第13話
13
正午過ぎ、ヘンリー・チャンを乗せたグレーのランドローバーは目的地に到着した。クェートの西、ジャハラーから三十キロ。見渡す限りの砂丘の中に、忽然と現れたのは廃棄された工場跡地だった。
「ここっすね。ボス」
無精髭の運転手は擦り切れた地図と見比べながら呟いた。
「なんとまあ」
ヘンリー・チャンは首を振り、渋い顔をした。事務所らしきプレハブの建物は完全に屋根が抜け落ちていた。時間降塵でピンクにぼやけた空に、折れた製品コンベヤが突出している。ライトブルーの塗装は概ね剥がれ落ちていた。水切りヤードに溜まった山砂は長年の風雪に晒され、風下へ緩やかに流されていた。
「砂漠の真ん中に製砂工場とは」と、ヘンリー。
「せいさ?」
「砂を、作るんだよ」
ヘンリーが鼻の頭に皺を寄せると、手下は不思議そうに辺りを眺めた。そして指差す。
「砂なら、ほら。幾らでもあるでしょうが?」
ヘンリーは車から降りると、眩しそうに目を細めた。
「昔の建物で使ったコンクリートってのはさ、今よりずっと精度が高くてな。塩分を洗って微粒子を振るい落とし、そうやって手間暇掛けて精製砂を作ってたらしい」
「へえー。何でまた?」
「その方が長持ちするんだよ」
手下は疑り深く聞き返した。
「ほんとですか?」
「………ま、それが付加価値って奴だな」
手下はあやふやにうなずくと道具箱を担いだ。続いてサブマシンガンを構える。ヘンリーはオートマチック拳銃をホルスターから抜くと遊底を引いた。
前方約十メートルに見える事務所の残骸。戸口を潜ると砂を被ったリノリウムの床が覗いた。日差しに晒され、めくれた床材から白い綿の詰まったハニカム構造が見えた。埃にまみれたデスクと空っぽのキャビネット。そして皮の破れたソファが一つ。
ヘンリーは極当たり前な廃墟の様相を目にし、唸った。
「さて、隠すなら何処だ?」
ヘンリーは目配せした。手下はサブマシンガンのコッキングレバーで鼻の頭を掻くと、迷惑そうに口元を歪める。
「そりゃ、やっぱり………下ですか?」
「だろうね」
二人は見つけたデッキブラシを使って床を払った。リノリウムには継ぎ目があり、そこに小さな鍵穴を見付ける。
手下は道具箱からバールを取り出し、こじ開けた。瞬間、微かな抜けるような音がして、気密が破られた。一メートル四方の穴に砂粒が滑り落ちる。階下に伸びる下り階段が現れた。
「………狭いっすね」と、手下。ヘンリーは振り返った。
「怖いのか?」
手下は煮え切らない笑みを浮かべ、「いやいや………」
「ボディガードが聞いて呆れる。………どきなさい」ヘンリーは木偶の坊をどかせると、ステップを踏んだ。
狭く感じたのは最初の一メートルで、後は降りるに連れ広がった。底に足が付くとヘンリーはポケットから懐中電灯を取り出した。
約三メートル四方のグレーの空間。打ちっぱなしのコンクリート壁である。中はがらんどうで右の隅に配電設備が伺える。辿っていくと天井に埋め込み照明が見つかった。引き紐でスイッチを試すが、電源が切れていた。
「どっすか? 大丈夫っすか?」
「心配ないよ。………降りて来て」
控えめなため息と、もたつく足音。大荷物を抱えた手下が用心深く着地した。手下の伺うような表情。ヘンリーは取り澄まして言った。
「さて。見当たりませんね」
「地図は? あってました?」と、手下。
「もちろん」
「ひょっとして、もう盗掘されたとか………」
「焦りなさんな。もうちょい探してみましょう」
ヘンリーはそう言い、手下の肩をポンと叩いた。
気密されていたにも関わらず、四隅にたっぷり砂が溜まっていた。急いで封印したような、そんな感じがした。
誰にも知られないため? だったら地図なんて残さなきゃいいのに。
ヘンリーは手下に投光器を設置させた。ハロゲンの強い明かりが部屋の隅々を照らし出した。デッキブラシで掃き清めると、向かって左側の壁と床の間に僅かな隙間が見付かった。
二ミリほど浮き上がっており、繋がってはいない。指先を近付けてみたが、空気は動いていない。
「隠し扉ですね。………電源の準備を」と、ヘンリー。
ランドローバーからバッテリーを引き、配電盤に繋いだ。そこで天井にドアオペレーターの開閉装置を見付けた。知識はなかったが、どうにかこうにかいじくって作動に漕ぎつけた。
鈍い軋りと駆動音。微かな薬品の臭いが漏れた。
「よし」
そこは浅い引き出しほどの奥行で、部屋と言うには狭すぎた。スチールの台座にポリカーボネイト製のスーツケースが置いてある。いや、スーツケースと言うには少々具合がおかしい。五〇センチの円筒に取っ手が一つ付いている、そう言う体であった。
ヘンリーは慎重に手を添えた。良く良く見ると取っ手には、ネームプレートが嵌まっていた。
(08・ペパーミントパティ)
予想的中。
しかし、まさかのサイズじゃなかろうか? これが預言カーストと言うなら、いくらなんでも小さ過ぎる。
ヘンリーは不信感を募らせた。重さはボーリングの玉より少し軽い程度。留め金に鍵は掛かっていない。ねじ式の差し込み錠である。ヘンリーは鍵に手を添えた。
「開けるよ」
ケースが開き、皺の寄った灰色の革袋が覗いた。いや、その様に見えたのだ。
「ひっ!」手下が悲鳴を上げた。
ヘンリーは中身を懐中電灯で照らした。
革袋に見えたのは剃髪した女の生首だった。灰色の表面はひび割れカサカサになっており、状態のいいミイラといった具合。付け根で切り落とされ、アクリル管が何本も繋がっている。仕切りの奥に一塊の循環装置が据えられており液体が精製され、再び生首へ戻って行った。外側から出た配線が壁の方へ伸びて、恐らく外に光電池のような通電装置があるのだろう。どうにかこうにか十数年、このシステムを生かし続けてきたに違いない。タイミングとしてはぎりぎり、だったやもしれん。
「な、何すか、これ?」
すっかり縮み上がった手下に、ヘンリーは満足げに微笑んだ。
「世紀の大発見ですよ。これは保存された預言カーストの生首です」
(壁の門32)のホテル(サン=タドレスのテラス)は夜を迎えた。コンコース沿いのバーが俄かに賑わい出している。
一際目を引くキモノ姿の女、ミサキ・シノがカウンターに着いていた。艶やかな髪形は複雑に巻き上げられ、色とりどりの簪(かんざし)で支えられている。無意識にいじり彼女はカクテルを啜った。
「いい加減白状しなよ、ミサキちゃん」
見掛け30代半ば、遊び人風のバーテンダーは囁いた。マシントレーニングで鍛えられた上腕二頭筋が逞しい。刈り詰めた赤毛に浅黒い顔立ち。引き締まった口元が歪むと真っ白い歯がこぼれた。
「あんたには教えない」
ほろ酔い加減のミサキは小さく伸びをしながらはぐらかした。バーテンダーはグラスを磨きながら上目遣いに念押しする。
「何だったら自白剤ブレンドでもしてみようか?」
ミサキは鼻を鳴らした。
「あんたみたいな恰好しいが、絶対出来っこないわよ」
「おっと? 一応、信用されてんだ?」
「長い付き合いですから」
バーテンダーは薄目を閉じる。
「そういうとこだけ持ち上げてくるからなー。いいよ、もう。聞かねえ」
ミサキは皮肉に返した。
「あんたが(若返りの庭)だなんて。ちゃんちゃらおかしいでしょ? あんたの仕事はバーテンダー」
「そうでもないんだぜ」
バーテンダーは赤毛の生え際を掻いて見せた。「ほら」
思わずミサキも覗き込み、「何? 白髪?」
「寄る年波ってやつさ」
「いいじゃない。年相応で」
「言ってなよ」
ミサキは空になったグラスを回して見せた。バーテンダーは顔をしかめる。
「ここはドリンクバーじゃない」
「わかってまーす」
バーテンダーは渋々ピンクのボトルに腕を伸ばした。
「ま、いつか聞き出すさ。いくらミサキちゃんだって年貢の納め時は来るンだろ?」
「何のこと?」
「永遠は、あり得ないし」
「ま………そうね」
バーテンダーは黙ってミキシンググラスをステアした。小さい緑の葉っぱを飾る。
「そン時は遺言ってことで、どう?」
ミサキは首を傾けた。
「間近になったらね。考えとく」
そう言ったものの、ミサキは内心舌を出していた。
何でこんな奴に? そんな義理なんてない。あんたみたいな見栄っ張りは、自然な拡散崩壊で、ゆっくり朽ち果てればいい。
バーテンダーは入り口でうろうろしている人影に目を向けた。
まだ若い男である。風采のみならず物腰までたどたどしい。羽織ったポンチョをなびかせ、旅人のような装具を身に付けている。姿勢がいいのが一番の美点だったが、ただしそれがどうにも役人風情に見えるのが玉にキズだ。
若い男はカウンターに向かい真っすぐ歩いて来た。
「あんたの客?」と、バーテンダー。
ミサキは振り返り確認した。
「違うんじゃない?」
バーテンダーは首を捻った。
「じゃ、ファンかな? こっち見てるぜ」
ミサキは渋い顔をした。
「その日までは………必要でしょうが?」と、バーテンダーそっと指先を擦り合わせた。
ミサキがそっぽを向き、バーテンダーが奥に下がると、入れ替わりに若者が入って来た。アフロアメリカンの風貌である。もやもやした表情からミサキは未熟な初々しさを感じた。
「ハーイ、ハンサムさん」
からかい半分、声を掛けた。少年はうろたえ、持っていた鞄を落としてしまう。
「………あらあらあら。大丈夫?」
ミサキはスツールから降りると、散らばった荷物を搔き集めた。
「す、すいません………」
棒立ちの少年の手を取り、ミサキは隣の席に座らせた。
年の頃で十七、八。浅黒い頬にはぽつぽつニキビが浮かんでいた。血気盛んな若者が勢い勇んで来たにしては、少々覇気に欠けた。
「ねえ、君。どうしちゃったの? なんか冴えないわね」
「えっ?」
「ひょっとして、あたしを必要としてるんじゃない? あたしの仕事はコールガールで、情熱と恋を売るのが商売」
明け透けなミサキの売り口上に、少年が口ごもった。
「え………ええっと。それは、まあ………」
ミサキはにこっと微笑んだ。
「お目が高いわー。初めてのご指名にあたしだなんて。誰に聞いて来たの?」
少年はまじまじとミサキの小顔を見詰める。
「もっぱらの評判ですよ。………初めてだったら(サン=タドレス)のミサキ・シノさん、だって」
ミサキはまんざらでもない表情を浮かべる。
「そうなの。へえー」
少年はおずおずと呟いた。
「やっぱり可愛いですね。………いや、そうじゃなく………お美しいです、ミサキさん」
少年の上滑りなお世辞に、ミサキはニヤ付いた。
「ハハハッ。ありがと。でも、あたしのホントの生存年齢とか聞いてンのかな? 聞いたら萎えちゃうかも?」
少年は慌てて両手を振った。
「いえいえいえ。そんな、そんな。………と言うか、もちろん知ってますとも。………そういうのも含めて貴方がいいんです!」
ミサキはうなずくと眉を持ち上げた。
「お名前。聞かせてもらえる?」
「キムです。キム・ジ・ローファン」
「どこ住んでるの?」
「ここ、(32)ですよ。最近まで三階層の行政官宿舎にいました」
その答えにミサキは僅かに身を引いた。
「へえー、お役人様なんだ? 偉いんだね、君」
キムは照れくさそうに頭を掻いた。
「もう過去形ですけど」
「てことはドロップアウト?」
「………はい」
「そいつは、おめでとさん」
ミサキは眉を顰めた。
「あたし、お役人はちょっとね。パクられたら困るじゃない。あんたがどんな立場かは知らないけど」
「最近まで城塞警邏歩哨でした」
ミサキはご明察とばかりに指差した。
「ほら、やっぱりポリス。あたし、警官とはウマが合わないんだよねー」
キムは慌てて両手を振った。
「いえいえ、そんなこと。僕はもちろん、ここの治安行政官で風俗取り締まってる人なんて見たことないですから」
ミサキは笑った。
「それはそれで問題発言。………ま、そうかもだけど。問題はあんたたちの大将よ」
キムは一瞬考え、上目遣いに呟いた。
「ヘンリー………チャン、ですか?」
ミサキは茶目っ気たっぷりに目玉を回した。
「ヤクザに囲われたことないのよ、あたし」
「どの道、僕にはもう関係ありませんし」
そう言ってうなだれるキムに、ミサキはたずねた。
「立派な公務員様を辞めちゃってさ。これからどうすンの? 次は決まってンの?」
キムは力なく笑った。
「故郷に………帰ろうかなって」
「ハハン。生まれはここじゃないってか? 何処? ちなみに?」
「(12)です」
ミサキは目を細める。小さく咳払いすると口調を静めた。
「そっか。………そこって最近、やられたとこだよね? 砂嵐に?」
「はい」
キムの表情がみるみる沈むのがわかる。
「なるほど」
そりゃ、仕事に身が入らないのもしょうがない。そう続く言葉をミサキは飲み込んだ。何故だかミサキは、ネルラのことを思い出した。
「あたしの知り合いでさ、鳶(とび)職人がいるんだけど。そいつが最近まで(12)に出掛けてたのよ。請負で三か月。あいつなら詳しいことわかるかも?」
「はあ………」
そこでキムは苦笑いを浮かべた。
「ちょっと前に、自分もそういう人に会ったんです。でも現場に行った人は何も教えちゃくれません。よっぽど酷かったんですかね。僕を気遣ってのことでしょうけど、事情は風の便りで。東の3区は壊滅だったと」
ミサキはキムの頬に触れ、気休めを言った。
「ま、人間生まれる時もお終いも、結局一人なんだから。それで自暴自棄になっても、ね」
すると突然、キムは憎々し気にミサキを睨み、冷笑的に言い放った。
「他人の心配してる場合じゃないですよ。ここだって危ないんだ」
「何のこと?」
キムは周囲を検めると声を潜めた。
「噂じゃ、ヘンリー・チャンがガウルの根城に大掛かりな攻撃を仕掛けるんです。そうなれば全面戦争だ。(32)だってどうなるか………」
ミサキは、はっとしてキムの肩を掴んだ。
「ちょっと待って。それって何情報?」
「信頼できる筋ですよ。内部情報。つい最近まで僕も一員でしたから」
ミサキは眉間に皺を寄せた。
「ガウルの根城って、それって場所が分かったってことなの?」
キムは肩をすくめる。
「詳しいことは知りません。けど、どうやら………」
「見つかった、と」
そう、ミサキが後を継いだ。一人合点しながら彼女の脳内では、憶測が順繰りに繋ぎ合わされて行った。
きっかけはガウルの第三王女パウラとの語らいだ。女王の血統、人工有機石油生成、ヘンリー・チャンの隊商全滅、ネルラの不動産単位の借金。そして今、ネルラはパウラとともにリオン・ジャンティの隠れ家にいる。
ミサキはグラスを一気に飲み干すと、目を座らせ意地悪くたずねた。
「で、君? キム君は、それを知ってて仕事を辞め、退職祝いに女を買って。とっとと逃げちゃおうって魂胆なわけね?」
不意を突かれ、キムはうろたえた。
「………悪い、ですか?」
開き直る少年をミサキは揶揄した。
「家族がどうのなんて、同情して損した」
「何です?」
「あんたはただの根性なしよ。男じゃないわ」そこでミサキは茶目っ気たっぷりに高角を上げる。「そっか、まだオトコじゃなかったか」
彼女がからかうと、少年はむきになって言い返した。
「ぼ、僕は………お客だぞ!」
「あら? こっちにも選ぶ自由はあるんだからね。ちなみにあたしを幾らで買おうって思ったの、ボクチン?」
キムは震える手で札束を掴みだした。
「これが僕の払える限度……ちょっと!」
ミサキは目にもとまらぬ速さで取り上げると、あっと言う間に数え上げた。
「返せ!」
「何、三万ぽっち? あたしも安く見られたもンね」
キムは不安になって聞き返した。
「初回サービスとか、そういうのは?」
ミサキはオーバーに首を振った。
「駄目駄目。健康サプリの通販じゃないんだから」
「聞いた話と全然………」
「お生憎様」
ミサキはクラッチバッグから煙草を取り出し、深々と吸った。「ま、もうちょい財布の紐を緩めるか、あんたも鳶でもやって稼ぐとか?」
するとキムは露骨に嫌な顔をした。
「鳶? それって施工師のことですか? 嫌だよ、あんな荷車引いて砂漠渡るなんて………」
ミサキはその言葉にピクリとした。荷車引いて砂漠? 何処かで聞いた話じゃない?
「待ってよ。………あんたが出会った施工師ってさ、ひょっとして塗装工だったりする?」
「だったら何です?」キムはいじけた口調で呟いた。
「荷車牽いてる塗装工?」と、ミサキ。
「そうですよ」
ミサキは少し身を引くと、気持ちを落ち着け、確かめた。
「その男、砂漠で虫食ったとか何とか、話したでしょ?」
キムは目を丸くした。
「そうそうそう。トゲありだのトゲなしだの、食うもんない時はそれだ、とか………それで、そう。名前を聞いたんだ。名前は、ええっと………」
そこで二人の声が揃った。
「ただの、ネルラ」
砂、砂、砂。見渡す限りの砂嵐。おまけに酷い降塵害まで出ている。辺りはミルク色に染まって濃度計で計ると目盛りは0.7ppmの六対四。逆巻く嵐にかき混ぜられ、ついに進退窮まった。
キム・ジ・ローファンはゴーグルの砂粒を払い落とした。マスクがどんどん目詰まりして息苦しい。城塞警邏歩哨のスーツがないだけで砂漠はこんなに厳しいものになる。白の降塵濃度が上がり、逆行現象が始まっていた。背後に、おぼろげな人影が棚引いているのが見える。
犬さえいれば。
自分がどれほど官給品に依存していたか、改めて痛感した。
それにしてもミサキ・シノ、食えない女である。
あの後、部屋に行き(もちろんホテル代はこっち持ち)、三万払わせられて、いいところまでいったところでお預けにされた。童貞卒業初体験としてはトラウマになりそうな仕打ちである。
ミサキによると自分が(32)の南西門で助けた男、ネルラと言ったか。どうやら共通の友人であったらしい。
(ネルラに伝えに行って。戻って来たら、なんでもさせてあげる)
あからさまな色仕掛けの誘いに、あっさり乗せられてしまった。正直、裏街道を渡る海千山千の女の言葉など一言一句信用してないが誘惑に抗えなかった。経験不足、若気の至り。それに長男のとっぽさも加わって………悲しいかな、これは残念な男の性である。
親兄妹が死んだばかりで自分は何をしているんだ? 普段ならあり得ない行動だが、しかし………さっさと忘れてしまいたいが本音である。ふとした拍子に両親や妹の声が浮かんできて、それが辛くて泣いた。楽しかった日の語らい。喧嘩した折の罵声すら愛おしい。
まさか、この年で天涯孤独になるなんて。思いもよらなかった。まるっきり先が見えなくなった。
そもそも十八で親元を離れ、就職のためこの地にやって来たのである。城塞警邏歩哨の仕事は家族の自慢だった。隣り近所で初めての公務員だったのだから。母はその制服姿を写真に収めると言って聞かなかった。家族で一緒に撮ったあの写真。一体どうなっただろう?
長期休暇まで後二週間というところで、少ない給料を貯め、帰省土産を買い込んだ。母にはカシミヤのショール。妹にはサヘルローズのブローチ。父には教会で守護聖人のメダイを買った。機械工であった父に合わせ、わざわざアレクサンドリアのカタリナを彫ってもらった。今も背中の鞄で包装されたままになっている。
(12)で骨を拾い、埋葬したいとは思っていた。だがそれを実行するには相応の気持ちの整理が必要だ。
手元に残ったなけなしの残金。仕事も辞めた。生まれてから一人になったことがないのだから、どう過ごしたものかもわからない。相談する相手もなく通りを彷徨った。
結局思い付いたことと言えば、童貞を捨て(32)を出ることだった。なんて馬鹿な考えだろう。
ともあれ、ネルラとミサキ・シノ、二人の付き合いは長いらしい。自分が想像出来るより、ずっとである。
虫を食う話は正直いただけなかったが、不思議とネルラには惹かれた。旅慣れた風体、洒脱な口振り。聞いたところによれば、ありえないほどの借金を抱えているらしい。そんな状況でよくもしゃあしゃあと、お天道様の下を歩けるものだ。それが大人、ってことなのか? いやいや、違うだろう。単に図々しくて、まともじゃないってだけだ。
「畜生め………」
嵐は一層強さを増した。リオン・ジャンティの隠れ家って何処なんだ? 目印もなく、方角と距離だけでどう探す? ミサキ・シノの仕打ちは、厳しい女主人の越えるべき試練である。
真っ白い目眩ましの中、吹き曝しの荒野に逃げ場はない。キムは悪態を吐きながら荷物から小型スコップを取り出した。パーツを組み立て地面に穴を掘る。横になり身体が収まる程度の窪みで良い。それでどうにかやり過ごせるだろう。
キムはカラカラになった喉でむせびながら一心不乱に穴を掘った。
地獄のような轟音が収まると、キムは我に返った。どのくらい時間が経ったのか、時間降塵の中では概ね見当がつかない。疲れからか、少々眠ったらしい。うっすら瞼を開くと辺りが赤く染まっている。何だよ、今度は赤の降塵? 一瞬そう思ったが思い過ごしである。陽が傾き、夕暮れが迫っていた。数時間か、或いはそれ以上眠ったらしい。キムは掘った窪みの中にじっと伏せていた。
やれやれ。寝坊したぞ。
暗くなれば余計に探しづらくなるだろう。急がないと。
そう考え、身を起こした途端、ポンチョの端が千切れた。後から一発の銃声が轟く。高速で飛来したのは鉛の弾丸だった。
キムは慌てて身を伏せた。狙撃だ。
何処の誰だよ?
こっちに恨みはない。さて、どうしたものか?
まずは、そいつを示さなきゃ。
キムはポンチョの切れ端をスコップに巻き付けると、ゆっくり掲げた。そして左右に振る。白旗降参の合図である。
バンッ!
今度はスコップの先端が吹っ飛んだ。
おいおいおい、狙ってるぞ。しかも腕もいい。
キムは大声を上げた。
「待って。撃たないで。僕はただ、通りがかっただけで。………あなたに何の………恨みもないから」
沈黙が続いた。待ったところで答えはない。キムはダメもとで、もう一度試みた。
「撃たないでください。こっちに武器は、ないんです。ゆっくり顔を出しますから、ね? 撃たないで。………オーケイ?」
雲が遠鳴りした。
一分ほど間があり、向こうから男の声が届いた。
「よっし。ゆっくりだぞ」
キムがおっかなびっくり頭を出すと、十メートルほど先の地面が動いた。狙撃者は砂色のトーブを払い、アサルトライフルを構えて立ち上がった。腰に獲物がぶら下がっている。野生のハサミトカゲが二匹。
キムは両手を上げたまま、静かに膝を突いた。
声が言った。
「よし。じゃあ、そうだな。………こっちも色々事情があってな。申し訳ないんだが………悪い」
狙撃者はそのままキムの頭に狙いを付けた。焦ってキムの声が上ずった。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って! なんでそうなるんですか? 言うこと聞いたじゃないですか!」
「だから色々あるんだって! そう言ってんだろ!」
「だからって、勘弁してくださいよ! ここで死ぬわけにはいかないよ!」
「俺の知ったことか!」
二人が向かい合って怒鳴っていると、狙撃者が顔を上げた。
「ン? なんか………聞いた声だな?」
狙撃者はライフルを構えたまま、ずんずん近付いた。キムは目を瞑って懇願した。
「や………やめ………」
「あっ」と、狙撃者。「キムさん?」
呼ばれて薄っすら目を開ける。鼻先に銃口が見えた。キムは視線を上げ、男の顔を凝視した。
「あれっ? ひょっとして………ネルラ、さん?」
互いを確認し、そのまま拍子抜けした。
「おう、おう、おう」
「はっはっはっ………はぁー………」
「その節は、どうも」
互いの身元がはっきりするとネルラはキムを連れ、リオンのところへ戻った。扉が開き、二人が迎える。リオンとパウラだ。キムは無言でこくりとうなずいた。
「ほれっ。晩飯」
ネルラは仕留めたハサミトカゲを放った。リオンは上手にキャッチすると、しげしげ眺めた。
「大物じゃん。さすがだな、ハンターさん」
リオンはキムにペットボトルを差し出した。キムは慌ててひっつかみ、一気にがぶ飲みした。その様子を二人が物珍しそうに眺めている。
ネルラが紹介した。
「こちらキムさん。キム・ジ・ローファン。ちょっと前だけど(32)で世話になって。………で、こいつらは今、俺が親しくしてる連中で、リオン・ジャンティとパウラだ」
「リオンだ」
「パウラよ」
二人は握手を求めた。パウラの手を握るとき、キムの頬が僅かにこわばるのが見て取れる。
「………どうも」と、キム。
ネルラは含み笑いを浮かべ言った。
「なんでもキムさんは、ミサキ・シノと知り合いなんだそうな」
「世間は狭いねえ」と、リオン。
「姐さんは、お元気?」と、パウラ。
「はい………それはもう………」キムの返事は途切れがち。含みがあって覇気がない。
そこでネルラが付け足した。
「勇敢にもミサキを買い、に行ったんだそうな」
「ワオッ」パウラの声が弾む。
キムは顔を赤らめ、静かに手を上げた。
「ネルラさん………」
リオンは首を振った。
「そりゃまた………大冒険だな」
無言で眉を持ち上げるネルラ。
キムはうんざりした様子でうなだれ、事の次第を聞かせた。
家族のこと。仕事のこと。自暴自棄になって(サン=タドレスのテラス)に行ったこと。そこで食らったミサキ・シノの塩対応、等々。リオンとパウラは、しょげた子犬をなだめるような目でキムを眺めた。
言い淀みながら、キムはネルラに確かめた。
「あの時ネルラさんが言わなかったのって………あれって気遣いですよね?」
(壁の門12)の東側の壊滅。キムの実家があった辺りのことである。ネルラは首を捻り、後ろ頭を掻いた。
「ごめんな。あん時は………言い辛かった」
キムは言葉を遮り、「いいんです。恨んだりしません。………事実ですし」
パウラは不躾にたずねた。
「キム、あなたがここにやって来たのはどうして? 恨みを晴らしに来たんじゃないなら? 大体この場所、そうそうわかんないでしょ?」
キムは憎々し気にパウラを睨んだ。
「そうですね、おかげで遭難し掛けましたけど。………場所はミサキさんに聞いてきました。皆さんに伝言を頼まれて」
ネルラはピクリと眉を持ち上げた。
「伝言って?」
棒立ちのキムは全員を見回し、疲れた様子で長椅子を所望した。
「おっと、気付きませんで」と、リオン。
キムは倒れ込むようにソファに崩れた。レザーの冷たさを背中に、両手を伸ばし深いため息を吐く。
「ヘンリー・チャンが数日のうちにガウルへ総攻撃を掛ける。そういう話です。奴は今、近くの城塞に声掛けて兵隊集めてますよ」
「なんだって?」と、ネルラ。
キムは三人に詳細を告げた。
リオンが首を捻った。
「そっか、なるほどな」
キムは静かにうなずき、「世紀の大発見。………ロストテクノジーを手に入れた………とかなんとか? そんな感じでしたね」
リオンとネルラが顔を寄せる。それからパウラを見た。
パウラはきっぱり否定した。
「私は知らないわよ」
ネルラは思案した。
「ま、ともかくだ。こりゃ、チャンスじゃねえのか? 騒動に乗っかっちまえばどさくさに紛れて」
そこでネルラはパウラに目配せする。
「あんたの母ちゃんをズドン」
パウラは唇をすぼめ、眉を持ち上げる。話が分かっていないキムは不安げに二人を見詰めた。
「何の話です?」
ネルラは満面の笑みを浮かべた。
「ただの、儲け話さ」
キムは諦めたように首を振る。
「ミサキさんも、そんなこと言ってたなあ。………あなたの借金なんて僕、関係ないですから。巻き込まれるのはもう懲り懲りです」
するとリオンが擦り寄るように言った。
「もう巻き込まれてんじゃねえの?」
顔を近付け、ネルラが呟く。
「ミサキと約束したんだって? 一体………何、約束したんだ?」
キムは視線を泳がせ、うそぶいた。
「えっ? それは皆さんに情報を伝えて戻ってきたら好きなだけ………」
ネルラは乾いた声で笑った。
「ひょっとしてタダで、とか? そう言う感じの?」
キムは恥ずかしそうに下を向く。
「ウン? あ、ええっと………ええ」
ネルラはやんわりと肩を叩いた。
「数日のうちに攻撃は始まる、そうだよな? てことは、あんたが戻った頃にゃ、ミサキ・シノはいないよ」
「な………」キムは言葉に詰まった。
「悪い女でな」と、ネルラ。
同情気味にリオンが呟く。
「純情を踏みにじられちまったなあ、少年」
キムは無言のまま小刻みに震え、浅黒い顔を赤く染めた。世間知らずの自分が不甲斐ない。
「さて」
ネルラは気分を変えるように両手を一つ打ち鳴らした。
「ここまで来たら一蓮托生。あんたも一枚噛むだろ、キムさん?」
「………えっ?」
「山分けと行こうぜ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます