第7話 帝都よりの使者

 ハルモニア国境守備隊の野営地──


 シェイドは救護所のベッドの上で、退屈しのぎにハルモニア国教会の経典を読んでいた。隣のベッドからは噎せ返るような血の臭いに混じって、夜明けまでそこで意識を失っていたセラフィナの甘い残り香が漂ってくる。


 昨晩は新月だったため、医者や衛生兵が夜通し付きっきりでセラフィナの看護をしていた。どうやらセラフィナはハルモニア人たちから特別視されているらしく、必死の形相で彼らは治療に当たっていた。


 なお、当のセラフィナだが、夜の間はぐったりしていて今にも死にそうな状態だったというのに、朝になると軽い足取りで、風呂に入ってくると言って救護所から出ていった。呑気なものである。


「やぁ──おはよう、シェイド。良い朝だね」


 風呂から戻ってきたセラフィナが、無表情のまま軽く片手を挙げる。マルコシアスも一緒だったのか、セラフィナの直ぐ隣で、心做しかご機嫌そうに尻尾を振っている。


「おはよう──もう、元気になったのか」


「元気かどうかはさておいて、一応は動けるね」


「そりゃ良かった」


 セラフィナはブーツを脱ぐと、そのままベッドの上に膝を抱えて座り込み、シェイドが経典を読んでいる様子を興味深そうに見つめる。


「熱心だね、随分と」


「……生憎あいにくこれぐらいしか、今はやることがないからな」


 国境守備隊に保護された時、シェイドはかなり衰弱していたため、まだ自由に動き回ることを禁じられていた。


 因みにセラフィナは保護された時、衣服が土埃や返り血で汚れていた程度で、衰弱していたシェイドとは対照的にケロッとしていた。何故なのかは分からない。


「──読んでいて、楽しい?」


 厚手の白いストッキングに包まれた爪先を何度か動かしながらセラフィナが尋ねると、シェイドはこくりと頷く。


「あぁ、楽しいな。聖教会の教典に書かれていたことと、真逆のことが書かれている」


「……例えば?」


「俺がガキの頃、大地の女神シェオルは世を破滅に導く魔族の王だと教えられたが、ハルモニア国教会の教えでは天空の神ソルは創造主を騙る"簒奪者"ということになっている」


「そうだね。どっちも黙りこくっていて、苦しむ人々に手を差し伸べていないから、五十歩百歩というか、碌でもない存在だと私は思うけど」


「だが──この経典には、大地の女神シェオルは簒奪者ソルに腹を刺されて命を落とし、黄泉の底で深い眠りに就いているとあるぞ? なら、シェオルが黙りこくっているのは仕方ないんじゃないか?」


 何となくシェイドが反論をしてみると、セラフィナは落ち着いた様子で、


「全くの嘘とは言わないけれど……経典を書いた人が、その様子を直に見たわけじゃないから。誇張された内容や虚偽の内容は、やっぱり少なからず含まれているんじゃないかな」


「……確かに」


 辛辣な物言いだが、一理ある。シェイドは苦笑いを浮かべながら、セラフィナの考えに同意を示す。


 その時だった。


「──失礼するよ、セラフィナ・フォン・グノーシス」


 くぐもった声が聞こえたかと思うと、背に翼を生やし、頭上に光輪ヘイローを戴く大男が、救護所の中へと入ってくる。格好からしてハルモニア帝国軍の将官だろうか。不気味なデスマスクで素顔を覆い隠しており、残念ながら表情などを窺い知ることは出来ない。


「……誰だ、あんた」


「ほぅ……私を見ても驚かない、か」


 シェイドへと顔を向けると、男は不気味な笑い声をデスマスクの奥より発する。


「我が名は……バアル。誇り高き"死天衆"の末席に名を連ねる者なり」


「死天衆……バアル……?」


「うむ……覚えておくが良い、ハルモニアの新しき民よ」


 バアルはセラフィナの方へと向き直ると、


「──旅は楽しかったかね、?」


 セラフィナはバアルからの問いには答えず、醒めた目で彼を見上げながら、


「──死天衆ともあろう者が、私に何の用?」


「そんなに嫌そうな顔をせずとも、良いではないか」


「だって私、貴方たちのこと嫌いだから」


 相手が死天衆でも物怖じすることなく、セラフィナは静かに敵意を露わにする。


「単刀直入に言おう。皇帝陛下がお呼びだ、セラフィナ。そこの男を連れて、帝都アルカディアまで来るように」


「拒否権は?」


「ない。従わなくば、死あるのみ」


 即答するバアル……セラフィナは溜め息を一つ吐くと、小さく頷いた。


「分かった。歩きだと時間が掛かるから、ドラゴンを一頭こちらに寄越してくれない?」


「良かろう。では、な──?」


 バアルは高らかに笑いながら、その場から音もなく姿を消した。


「セラフィナ……今のは?」


 混乱した様子のシェイドが尋ねると、セラフィナはわずかに眉をひそめながら、


「……バアル。死天衆の一柱。強者との戦いに飢えている、勇猛苛烈なる戦闘王。彼一人で恐らく、精強なる兵数万に匹敵するんじゃないかな」


「あんなのが、あと四人も……」


「うん。他の死天衆の名前を挙げると、アスモデウス、アモン、アザゼル……そしてベリアル。バアルは死天衆の中で二番目に強い、正に生ける天災みたいな怪物」


 セラフィナはそこで、困ったように首を傾げると、


「はぁ……皇帝陛下がお呼びだから、君と一緒に来るように、か……」


「……何か、問題がありそうだな」


「そう、だね……戻ってきて早々、何らかの厄介事に巻き込まれそうな予感がする。多分、君も一緒に巻き込まれることになると思う」


「それは、皇帝が君に押し付けてくるのか?」


 セラフィナは、首を横に振って否定し、シェイドに皇帝の人物像を簡潔に語って聞かせる。


「皇帝陛下はかなり変わっているけど、少なくとも私から見れば悪人ではないかな。ハルモニアという国を愛し、そこに住まう民も愛している、模範的な為政者」


「……じゃあ、誰が?」


 露骨に嫌そうな顔をしながらも、セラフィナは律儀に、


「──堕天使ベリアル」


 堕天使ベリアル──死天衆のリーダー格。大地の女神シェオル、並びに自分以外の存在を全て"無価値なもの"と断じて嘲笑っている、現行世界で最も美しい容姿を持つ者。


 常に皇帝の傍にはべっている彼が、嫌がらせなのか将又はたまた面白がっているのかは定かではないが、事ある毎にセラフィナを帝都アルカディアに呼び付けてくるという。


「何と言うか……同情するよ」


「そう? ありがと」


「断れないのか?」


「断れないね。向こうの方が遥かに強いから、逆らえない」


 堕罪者さえも容易く処せるセラフィナ……そんな彼女が、自分よりも遥かに強いとまで言い切るベリアルとは、一体どんな化け物なのだろうか。


「ひょっとして、悍ましい怪物の姿を想像してる?」


「まぁな」


「じゃあ、気を付けた方が良いね。ベリアルは、神が創造した全存在の中で、最も美しい姿をしている。おまけに、耳に心地好い声で話すから」


 セラフィナに同意するように、マルコシアスが小さく鳴き声を発する。


「あと、見返りとして生け贄を要求してくるから、安易にベリアルと約束はしない方が良いよ」


「嘘だろ……」


「悲しいけど現実だよ。先の大戦で、ベリアルを召喚するために五十人もの巫女が命を落とした。でも彼は、それだけでは飽き足らず、追加で贄を皇帝陛下に要求した」


 それからというもの、皇帝は精神にやや異常を来たしているという。セラフィナが彼を"かなり変わっている"と評したのは、どうやらそれが理由のようだ。


「でもまぁ……ベリアルやバアルといった死天衆の面々は、ハルモニアの守護者のような存在。君がハルモニアの民として認可されれば、如何に彼らと言えども、流石に手は出してこないと思うけど」


「だと、良いけどな……」


 不安しか感じないのは、何故なのだろうか。シェイド自身にも、よく分からない。


 確かに、ハルモニア国境守備隊の面々は、聖教徒であるシェイドに対しても親切だったし、聖教徒に対する差別意識のようなものも感じられなかった。


 しかし──


「…………」


「……シェイド?」


 考えるのはよそう。帝都に行けば、この不安の正体は何か分かるだろうから。


「いや……何でもない」


「──迎えのドラゴンが来るのは、早くて明後日。焦らずにゆっくり身体を癒してね」


「あぁ、分かった。ありがとう、セラフィナ」


「じゃあ、私は近くの森で剣を振ってくるから」


 セラフィナはそう言い残すとブーツを履き、愛用している長剣を携えて救護所から出ていった。


「……良いのか? 相棒の傍にいなくても」


 その場に残っているマルコシアスに訊くと、マルコシアスは尻尾を振りながら枕元まで寄ってくる。


 残っていろとセラフィナに言われたのか、それともセラフィナならば、放っておいても大丈夫だろうという信頼の表れなのか。


「仕方ないなぁ……ほら、毛繕いをしてやろう。セラフィナほど上手くはないが、文句は言うなよ?」


 シェイドの言葉が伝わったのか、マルコシアスは楽しげに一声吠えた。

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