雪の魔王と春の精霊
楠結衣
第1話
――むかし、むかし、まだこの地に名前がない昔のことです。
この地には氷の精霊が住んでいました。
氷の精霊は、雪に愛されたような煌めく銀髪、薄い水色の瞳をしていました。
氷の精霊が触れる物は全て美しい氷の結晶になりました。氷の精霊には友達も話す相手も居ませんでしたが、美しい氷の世界があれば何も要らないと思いました。
ある日のこと、氷の世界が少し溶けていました。
美しい氷の世界に茶色の汚れが見えていました。
「なんて醜い……」
氷の精霊が嘆き、その手をかざすと氷が汚れを覆うように再び氷の美しい世界に戻りました。
次の日、また氷の世界が少し溶けていました。
美しい樹氷がただのつまらない木になっていました。
「なんて醜い……」
氷の精霊が嘆き、その手をかざすとつまらない木は再び美しい樹氷に戻りました。
また次の日もその次の日も、美しい氷の世界が少し溶けています。
「なんて醜い……」
氷の精霊が嘆き、次の日もその次の日も美しい氷の世界に戻しました。
幾度の次の日もまた氷の世界が溶けているのを嘆き、美しい氷の世界に戻さねばと思うと、鈴のような声が聞こえて来ました。
「どうして氷の世界に戻してしまうの? 春を呼んでいるのに……」
氷の精霊が声のする方を向くと、春の精霊がいました。
春の精霊は太陽に愛された様な金髪、青空を写したような碧い瞳でした。
「「なんて美しい――」」
2人の精霊はお互いを見た瞬間に惹かれあいました。
しかし、氷の精霊が作り出す一面の銀世界は春の精霊が触ると全て溶けてしまいます。春の精霊が芽吹かせる命を氷の精霊が触ると凍りつき再び眠ってしまいます。
それでも2人はお互いに惹かれあい、お互いを触れる事は出来ないまま、それでも、次の日も次の日も、またその次の日も逢いに行きました。
「貴方にこれを……」
氷の精霊が美しい氷の華を春の精霊に捧げます。
「まあ美しい――」
春の精霊が美しさのあまりそっと手を伸ばすと、美しい氷の華は音も立てずにただの水になりました。
氷の精霊は、春の精霊が微笑んでくれるのが嬉しくて、唯、その顔を見たくて、毎日毎日氷の華を作り、春の精霊に贈り続けました。
春の精霊も氷の精霊に春の美しさを伝えたくて、小さな野花を一輪咲かせました。
「ああ、氷のほかに美しい物があるんだな……」
氷の精霊は、野花の美しさのあまりそっと手を伸ばすと、美しい野花はただの氷漬けの花になりました。
春の精霊は、氷の精霊が微笑んでくれるのが嬉しくて、ただ、その顔を見たくて、毎日毎日野花を咲かせ、氷の精霊に贈り続けました。
2人はお互いを大切に想い合い、毎日幸せに暮らしていました。
ある日、春の精霊が氷の精霊に会っていると知った他の精霊が聞きました。
「なんで氷の精霊なんかに会うんだい?」
「氷の精霊が作る氷の世界が美しいのよ」
「触れることも出来ないのに?」
「――それは……」
「春の精霊には、花が似合うよ」
この精霊は花の精霊でした。
花の精霊は、春の精霊の輝く金髪に美しい花を一輪飾りました。
氷の華ではない美しい花は、春の精霊が触れても溶けません。
春の精霊と花の精霊のやりとりを氷の精霊が見ていました。氷の精霊は、今日も氷の華を春の精霊に贈りに来たところだったのです。
氷の精霊は、花の精霊に嫉妬をしました。
触れる事の出来ない春の精霊を大切に想えば想うほど、触れることができず、氷の華がただの水になってしまうことが苦しくて堪りません。
氷の精霊は、春の精霊を手に入れることができないことを知ってしまいました。
今まで、美しいと思っていた銀世界も虚しい景色だと気付きました。こんな色のない世界など無意味だと絶望と嫉妬が氷の精霊の心を閉ざして行きました。春の精霊に会うこともやめました。虚しい銀世界の中で、心を閉ざし、絶望、嫉妬によって、ますます虚しい銀世界が広がって行きました。
いつしか氷の精霊は、雪の魔王と呼ばれ、精霊や人々に恐れられるようになりました。
春の精霊がいつまでも現れない氷の精霊が心配になり、訪ねます。
美しい氷の扉をひらき、美しい氷の城へ入ります。春の精霊が通った道は、少し氷が溶けて行きました。
「氷の精霊……どうして会いに来てくれないの?」
氷の精霊は春の精霊を見た途端、愛おしいと想う気持ちと同じくらい、私の物にならないならば誰の物にもしたくないと醜い欲望をぶつけました。
氷の精霊は、春の精霊にむけて手をかざしました。
「いやっ! や、やめて――!」
氷の精霊は、春の精霊を氷漬けにしようとしたのです。春の精霊を自分の手の中に閉じ込めたかったのです。
春の精霊は驚き、氷の城から、氷の精霊から逃げ帰りました。
そのことを知った花の精霊や他の精霊たちは、雪の魔王をこのままにできないと話し合い、雪の魔王を倒すことにしました。
「私が雪の魔王を倒しましょう」
ひとりの子供が名乗りを上げました。
子供は精霊に愛される精霊の愛し子でした。
子供は雪の魔王と戦い、見事、雪の魔王を滅ぼしました。
雪の魔王が倒れたその時、氷の精霊を倒しに向かった子供のことを知った春の精霊が駆けつけ、倒れている雪の魔王に駆け寄りました。
「――どうして貴方がここにいるのだい?」
「私は貴方の作る氷の世界が美しいと思っていたの。私は貴方が好きだったの……」
「ああ、……私も貴方の咲かせる野花が美しいと思っていた。私も貴方のことが好きだった……」
そう言うと雪の魔王は息を引き取りました。
春の精霊は何も言わない氷の精霊を抱きしめ、はらはらと美しい涙を流しました。
美しい涙が氷の精霊に落ちると、氷の精霊がきらきらと輝き、小さなひと粒の種に変わりました。
「これはきっと雪の魔王の生まれ変わりだ。この種をこのままにすることは出来ない。」
精霊の愛し子は言いました。
春の精霊は、小さな種を胸に抱いたまま首を横に振りました。
「この種は、植えなければなりません」
「なぜです?」
「冬がなくなってしまいます」
「冬がなくなれば、みんなが喜ぶことでしょう」
精霊の愛し子の言葉に春の精霊は首を横に振りました。
「いいえ、冬がなければ春はこないのです。冬に植物は眠り、そして春に花を咲かせるのです」
「しかし――この種を植えて雪の魔王が復活したらどうするのですか?」
「この種は、きっと美しい大きな樹になるでしょう。私は、春風でこの樹を愛します。夏になれば葉が繁り、秋になれば葉が一枚、一枚、枯れて行き、全て枯れたときに冬を呼び、そして、必ず春が来ます」
「どうして必ず春が来ると言えるのでしょう? 雪の魔王が再び世界を銀世界にするかもしれません」
春の精霊は、今度は愛し子を見つめ、首を横に振りました。
「そのときは私を呼んで下さい。きっとこの樹は、氷の世界の中でも新芽をつけるはずです。私を、春風を呼んで下さい。氷の精霊が雪の魔王になっても必ず私が春を呼びましょう」
春の精霊の真剣な様子を見て、愛し子は悩みました。
「私は貴方達、精霊とちがい数十年で死んでしまうのです。ずっとこの樹を見守り続けることはできません」
「それならこの種の樹が育つここに国を建てて下さい。私は貴方や貴方の子孫に春の精霊の加護を約束しましょう――だからどうかこの種を植えてほしいのです」
精霊の愛し子は悩みました。
涙に濡れる美しい春の精霊の望みを叶えてあげたいが、雪の魔王の復活を助けてしまうかもしれない……。
春の精霊は何も言わず、青空を掬い取ったような碧眼で愛し子を見つめ続けました。
「分かりました。この種を植えましょう。そして、冬が残るときに貴方を、春風を呼びましょう」
精霊の愛し子が小さなひと粒の種を植えると、瞬く間に美しい樹が育ちました。
春の精霊は、この美しい樹の枝を1本切り取ると、きらきら光る春の粉をふりかけました。
春の粉を浴びた枝は、美しい杖に変わりました。
「私を、春風を呼ぶときは、この杖を使って下さい」
そう言うと、春の精霊は愛し子の前から姿を消しました。
大きく育った美しい樹は、春風に愛されると、そよそよと嬉しそうに揺られます。夏は葉を茂らせ、秋になると、寂しそうに、一枚、一枚、泣くように葉を落とすのです。
そして最後の葉がなくなると、冬がやってきました。
春の精霊が愛していた、美しい銀世界に包まれました。
何日も何日も冬が続き、人々は冬の魔王が復活したのではないかと怖れる頃、美しい樹は新芽をつけました。
愛し子は、新芽が芽吹いたことを人々に伝え、美しい樹の前に立つとこう唱えました。
「雪の魔王よ、立ち去れ。春風よ、来い」
暖かい春風が美しい樹を愛しむように撫でると、銀世界は氷の精霊が愛していた美しい野花が咲き誇る春へと変わりました。
この樹を「魔王の樹」と呼ぶ者もいましたが、美しい樹が春風に愛され揺れる姿を見るうちに、魔王の樹と呼ぶ者は居なくなり、精霊の愛し子の名前『ラシャドルの樹』といつしか呼ぶようになりました。
ラシャドルの樹があるこの地は、ラシャドルの地と呼ばれ、精霊の愛し子が治めるラシャドル王国は、春の精霊の加護を受け、いつまでも幸せに暮らしました。
むかし、むかし、まだこの地に名前がなかったむかしむかしの話です——。
雪の魔王と春の精霊 楠結衣 @Kusunoki0621
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