第13話 天使、胎動

 四日後、出立の前夜──


 扉をノックする音が耳に届き、書類に目を通していたシェイドは顔を上げた。


 こんな時間に誰だろう、と怪訝に思いつつ返事をすると、


「──シェイド、起きてる?」


 寝間着姿のセラフィナが、手燭──手に持って用いる燭台を片手に部屋へと入ってくる。マルコシアスも一緒で、セラフィナの直ぐ傍で彼女はパタパタと尻尾を振っていた。


「起きてるよ、セラフィナ──どうかしたのか?」


「ううん。君が心配だったから、見に来ただけ」


 セラフィナは対面のソファに腰を下ろすと、テーブルの上に置かれていた書類の一部を手に取る。


 それは、涙の王国周辺で目撃情報が多い魔族に関する調査報告書だった。姿形、生態、急所……それらが簡潔かつ丁寧に纏められている。


 知性が高く、人間と同様に理性を有する上位魔族は皆、死天衆の支配下にある。つまり調査報告書に記載があるのは全て、知性が低く本能のままに生きる下級魔族……死天衆も匙を投げたレベルの畜生たちだ。


 巨大な蛆虫の姿をしており、圧倒的な物量で襲い掛かってくるマゴット、襤褸ぼろきれを身に纏い、不気味な歌声を発しながら現れる精霊アルコーン……中でも危険なのは、人の顔を持つ巨大なイナゴ"アバドン"だろうか。


 マゴットと同様に、大群で襲い掛かってくるアバドン。だがマゴットよりも遥かに素早い上に顎の力も強く、そればかりか相手を長時間苦しめる猛毒まで持っている。どうやらアバドンの群れが近くにいるとラッパのような音が聞こえるらしいので、音を頼りに距離を取って、可能な限り交戦を避けた方が良いかもしれない。


 それらの脅威に加えて、堕罪者まで徘徊している。セラフィナの護衛という役目を果たすには、現地の敵について予め知っておかなければならぬとシェイドは考えていた。


「早く休んだ方が良いよ、シェイド。明日は早いんだから」


 セラフィナの言葉に同意するように、マルコシアスが一声軽く吠える。


「…………」


「……まだ、気に病んでいるの?」


「……あぁ」


 セラフィナから事前に忠告を受けていたにも関わらず、満足に抗うことすら出来ないまま、あっさりとベリアルの誘惑に負けてしまったことを、シェイドはひどく恥じていた。


 セラフィナは小さな溜め息を一つ吐くと、


「……馬鹿だね、君は。気に病む必要はないのに。悪いのはベリアルであって、君じゃないのに」


「……セラフィナ」


「自省は確かに大事かもしれない。だからと言って、必要以上に自罰的になるのは駄目」


 セラフィナは立ち上がると、手燭を手にし、マルコシアスを伴って部屋の出入口へと歩を進める。


「もう一度言うよ? 早く休んで、明日に備えて。良い?」


 そう言い残し、セラフィナは静かに扉を閉めた。一人残されたシェイドは、苦笑いを浮かべながら頭を搔く。


「必要以上に自罰的になるな、か……困った。自分でも知らない間に、癖になっているのかもしれないな」


 数日前に、自警団組合の支部で、受付嬢のルビィから自暴自棄になるなと言われたばかりだ。そして、生命ある限りこの世界で足掻くと、自らに誓ったばかりではないか。


「切り替えないと、な……ここで挫けていたら、シスターに顔向けが出来ない」


 グラスに注がれた水を一気に飲み干すと、シェイドは自らを鼓舞するように何度か頬を軽く叩いた。











 同時刻──聖教会勢力、聖地カナン。


 巨大な礼拝堂の最奥で、一人の若い女が胸の前で手を組み祈りを捧げている。端麗なる女の左の首筋には、セラフィナと同様に、正五芒星状のスティグマータが刻まれていた。


「──聖女シオン。お祈り中のところ、失礼します」


「──どうか、しましたか?」


 祈るのを止め、流麗なる動きで立ち上がると、シオンと呼ばれた女は振り向き、声の主をじっと見つめる。黒蝶真珠を思わせる髪色と同じ黒い瞳には、煌々たる焔が宿っていた。


 蝋燭の薄明かりが、声の主の姿を映し出す。声の主は、背に白い翼を有し、頭上に光輪を戴く、金髪碧眼で色白の好青年だった。


 天使長ミカエル──天空の神ソルに仕える、天使たちの長にして聖教会の守護者。聖教会がハルマゲドンでハルモニア率いる異教徒の連合軍に敗戦した後、彼は主である天空の神ソルからした聖教徒たちの監督を命じられ、部下たちと共に地上に留まっていた。


「天に坐す我らのが仰ることには、異教の地ハルモニアで何やら、良からぬ動きが見られるとか」


「天使長ミカエル様……それは、一体……?」


「どうやら、滅亡した涙の王国の土地を、ハルモニアは手中に収めんと目論んでいるようですな」


 ミカエルの言葉を聞き、シオンの顔は憂いに彩られる。


 涙の王国が滅びた後、彼の地は事実上の緩衝地帯として機能していた。それをハルモニアが手中に収めたならば、聖教会勢力は喉元に刃を突き付けられたも同然となる。


 もし、そうなったとしたら──


「また、争いが始まってしまう……血塗られた歴史が、繰り返されてしまう……」


「はい。死天衆の奴らは、どれほど罪のない聖教徒たちを苦しめるつもりなのでしょうな」


 シオンはまだ齢二十……敵の最強戦力である死天衆については、天使たちからの伝聞でしか知ることが出来ず、残念ながら彼らの姿を見たことは一度もない。


 それでも、憎々しげに天使たちがその名を口にしているのを日常的に目にしたことで、死天衆が聖教会を脅かす災いであるという認識は、十分過ぎるほどに持っていた。


「どうすれば、良いのでしょう……天使長ミカエル様」


「こちらから打って出て、未然に防ぐしかありませんな。幸い彼の地には、涙の王国を滅ぼした"元凶"がまだ居座っております」


「あの、が……」


「はい。運が良ければ、あのとの共倒れを狙うことも出来ましょう。そうすれば、彼の地は再び清き聖教徒の手に戻る」


 今更、氷の大地と化した彼の地を取り戻してどうするのだとシオンは思ったが、喉まで出かかった言葉を寸前で呑み込んだ。人間であるシオンには全く理解出来ないが、ミカエルたち天使にとって、地上の遍く場所は全て、天空の神ソルの所有物。取り戻せるものは、可能な限り取り戻しておきたいのだろう。


 この世界に、神は二人と要らぬ。天空に坐す主のみが、唯一にして無二の創造主。邪王シェオルなぞを信奉する醜い獣たちを全てこの世から駆逐するまで、聖教徒たちの聖なる戦いは終わらない。それが、ミカエルたち天使全員が持つ共通の考えだった。


 争いを好まぬシオンとしては心苦しい限りだが、聖教徒の多くが天使たち同様、ハルモニアを筆頭とする異教徒勢力の抹殺を望んでいるのもまた、紛れもない事実である。


「聖女シオン、どうかご指示を。天使たちの出撃準備は、既に整っております」


「……教皇聖下には、このお話は通っているのですか?」


「グレゴリオの如き俗世に染まった愚物、わざわざ話を通すだけ時間の無駄というもの。聖教会の象徴はグレゴリオではなく聖女シオン、貴女である。貴女に話を通すことに、何の問題がありましょうか」


 確かに現教皇グレゴリオは決して有能とは言い難いが、権力の腐敗が目立つ聖教会の立て直しを推進している生真面目で善良な男だ。話くらい、通してやっても良いであろうに。


「…………」


「如何なさいましたか、聖女シオン?」


「……何でもありません。それが、天空に坐す主の御意志だと天使長たる貴方が仰るのであれば、私から申すことは何も御座いません」


「然れば……」


「はい。敵国ハルモニアの、それを背後で操る死天衆たちの邪なる思惑を、何としても打ち砕きましょう」


 あぁ、自分は何て無力なのだろう──勇ましい言葉とは裏腹に、シオンは暗澹たる思いを抱いていた。


 何が、聖教会の象徴だ。これではまるで、天使たちにとって都合の良いだけの操り人形ではないか。


 だが、逆らえない。ミカエルには逆らえないのだ。逆らうことは即ち、天空の神ソルへの叛逆に他ならないのだから。


 シオンの言葉を受け、ミカエルが素早く指示を発する。


「──シェムハザ!!」


「はい──"グリゴリ"が長シェムハザ、ここに」


 シェムハザと呼ばれた天使が、一歩前に進み出る。グリゴリとは、シェムハザが率いる地上の監視を目的とした天使の集団の呼称である。


「ハルモニアの思惑を粉砕する役目を、貴官に与える。天空に坐す我らが主の威信にかけて、失敗は許さぬ」


「畏まりました──天空に坐す主がため、必ずや敵の首を討ち取ってご覧にいれましょう」


 シェムハザは深く一礼すると、高らかな声で部下たちに号令を発する。


「──誇り高き"グリゴリ"の天使たちよ! 総員出撃せよ! 目指すは涙の王国!!」


 涙の王国を目指し、シェムハザに率いられた二百余名の天使たちが、次々と聖地カナンを飛び立ってゆく。


 二十五年にも渡る沈黙を破り、天空の神ソルの忠実なる下僕たちが再び動き出した──その事実を、この時のセラフィナとシェイドはまだ知る由もなかった。

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