クリスマスの小さな奇跡
綿屋伊織
第1話
「私も最初から」
イーリスは言った。
教会の鐘の音が厳かに響く中、暖炉で薪が小さくはぜた。
「神を信じていたわけではない」
「へえ?」
水瀬はコーヒーメーカーの具合を注意深く見守りながら、適当な返事をした。
「こんな日に出る話題とも思えないから驚いた」
「……そうだな」
小さく苦笑して、イーリスは窓の外を見た。
12月24日―――クリスマス・イブ。
教会のミサを終えた後も友達と話し込んでいた華雅女子学園の生徒達も、三々五々、寮への帰路に就き始めている。
「そういえば」
「ん?」
「子供が亡くなったって聞いたけど?」
「ああ」
イーリスは小さく頷いた。
「数日前、用務員の娘さんが感染症で亡くなった」
「あの感染症は魔法治療出来ないからね」
「うむ……気の毒なことをした。まだ洗礼前だった」
「洗礼前に死ぬと、どうなるの?」
「天国に行けない」
「薄情」そう言いかけて、水瀬は首を傾げた。
「天国と地獄の概念もない神道の司祭の息子のセリフじゃないか」
「昔からそう言われている」
イーリスは聞かなかったことにした。
宗教論争なんて興味すらない。
「神は哀れみ深い御方とはいえ、洗礼という教義が絡むと話が違ってくるらしいな」
「イーリスさんはどう思っているの?」
「それは」
イーリスは、少し言い淀んだ様子で黙った後、言った。
「私の信仰と絡む話だ」
「?」
「……こんな日だ」
イーリスは窓辺に腰を下ろし、星のない夜空を眺めながら言った。
「奇跡の話ってのをしてやろう」
イエス・キリストが洗礼を受けないで死んだ子供に天国の門戸を開かない。
そうは言っても、洗礼を受けずに死んだ子供の魂だって、どこかにいかなければならない。
ヨーロッパの人々は、イエスの代わりを、キリスト教より前から伝わる言い伝えに出てくる天地の神、多くは女神に託した。
仏教徒が地蔵菩薩の慈悲に縋るのと同じく、その慈悲が子供達の魂の世話をしてくれると信じたのだろう。
故郷を戦果に焼かれ、組織に引き取られた私が修行に出た先はドイツ帝国バイエルン地方。
この一帯でもそんな考えがあってな?
“ペルヒタ母さん”という人が、子供達の面倒を見てくれることになっているんだ。
このペルヒタ母さんは、アルプスの山の下にある、地底に国を持っている。
ペルヒタ母さんは、その、誰も知らない国で、洗礼を受けずに死んだ子供達の魂を大切に面倒を見ている。
どんな国かって?
誰も見たことはないが、想像して見ろ。
明るくて、暖かで、現世で救われなかった弱き魂に与えられた天国の代わりの国。
不自由一つするものか。
そうでなければ、子供を失った親がたまらんだろう?
地獄の賽の河原で満足する方がどうかしているんだ。
―――ただ、この地底の子供達にも問題はある。
名前がないんだ。
ん?
違う。
親が名付けた名ではなく、教会の洗礼で受ける名のことだ。
死んだ後も神の前で通る名は、この時つけられた名だ。
これがないために、地底の子供達は、誰も彼も名無しなんだ。
……。
……名無しの一号二号って、お前な。
“色々、有利になるような名前がいい”って理由で“悠理”と名付けられたお前が言うか?
……知らなかったのか?
お前のご両親から聞いたんだが?
……まぁいい。
泣くな。
このペルヒタ母さんが、年に数日間、子供達を地上で遊ばせることがあるんだ。
クリスマスから「東方三博士の日」、つまり1月6日までの12日間だ。
この間に、夜道を歩いていると、道の向こうから風に吹かれた粉雪のようなものがふわふわと漂いながら通り過ぎるのを見ることがあると昔から言われている。
それが、地底の子供達だ。
私もそれを見たんだ。
修行があまりに厳しく、師匠も厳格で、ついに耐えられずに逃げ出したんだ。
食べるものもなく、外套もなく、ただ寒さと飢えでふらふらになりながら、村から村へと逃げていた。
どこへと聞かれてもわからない。
当時の私は、誰だろうと大人という生き物すべてが恐怖の対象だったからな。
ただひたすらに、大人のいない世界がないか。
それを探していたような気がする。
そんなある日の深夜。
ある街で、石畳の続く道を歩いていた。
教会の鐘の音と、家々のドアに飾られたクリスマス・リースで、初めてその日がクリスマスだと知った。
雪が降りそうな曇天と暗い夜道がいやが上に心細くさせてくれた。
私は無意識に灯りを求めて石畳の中をさまよった。
いくつか角を曲がった先で、私は小さなたき火を見つけた。
たぶん、集会か何かがあったんだろう。
クリスマス飾りや食べ残しが散乱する中、消し忘れたらしい小さなたき火だったが、私にとってはオアシスそのものだった。
私は駆け寄って、たき火の残り火で体を温めた。
食べ残しらしい、凍りかかったチキンの残りかすをゴミ箱からみつけ、食べあさった。
数日ぶりの暖と食べ物だ。
クリスマスの奇跡だと、私は少しだけ嬉しかったよ。
どうやったら、このたき火の側で誰にも見つからずに眠ることが出来るだろう?
そんなことを考えていたら、いつの間にか雲がきれて月明かりが差し込んできた。
私が、自分の目の前の道を、何かが通り過ぎようとしているのに気づいたのは、その時だった。
最初は雪がちらついてきたとしか見えなかった。
だが、よく見て驚いた。
それは雪なんかじゃない。
月明かりの下を子供達が歩いていたのだ。
どの子も白くて長いシャツを着ていた。
知っているか?
白は罪汚れのない純潔の印なのだ。
深夜の寒い中、シャツ一枚で軽やかに、楽しげに進む子供達。
私は最初こそ、恐怖を越えて唖然としてその子供達の列を見送っていたが、子供達が浮かべている本当に嬉しそうな顔を見ていると、なんだか私までうれしさがこみ上げてきた。
ところが、子供達の列の一番後ろ。
よたよたと歩いている小さい子供がいた。
みんなについていけないんだ。
何故?
その子の白いシャツが、その子には長すぎたのさ。
私の前を通り過ぎようとするわずかな距離でさえ、その子はしょっちゅう裾を踏んづけて躓いてばかりだ。
本当のちびすけだったんだ。
……水瀬、お前よりちびはこの世にいる。
良かったな。
……とにかく、その子が私も気の毒になってな?
思わず声をかけたんだ。
「おいで。ちびすけ(フーデルヴァッフル)。シャツを短くしてあげる」
あの子が私の声に気づいて、私に近づき、私はシャツをしばってやる。
そうすれば、あの子は転ばずにすむようになる。
そう思った。
だが、そうはいかなかった。
ちびすけ(フーデルヴァッフル)。
私にそう呼ばれた子は、驚いた顔をして、私に向かって叫んだんだ。
「お姉さん。どうもありがとう。今、僕に名前をくれたね。僕の名前はちびすけ(フーデルヴァッフル)だ!これで天国にいけるよ!」
突然、そう叫ばれてびっくりする私の前で、罪汚れのないことを示す白い服が不意に光り輝き出したのはその時だ。
光があまりに強くて、私は思わず目を覆った。
私はもう何も見えなかった。
だけど、そのおかげで私の耳は、その子が名前をもらったことのうれしさに、思わず心の底から叫んだ声がはっきりと聞こえた。
「やったぁ!やったぁ!やったぁ!」
「―――へえ?」
水瀬はコーヒーメーカーから視線を離した。
「それで?」
「私は翌日、組織に連れ戻された。修行は厳しくなる一方だったが、それでも私がそんな日々に耐えられたのは、この一件があってのことさ」
イーリスはコーヒーを注ぐ水瀬をちらりと見ると、再び視線を空に向けた。
「神は存在する。その慈悲は、例えどれほど時がかかろうとも、必ず全てに訪れる。なら私にも……きっと」
「……なるほど」
水瀬はコーヒーを注ぎながら訊ねた。
「イーリスさんにとって、救いって何?」
「さぁな」
悪戯っぽく肩をすくめたイーリスが苦笑した。
「願い事は口にするとかなわなくなるというからな」
「―――意地悪」
水瀬はコーヒーをイーリスに手渡した。
「はい。とりあえずメリー・クリスマス」
「メリークリスマス―――おっ?」
「どうしたの?」
「……雪だ」
「本当だ」
水瀬は言った。
「ちびすけ(フーデルヴァッフル)達のお出ましだ」
そして、何度もちびすけちびすけと言い続けた。
「どうしたんだ?」
「ううん?」水瀬は少しだけ残念そうに言った。
「何人か救えたかなと思って」
「ただそう叫ぶだけで人が救えるなら、いくらで言ってやる」
イーリスは「水瀬の」と言い置き、息を吸うと窓の外にむけて怒鳴った。
「お前はバカ!」
「はすっぱ!」
「ちびすけ!」
「暴力女!」
「性格破綻者!」
二人は笑いながら互いの悪口を一通り叫んだ後、互いに笑い出した。
「悪くないな」
「大声あげるのって、いいストレス発散だよ」
「そうだな」
言いかけたイーリスと水瀬の前で、窓の外で光が走った。
僕はちびすけ!
僕はバカ!
僕は―――!!
私は―――!!
やったぁ!
やったぁ!
「……」
「……」
窓の外から聞こえてきた何十人もの歓喜の声。
「……どうする?」
「どうするって言われても……」
その夜。
イーリスは、神様からさんざん怒られる夢を見たという。
後書き
オトフリート・プロイスラー氏の昔話を下敷きにしています。たまに昔話を読むと心が救われます。
とりあえずメリークリスマスってことで。
クリスマスの小さな奇跡 綿屋伊織 @iori-wataya
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