スコール

百目鬼 祐壱

スコール

 雑踏は吐き出された檳榔の汚れで埋め尽くされていた。すべてを踏みつけないよう歩くのは至難の技で、薄っぺらなビーチサンダルの底を赤に染めあげていく。行き交う人々は浅黒い肌を露出して、南国の熱気を力強く闊歩する。通りの端では行商が魚や野菜をビニールシートの上に並べ、そのどれもに信じられないほどの蠅がたかっていた。市場のような匂いが嗅覚を占領し、鳴りやまぬクラクションが聴覚をほしいままにする。

 ぎりぎりを滑空するジャンボジェットが大きな影を街に落としたが、誰も空を見上げることはない。空港は街の中心からほとんど離れていないが、ここらの人々とはほとんど所縁のないものかもしれない。

 この街にやってきてから二日が経った。予約した飛行機は土曜日だから、あと三日はここにいることになる。

 旅行者にとって、お世辞にも過ごしやすい街ではない。宿は不足しており値段も張る。分かりやすい観光名所もないし、排気ガスも酷く空気も悪い。この国の中ではもっとも人口が多いという、それだけの街だった。

 クラクションが鳴る。「タクシー?」と人力車の車夫が聞いてくる。答えずにいると、しつこくまとわりついてくるので、怒気をこめてノーと振り払ったが、また別の車夫が道をふさいでくる。どれも跳ねのけて大通りに出ると、歩道の信号は青ではあるが、行き交うバイクは留まることを知らず、なかなか渡ることができない。大通りの向こうでは工具店の前で二匹の犬が喧嘩していた。店内から現れた男がそのうち一匹を蹴り上げ、もう一匹は怖気づいてしっぽをまいて逃げ出す様子が、目に入った。

 ようやく宿に戻ると、同室の人間がMacBookで何かしらの作業をしていた。Wi-Fiが繋がるのかと英語で聞くと、今日は大丈夫だとこちらを見ることなく男は言った。携帯を手にすると確かに電波は繋がっていたが、通知は一件もなかった。飯はどうしたかと聞かれたので、これからだと答えると、一緒に食べに行こうと男に誘われた。

 いい店を知っているというのでついていったが、現地民もほとんどいない薄汚れた定食屋だった。何も注文せずとも、脂ぎったパンのようなものとうすくちのスープが出された。1ドルでたらふく食えると男は自慢げだったが、どれもまったくおいしくなかった。一眼レフのカメラで料理や店内の様子を撮影する男の様子を、店員が怪訝そうな表情で眺めていた。

 店を出てしばらく歩くと乞食の子どもたちに囲まれた。男は蠅でもはらうように子どもたちをあしらい、そうして、俺はこの国に何か我々先進国の人間が失ってしまったパワーを感じるんだと、そう言った。私は首肯するでも否定するでもなく、男と肩を並べて宿までの道を歩いた。

 ドミトリーに戻り、冷水しか出ないシャワーを浴びて、湿っぽいシーツがかけられたベッドの上に横たわって、スマートフォンをいじっていた。すると屋外から大きな音が聞こえた。小さな窓から外を見ると、豪雨が檳榔まみれの舗装を叩きつけはじめた。地響きのような音が鳴りやまず、雷が鳴るごとに建物が大きく揺れるようだった。すぐに電気はすべて落ち、室内はまっくらになった。インフラの脆弱なこの国ではよくあることだと宿主から後で聞かされた。

 雨はその激しさとは裏腹に二十分もすればすぐに引いた。電気は戻らなかったので、薄暗い宿を抜け出して通りに出てみると、あちらこちらに水たまりができていたが、人々はすぐに元に戻り、街路は再び雑踏へと姿を変えたが、うだるような熱気は後退し、夜の匂いをどこからか運んできていた。

 先ほどまでの疲労は消え去り、私は人ごみの中へと進んで体を差し入れた。先ほどよりも女や子供の姿を多く目にする気がする。どこに向かうでもなく、人々の流れに身を任せていると、川沿いの通りへといつのまにか流れ着いていた。通りには屋台が並んでいて、食欲をそそる匂いが立ち込めていた。お面をかぶった子供たちが楽し気に駆けまわっている。こんな場所があるとは知らなかった。

 川の向こうでは陽が傾き始めていた。スマートフォンのカメラをそちらに向けると、子供たちが割って入って邪魔をしてきたので、そのまま撮影した。撮った写真を見ると、逆光の中でも分かる満面の笑みを皆うかべていた。それを見せると、彼らはひどくはしゃいで私の分からない言葉を投げかけて、そのまま人ごみの中へ消えていった。

 夕空をまたジャンボジェットが飛んでいた。手を伸ばせば届きそうな高度だった。

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