゴール。堕天使ベルフェゴール。


 その名の意味は──

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