第2話 聖痕

 セラフィナが目を覚ますと、そこは院長室ではなく大寝室のベッドの上だった。


 すっかり夜も更けているようで、蝋燭の薄明かりで照らされている範囲を除けば、暗闇に覆われて何も見えない。外から聞こえてくる風の哭く音が、心の奥底に眠る恐怖や不安を否応なしに掻き立てる。


 新月であるが故の、何とも言えない不気味な夜だ。


「あれ……ここ、は……?」


「セラフィナさん……ああ、良かった。やっと目を、覚ましてくれましたか……」


 視線を横へ動かすと、シスターがベッドのすぐ傍の床に座っており、何処か疲弊しきった様子でセラフィナを見つめながら、ほっと安堵の溜め息を吐くのが見えた。


「シスター……? 私、は……?」


「喋らないで下さい……今、包帯を取り替えますから」


 シスターのその言葉と、彼女が着ている修道服の袖にべったりと付着した大量の血液……そして、左胸から絶え間なく発せられる灼けるような激痛から、セラフィナは自分の身に何が起こったのかを悟った。


「……身を、起こせますか?」


「……ええ。何とか」


 シスターの問いに対し、セラフィナは弱々しく頷くと、整った顔に苦悶の表情を浮かべながら、緩慢な動作で身を起こした。


 止血の際に、邪魔となったのだろう。上衣とマントは脱がされたようで、上半身には何の衣類も身につけてはいない。それらの代わりに、血が染み込んでぐっしょりと濡れている包帯が、セラフィナの胸部を覆っていた。


 シスターが包帯を取ると、小振りながらも整った乳房が露わとなる。冷汗と血液とが混ざり合い、雫となってシーツへと落ちゆく様が、妙に耽美的だ。


 そして、左側の乳房の少し上に"それ"はあった。


 正五芒星の形状をした、大きな傷。セラフィナが呼吸を繰り返す度に傷口がぱっくりと開き、そこから緋色の血が溢れ出している。


 ──"聖痕スティグマータ"。


 世界にはごく稀に、特別な力を持った人間が生まれることがあった。彼らは"聖者"、或いは"聖人"と呼ばれ、見た目や能力は様々であったが、共通して身体の何処かにスティグマータが刻まれていたとされる。


 セラフィナの左胸に刻まれたそれは、紛れもなくスティグマータであった。


 シスターは慎重な手付きで、セラフィナの胸部を包帯で覆ってゆく。世にも珍しいスティグマータを見たいという想いと、手当てを最優先しなければという使命感との間で揺れ動きつつ、結果的にどうやら後者が勝ったようであった。


 シスターが包帯を巻き終えると、扉をノックする音が軽く響き渡る。


「──今、包帯を取り替え終わりました。どうぞ」


 シスターがそう言い終わらぬ内に扉が開かれ、マルコシアスがセラフィナの元へと駆け寄ってくる。余程、心配していたのだろう。彼女は尻尾を激しく振りながら、セラフィナの手や顔を舐め回した。


「……やぁ、マルコシアス。心配を、掛けたね……」


「──全くだ」


 やや不機嫌そうな声が耳に届くと共に、シェイドが頭を振りながら寝室内へと入ってくる。彼の衣服にも大量の返り血が付いており、更には顔や手に、マルコシアスのものと思われる引っ掻き傷が数箇所刻まれていた。


「シェイドさんが、セラフィナさんを寝室まで運んで下さったんです。私は、目の前の惨状にもうパニック状態になって……シェイドさんに言われるまで、まともに動くことさえ出来ませんでした……」


「……心臓が口から飛び出るかと思ったよ。君を起こしに行ったシスターの悲鳴が聞こえて部屋に飛び込んだら、室内は血の臭いが充満しているわ、君は真っ青になって、胸から血を流してぐったりしているわ……」


 そこで一旦言葉を区切ると、シェイドは先程のシスターと同様に、安堵の笑みを浮かべながら、


「何にせよ、意識が戻って良かった。若し、そのまま死なれでもしたら洒落にならないし、何より胸糞が悪い」


「……心配、してくれたんだ。異教徒の私なんかを」


「……まぁな。それで、何が原因でこうなったんだ?」


「シェイドさん……セラフィナさんはまだ──」


 咎めるシスターをやんわりと制すると、セラフィナは今にも消え入りそうな声で、


「……シスター、構いません。彼にも……知る権利はあります」


「セラフィナさん……」


 シスターはそっと、セラフィナの手を握る。小さなその手は元々白かったのが更に青白くなっており、冷たい汗で湿っている。呼吸が浅く、脈も速い。明らかに、彼女は血が足りていなかった。


 現に彼女は、自らの意識を繋ぎ止めることで精一杯といった様子であり、とてもでないが、このまま会話を続けられるほどの余力はなさそうだ。


「……私が、代わりに説明します。セラフィナさんは、どうか休んで下さい」


「……シス、ター……?」


「大丈夫です──セラフィナさんを貶めるようなことは、天空に坐す主に誓って、絶対に致しません。この目で見たものを、そのままシェイドさんに伝えるだけです」


「で、も……」


 その時、マルコシアスが小さな鳴き声を発しながら、セラフィナの頬を舐めた。


「……そっか。分かったよ……マルコ、シアス……」


 彼女から何かを伝えられたのか、セラフィナはほっと一つ溜め息を吐くと、静かに目を閉じた。マルコシアスが落ち着いていることから察するに、どうやら再び気を失った様子だった。


 彼女の胸が上下しているのを確認すると、シスターはシェイドへと顔を向け、意を決したように話し始めた。


「彼女がこうなった原因は……古傷なんかではありません」


「……どういうことだ?」


「セラフィナさんの左胸──乳房の少し上辺りに、正五芒星の形状をしたスティグマータがありました」


 スティグマータ……その言葉を聞き、シェイドの目がわずかに見開かれた。


「止血する際に、この目で然と見ました。あれは、紛れもなくスティグマータ……血も、そこから溢れ出していました」


「……間違いないのか?」


「はい……見間違えるはずがありません」


「で、あるならば……彼女は"聖人"なのか……?」


「分かりません……ただ一つ言えることは、胸に刻まれたスティグマータが、セラフィナさんを傷付け、蝕み、そして苦しめている……ということです」


「しかし……」


 流石のシェイドも、戸惑いを隠せない様子だった。シスターもまた、その事実に困惑を隠せなかった。


 スティグマータが、対象を苦しめる──そのような事例は未だ嘗て存在していないからだ。


 存命中の人物でスティグマータを有していることが公表されているのは、聖教会の象徴とも言うべき存在──"聖女"シオンただ一人である。だが、彼女がスティグマータに身体を蝕まれているという話は聞かない。


 何故、セラフィナの身に刻まれたスティグマータは彼女を傷付け、苦しめるのだろうか。そもそも、何故セラフィナの身にスティグマータが刻まれているのか。


「……謎は尽きぬ、か」


「……でも、良かった。シェイドさんが、セラフィナさんを連れてきてくれて」


「どうして?」


 怪訝そうな顔をするシェイドを見つめ、シスターはやつれた顔に笑みを湛えながら、


「だって……シェイドさんが声を掛けなかったら、この子は荒野で死んでいたかもしれません。魔族や堕罪者に襲われ、悲惨な最期を迎えていたかもしれません。そんなの、余りにも可哀想です」


「……だな。だが、それは彼女にスティグマータがあると分かった今だからこそ、そう言えるってだけだ」


「そうかもしれません──でも、知った今だからこそ、彼女を拒絶しなくて良かったと……本気で、そう思います」


 歴代の聖者たちは例外なく、何らかの偉業を成し遂げてきたとされる。若し、セラフィナが本当に聖者だとしたら、彼女もまた滅びゆくこの世界で、何らかの偉業を成し遂げることだろう。


 その可能性を潰さずに済んだ。若し少しでも判断を誤っていたならば、聖者かもしれない少女を、みすみす見殺しにしてしまうところだった。そうならなくて……正しい選択が出来て、本当に良かった。シスターの言葉の端々からは、そのような意図が読み取れた。


 それを愚かしいとは、シェイドは思わなかった。聖教徒ならば、或いは異教徒であっても、眼前で慈しむようにセラフィナの頬を撫でているシスターと、恐らく似たようなことを思い、そして考えるであろうから。


 あと二、三時間ほどで夜が明ける。まともに動ける状態になくとも、セラフィナは目を覚まして直ぐ、この地から去りたがることだろう。


 ──無理もない。この地には、悪意が満ちすぎている。


 セラフィナという少女は、恐らく本能か直感のようなもので、他者の悪意や敵意などを鋭敏に察することが出来る。これまでの彼女の態度から、シェイドはそう考えていた。


 暫く引き止めるべきだろうか。それとも、彼女の意思を尊重するべきだろうか。


 マルコシアスと目が合う。凛々しい顔立ちの黒き牝狼は何も語らず、煌々と輝く金色の瞳をギョロリと動かし、シェイドの顔をじっと睨み付けた。


 ──"お前が決めろ"。


 まるで、彼女がそう言っているかのように、シェイドには感じられた。正気か、と心の中で尋ねてみたが、マルコシアスからの答えが返ってくることは、遂になかった。

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