第9話 アルカディアの丘へ

 シェイドが目を覚ますと、ちょうど夜明けを迎えるところだった。


 シェイドが起きたことに気付いたのだろう。夜通しドラゴンを駆り続けて少し疲れた様子のセラフィナが、身を軽く捩ってシェイドの顔をちらりと見やる。


「おはよう──よく眠れた?」


 風に吹かれて大きく靡く長い銀髪を片手で押さえながら、セラフィナは少しだけ顔を綻ばせる。


「おかげさまで──あと、どれくらいだ?」


 シェイドが尋ねると、セラフィナは前方を指差しながら、


「見えてきたよ──ほら」


 セラフィナの指す方へと視線を向けると、遙か彼方──巨大な城塞都市が、暁光に照らし出されるのが見えた。


「あれが……」


「そう。あれが、帝都アルカディア」


 帝都アルカディア──元々アルカディアは、都の中心部にある小高い丘の名称に過ぎなかった。聖教会の迫害を受けた者たちが寄り合い、日々を生きるための共同体をアルカディアの丘の上に築いたのが、帝国ハルモニアの始まりとされている。


 やがて、アルカディアの丘の頂上に大地の女神シェオルを祀る大神殿が建てられ、その周囲を取り囲むような形で都市が形成され、今の帝都アルカディアとなった。


 ハルモニア帝国内には幾つか大都市が存在するが、帝都アルカディアは中でも最も人口が多く、少なく見積っても百万を優に超す人や異人族が暮らしているという。


「……迫害から逃れるためのちっぽけな共同体から始まって、今では世界有数の大都市になった、というわけか」


 セラフィナの説明を聞いたシェイドは、何処か感慨深そうに眼前に迫ってくる帝都を見つめる。


「そうだね。因みに、アルカディアは"理想郷"を意味する言葉になっている。それはそのまま、ハルモニアという国家の掲げるスローガンにもなっていてね。民衆の叛乱とかは、建国から一度も起こっていないらしいよ」


 理想郷──その言葉を聞き、シェイドはふと疑問を抱いた。


 セラフィナの話を聞く限り、ハルモニアは地上に存在する最後の楽園と言っても差し支えない国である。


 アルカディアのような理想郷を創るというスローガンを掲げている点や、建国から一度も叛乱が起きていないという点などから、国民に寄り添う政治が行われており、国民もまたそれに不満を抱いていないことが伺える。


 何故、セラフィナはグノーシス辺境伯領のみならず、ハルモニアという国そのものから出奔し、旅人として各地を放浪していたのだろう。


 バアルたち死天衆のことをひどく毛嫌いしていたが、彼女がそれだけの理由で出奔するような、器の小さな人間であるとは到底思えない。


 そもそも、彼女の養父である剣聖アレスは、出奔する彼女を引き止めなかったのだろうか。若しくは、本当の娘のように溺愛していたからこそ、彼女の意思を尊重して送り出したのだろうか。


「…………」


「──どうか、した?」


 突然黙りこくってしまったシェイドの様子を不審に思ったのか、セラフィナは淡々と彼に問い掛ける。


「……いや、何でもない」


「そう? なら、良いけど」


 アルカディアの丘の上──大神殿の方から、ドラゴンに跨った衛兵たちが、こちらへと向かってくるのが見える。


 既にこちらのことを把握しているのか、衛兵の一人が銅鑼の如く良く響く声で、


「──セラフィナ・フォン・グノーシス! これより、こちらの誘導に従ってもらう!!」


 セラフィナは露骨に嫌そうな顔をしつつも、ハンドサインで了承の意を示す。フルネームで呼ばれるのは、どうやら余り好きではないようだ。


 衛兵たちに半ば護衛されるような形で、大神殿近くの竜舎へと降り立つと、一人の男が五人の堕天使たちを従えて、セラフィナたちの元へと歩み寄ってくる。その中には先日、国境守備隊の野営地にやって来たバアルの姿もあった。


 ドラゴンの背から軽やかに飛び降りると、セラフィナは片膝を付き、胸に手を当てて深々と男に一礼する。


「皇帝陛下──セラフィナ・フォン・グノーシス、只今ハルモニアに帰還致しました」


 男は精悍な顔をわずかに綻ばせると、セラフィナの頬を片手で撫でながら、


「セラフィナ……私は信じておったぞ。お前が再び、このハルモニアの地へと戻ってくることを」


「陛下……」


「さぁ……セラフィナ。ハルモニアの愛しき子よ。どうか、父を抱きしめてはくれまいか?」


「──陛下のお望みとあらば、喜んで」


 セラフィナは滑らかな動きで立ち上がると、男と軽く抱擁を交わす。男はセラフィナの髪を優しく撫でながら身を離すと、遅れてドラゴンの背から降りてきたシェイドを見つめてニヤリと笑みを浮かべ、地の底から響くような声で誰何する。


「其方が……セラフィナが気に入ったというか」


 刹那──男の傍に控えていた死天衆の一柱が、目にも留まらぬ速さで抜剣し、一気に間合いを詰めてくる。


「うぉ……!?」


 シェイドは咄嗟に抜剣するも初動が遅れ、剣は呆気なく死天衆の一撃で弾き飛ばされた。


「ふむ──悪くない動きですね」


「……これが、ハルモニア流の挨拶か?」


「いやいや、まさか──ちょっと、君の実力がどれほどのものか試してみようと思っただけですよ」


 デスマスクの奥より、くぐもった笑い声を発すると、その堕天使は流麗なる動きでデスマスクを外す。


「──っ!?」


 デスマスクの下より露わとなった相手の顔を見た直後、シェイドはハッと息を呑んだ。


 長く艶やかな銀髪……涼やかな青い瞳……そして、白磁を思わせる白い肌。


 その堕天使の顔立ちは──セラフィナと、殆ど瓜二つだった。


「──ベリアルよ。少々、戯れが過ぎるぞ」


 男が苦笑しながら窘めると、ベリアルと呼ばれたその堕天使は耳に心地好い中性的な声で、


「これは失礼──いや何、本気で彼を殺すつもりなど御座いませんよ陛下」


 剣を鞘へと収めると、ベリアルは男へと向き直り、胸に手を当てて恭しく頭を下げる。


「──大丈夫?」


「あぁ……何とか、な」


 心配そうに駆け寄ってきたセラフィナを見つめて作り笑いを浮かべると、シェイドは弾き飛ばされた剣を拾い上げ、鞘へと収めた。


「セラフィナのみならず、あのベリアルまでもが実力を認めるとは、大した男よな。益々気に入ったぞ」


「……そりゃどうも」


「私は、ハルモニア皇帝ゼノン。ハルモニアを統べる長として、其方を歓迎しよう──アモン!!」


「……死天衆が一柱アモン、ここに」


「その男の手続きに関することは全て、お前に任せる。くれぐれも、失礼のないように」


「……承知」


 アモンと呼ばれた堕天使が頷くのを確認すると、ゼノンはセラフィナへと向き直り、


「セラフィナよ、色々と積もる話もあろう。今宵、一人で玉座の間まで来い」


「──分かりました。陛下のお望みとあらば……」


 セラフィナが頭を下げると、ゼノンは身を翻し、ベリアルたちを伴って大神殿へと去っていった。その場に残っているのはセラフィナたちを除くと、アモンと呼ばれた堕天使のみである。


「…………」


 アモンは死天衆の中で、唯一デスマスクを装着していなかったが、その外見は正しく不気味な怪物としか言いようがなかった。


 頭部がフクロウの、背に巨大な翼を生やした全身毛むくじゃらの大男……こんな怪物を夜に見たら、恐らく卒倒するのではないだろうか。


 しかしながら、マルコシアスが尻尾を振りながらアモンと戯れている様子や、セラフィナが嫌な顔一つせず落ち着いている様子などを見るに、どうやらそこまで危険な存在ではないらしい。


「アモンで良かったね、シェイド」


「……と、言うと?」


「彼、見た目に反して結構まともだから。手続きが一通り終わったら、彼に帝都を案内してもらうと良いよ」


「セラフィナは、どうするつもりだ?」


 シェイドが尋ねると、セラフィナは無表情のまま、


「──私は、夜まで休むつもり」


「……セラフィナよ。大神殿の入り口に、巫女たちを待たせてある。彼女たちに、部屋まで案内してもらうと良い」


「流石。気が利くね、アモン。マルコシアスはどうする? 私と一緒に休む?」


 セラフィナの問いに対し、マルコシアスは尻尾を振りながら軽く吠える。


「──"シェイドに付いて行く"? うん、分かった。迷子にならないように、ね?」


 セラフィナが大神殿へと去ると、アモンはマルコシアスを伴って、シェイドの目の前までやって来る。


 アモンは堕天使──聖教会の教義によると、天空の神ソルに背いた邪悪な存在とのことだが、目の前に佇む彼の両目には、暖かな光が宿っている。魔族たちを束ねる死天衆の一柱ではあるが、目だけ見ていると、とてもそうとは思えない。


「……改めて──死天衆のアモンだ。君がスムーズに、ハルモニアに帰化出来るように手助けをするのが、私の役目。何か困ったことがあれば、遠慮なく私に聞いて欲しい。宜しく頼むぞ、シェイドとやら」


 毛むくじゃらの大きな手を差し出してくるアモン──シェイドはその手を握ると、


「──シェイドだ。どうか、宜しく頼む」


「……うむ──任されよ。ハルモニアの新しき民よ」


 アモンはシェイドの肩に手を置くと、穏やかな笑みを湛えながら力強く頷いた。

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