第3話 堕罪者
それから瞬く間に、数日が経過した。
シェイドとシスターから説得され、結局セラフィナはマルコシアスと共に、まだ教会に留まっていた。
スティグマータからの出血は治まったこと、それが起こるのは新月の夜だけで、それさえ乗り切れば、次の新月の夜までは何の問題もないことを説明しても、彼らは決して首を縦に振らなかった。
完調するまでは身を休めた方が良い──真剣な表情でそう言われてしまっては、断ることが出来なかった。
せめて、家事や警備の手伝いをさせてもらえないかと二人に頼んでみたが、取り付く島もなかった。そのためセラフィナは日がな一日、愛用している剣の手入れや、マルコシアスの毛繕いをしつつ本を読むという、当人としてはかなり自堕落な生活を送っていた。
そんなある日──
何時ものようにセラフィナが剣の手入れをしていると、村の方から鐘の音が聞こえてきた。
直ぐに鳴り止むかと思ったが、鐘の音が鳴り止む気配はない。どうやら、村の中で何か良くないことが起こったらしい。
「……シスター、あれは?」
大寝室に入ってきたシスターにそう問い掛けると、シスターは何やら不安そうな様子で、セラフィナの顔と窓の外に広がる景色とを交互に見やりながら、
「あれは……異常事態を報せる警報です。村の外から魔族や堕罪者が侵入した際……或いは村の中に堕罪者が出現した時に、ああやって警報を鳴らすんです」
その言葉を聞き、セラフィナは即座に考えを巡らせる。
シェイドはこの時間帯、村の外に出て、周囲に魔族や堕罪者が徘徊していないか見回っている。それらの脅威が外部から侵入した可能性は、低いと考えて良い。つまり──
「──村人の誰かが、堕罪者になったってことだね」
セラフィナは無表情のまま、素早い動きで剣を腰の鞘に納めると、軽やかな動きでマルコシアスの背に跨った。
「ちょっ……! セラフィナさん!?」
「私が対処してきます──危険ですから、シスターはこのまま教会でお待ちになっていて下さい」
「そんな……無茶です!! 貴方の身体はまだ──」
「ご心配なく。シスターの仰る通り、まだまだ本調子ではありませんが、それなりには動けますから」
「で、ですが……!」
尚も止めようとするシスターに対し、セラフィナは穏やかな態度のまま、
「──シェイドが不在の今、村の中に出現したであろう、堕罪者若しくは魔族──恐らくは前者でしょうが──それらに対抗し得る可能性を有しているのは、私だけですよ、シスター。このまま事態を放置したならば、徒に被害だけが拡大してゆく。貴方は、私にそれを見過ごせと仰るのですか?」
「…………」
「誰かが、止めなければならない。それは、シスターもお分かりでしょう?」
静かに言葉を紡ぐセラフィナ──だが、その言葉には、有無を言わせぬ迫力があった。
「では──」
「──ま、待って下さい!!」
「待てません。行きます」
セラフィナはシスターの制止を振り切ると、マルコシアスと共に教会を飛び出し、一陣の黒い風となって、村へと続く道を駆け抜けてゆく。
その場に一人残されたシスターは呆然と、死地へと向かうセラフィナの後ろ姿を見つめていた。
濛々と土煙が立ち込める村の広場──土煙の中で巨大な黒い
村の中に入ると、既に何人かの男女が、血の海の中に倒れ伏していた。彼らは皆、胸や背、腹部などに巨大な引っ掻き傷のようなものが刻まれ、中には傷から内臓が飛び出している者もいた。
逃げ惑う村人たちには目もくれず、マルコシアスに跨ったセラフィナは真っ直ぐ、この異常事態を引き起こした元凶の元へと向かう。
刹那──獣のような唸り声と、女の悲鳴が聞こえ、セラフィナはマルコシアスに止まるよう促し、彼女の背から飛び降りた。
濛々と立ち上る土煙の中より、一人の若い女が、血の溢れ出る右腕を押さえながら、セラフィナの方へと走ってくるのが見えた。
そして──まるで、女を逃がすまいとするかの如く、土煙の中より
「やっぱり──堕罪者か」
それは、村人たちが暮らす家ほどもある巨躯を有する異形だった。身体は塗りつぶされたかの如く黒く、異常に発達した両腕と鋭い鉤爪が特徴的だ。
何より目を引くのは、顔だった。口は耳まで裂けて無数の牙が剥き出しとなっており、伸縮自在の舌を忙しなく動かしていたものの、堕罪する前の面影が色濃く残っているため、誰が堕罪したのかは一目瞭然だった。
セラフィナがこの村を訪れた際、彼女が一番最初に声を掛けた、馬の世話をしていた男──それが、眼前に佇む堕罪者の正体だった。
逃げる女の息の根を止めようと、堕罪者が手を大きく振り上げる。生じた隙を見逃さず、がら空きとなった懐へとセラフィナは飛び込んだ。
「──させない、よ!!」
セラフィナの放った強烈な三日月蹴りが鳩尾へと炸裂し、堕罪者は雄叫びを上げながら仰向けに倒れ込む。セラフィナは一体何が起こったのか分からないという様子で、目を
「──何、足を止めているの?」
「えっ……?」
「死にたくないなら、足を動かしなさい。ほら、早く!」
「……は、はい!!」
弩にでも弾かれたように、再び女が走り出したのを確認すると、セラフィナは何事もなかったかのようにむくりと起き上がった堕罪者へと向き直った。堕罪者は虚ろな眼窩でセラフィナを睨み付けながら、無邪気な笑い声を上げていた。
その笑顔はさながら、子供が好奇心から虫の脚をもぎ取った際に見せる、無垢で残酷な笑顔のようであった。
満面の笑みを浮かべる堕罪者とは対照的に、セラフィナは何処か醒めた様子で剣を按じる。
「何が原因で堕罪したのかは知らないけど……人を何人も殺したんだ。その報いは、受けてもらうよ」
セラフィナが、無音で抜剣すると同時に──堕罪者の胸部に巨大な斬り傷が刻まれ、どす黒い血が噴き出す。それが、開戦の合図だった。
自分の身体に傷を付けられたことに怒り狂ったのか、堕罪者は咆哮しながら突進し、セラフィナを叩き潰そうと手を振り上げる。
セラフィナが動じることなく指笛を吹くと、気配を殺して移動していたマルコシアスが、側面から勢い良く飛び掛かり、堕罪者は大きく体勢を崩した。
「──罪には、罰を」
セラフィナが、流麗なる動きで剣を振るう。マルコシアスの体当たりによって体勢を崩した堕罪者は、その一撃を躱すことが出来なかった。
堕罪者の右腕が、音を立てて落下する。傷口から大量の黒い血が噴き出し、堕罪者は金切り声を上げた。
「……
セラフィナは追撃で、堕罪者の膝頭を蹴り飛ばす。間髪入れず、マルコシアスが膝を付いた堕罪者の背に飛び乗り、鋭い牙で首筋に噛み付く。堕罪者はマルコシアスを振り払おうとするも、相手の動きが予想以上に素早いためか、まるで攻撃が当たらない。
そして、マルコシアスにばかり気を取られていると、当然セラフィナに対する警戒が疎かとなる。
セラフィナの斬撃が、今度は左腕を吹き飛ばす。それでも堕罪者は戦意を喪失しておらず、伸縮自在の舌を高速で伸ばし、セラフィナの身体を貫こうと試みる。
「堕罪した者に、抗拒は認められない」
セラフィナは平然と舌の一撃を剣で弾き返し、そのまま舌を斬り落とす。これによって、堕罪者はセラフィナに対する有効的な攻撃手段を殆ど喪失した。両腕を喪失し、片方の膝頭が破壊されているため、そもそも動くことすらままならない。
──そろそろ、頃合いだろう。
セラフィナは剣を鞘へと収めると、右足の爪先で軽く地面を叩いた。セラフィナの足元に、正五芒星の描かれた魔法陣が姿を現す。
苦悶の声を漏らす堕罪者へと左手をかざし、セラフィナは透き通った声で、高らかに彼の者の断罪を宣告した。
「──"汝、塵であるが故に塵に帰すべし"」
刹那──堕罪者の身体から、火の手が上がる。堕罪者は火だるまとなりながら、悲鳴を上げてのたうち回る。
「もっと苦しめ。欲に塗れ、人の姿を喪失し、そればかりか殺人という禁忌まで犯した。そんなお前に──与える慈悲など、欠片もない」
セラフィナがすっと目を細めると、その動きに呼応するかの如く、火の手は更に激しさを増してゆく。
マルコシアスが、傍へと駆け寄ってくる。セラフィナは焚き火の如く燃え盛り、断末魔の叫びを上げる堕罪者の姿を見つめながら、マルコシアスへと語り掛けた。
「……堕罪者へと変貌した村人が、一人だけで済んで良かった。若し複数人が一斉に堕罪していたら……私たちだけでは、手に負えなかったかもしれない」
マルコシアスが悲しそうな声を発すると、セラフィナも同意するように小さく頷いた。
「……そうだね。最善は尽くした。でも、犠牲者が数名出てしまったのは、間違いなく私たちの落ち度だ。村人たちから責められたとしても、文句は言えないね」
セラフィナは手をかざすのを止めると、マルコシアスの頭を優しく撫でる。青い炎を宿したその瞳には、全身を炎に包まれた堕罪者が力尽きて倒れ込み、少しずつ黒い塵へと変貌していく様が映り込んでいた。
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