愛を知らない「頭巾被り」の令嬢は最強の騎士、「氷の辺境伯」に溺愛される

守次 奏

愛を知らない「頭巾被り」の令嬢は最強の騎士、「氷の辺境伯」に溺愛される

「リリアーヌ、お前と関わるのも今日この日が最後になる」


 わかっていた。

 お父様が言った通り、わたしが──リリアーヌ・エル・ヴィーンゴールドが、伯爵家であるヴィーンゴールド家の娘でいられるのは、十五までだということは。

 豪奢な屋敷を背にして、辺境領送りの馬車を目の前にしているわたしに向けられる視線はどれも、侮蔑や嘲笑が交じったものばかりで、誰一人として同情を寄せてくれる人なんて見当たらなかった。


 わたしはただ震える手で、ぎゅっ、と被っている頭巾を握りしめることしかできなかった。

 ウェスタリア神聖皇国。「聖女」の加護を受けて成り立つこの国で代々聖女を輩出してきたヴィーンゴールド家の娘は、皆その名に違わない美しい金色の髪をしていたという。

 現に、けらけらとお腹を抱えてわたしを嘲笑している妹──マリアンヌ・エル・ヴィーンゴールドは美しいブロンドだ。


 だけど、わたしは。


「わかっているわね、リリアーヌ? 貴女のような赤毛の出来損ないを今日まで育ててきたのは、この日のためなのよ」


 マリアンヌと同じで、美しいブロンドをくるくると縦に巻いて、豪奢なドレスに身を包んでいるお母様──エメリーヌ・エル・ヴィーンゴールドが、きつい吊り目で、釘を刺すように詰め寄ってくる。

 本当に、この人がわたしのお母様なのかと疑いたくなるほど、信じられなくなるほどに、冷たい目だ。愛情という言葉の欠片も見つけることはできない、深い侮蔑と憎悪。

 このひとは、このひとたちは、本当にわたしを愛してなんかいないんだ。わかっていたことだけど、悲しくなってしまう。


「……はい……」


 お母様が言ったように、マリアンヌが嗤っているように、頭巾に隠されたわたしの髪は美しく高貴な金色とは全く違う、醜い赤銅色だ。

 貴族の間における、忌み子の象徴。どんなに美しい髪を持つ貴族たちの間でもたまに生まれてくる、「災いの子」の烙印。

 それが代々「聖女」を輩出してきたヴィーンゴールド家に生まれたとなれば、末代までの恥なのだと、お父様はそう語っていたことを思い出す。


 俯いた視線を上げて、微かに家族たちの姿を一瞥すれば、皆が皆、豪奢な礼服に美しいドレス、そして目も眩むような宝石を身につけている姿が映る。

 一方で私は、白い布で織られた飾り気のないドレス、ただそれだけ。

 たったそれだけを与えられて私は今日、売り飛ばされるように嫁入りをするのだ。


「くすくす……お姉様も可哀想ですわね。辺境領のピースレイヤー様……『氷の辺境伯』、『血まみれ辺境伯』なんて恐ろしい呼び名で呼ばれているお方のところに嫁がなければならないなんて。確か、あのお方はひどく醜くて冷酷なのでしょう?」

「……っ……!」

「なんですの、その目は? お姉様のような出来損ないの行き先にはぴったりじゃありませんの!」


 唇を噛み締めたわたしの頬を、マリアンヌがぱしん、と鋭く打ち据える。

 別に、わたしが出来損ないなのは事実だからどうでもよかった。

 だけど、許せなかったのは、見たことも、会ったこともないピースレイヤー卿のことを悪し様に罵る、貴族らしからぬその振る舞いだった。なんて、傲慢。


 そして、悲しかった。

 辺境伯様がどれほど冷酷なお方であったとしても、わたしのような出来損ないを、生まれてくるべきでなかった忌み子を迎え入れるという事実だけで貶されてしまうのが。

 彼の噂はわたしも聞いている。妙齢の男性なのに、ただの一度も笑ったことがなく、誰かと結婚することもなく、ただ剣を振るい続ける血に飢えた恐ろしいお方なのだと。


 でも、見たことも会ったこともない人のことをどうしてそんなに、噂だけで貶められるのだろう。

 常に優雅たれと、そうマリアンヌにいつも教えていたのは、貴族としてふさわしくあれと教えていたのはお父様とお母様なのに、どうしてマリアンヌを叱らないのですか。

 なんて……そうわたしが吠えたところで、きっとまたぶたれるだけだ。だから、なにも言わずにわたしは頭巾をきゅっと握りしめる。


「……リリアーヌ、これは出来損ないとはいえお前を育ててきた慈悲だ。最後に一言だけ、発言を許可する」


 黒曜石のように美しい黒髪をかき上げながら、溜息交じりにお父様は言った。

 その鬱陶しげな視線と、苛立ちが混ざった仕草には、きっとどんな言葉も届かない。

 だけど。


「……お父様、お母様」

「なんだ」

「なにかしら」

「……わたしを、このリリアーヌを……ただの一度でも、娘だと思ってくれたことはありますか……?」


 ぽろぽろとこぼれ落ちてくる涙は止まらない。

 泣きたくなんてなかった。だって、わかっているから。泣いたら、認めてしまうのと同じだから。

 それでも、心のどこかでわたしは期待していた。期待してしまっていた。


 馬鹿だなあ、と、自分でもそう思う。

 答えなんて、最初から決まっているのに。

 生まれたときから、この赤銅の髪を神様から授けられたときから、わかりきっていたことなのに。


「愚問だな、ないにきまっておろう」

「貴女のような出来損ないを産んだことを、母は心の底から後悔していますわ」


 知っていた。

 わかっていた。

 なのに。なのに、どうして。


「……っく……ぐすっ……」

「みっともなく泣くんじゃない!」


 ばしん、と、お父様の掌がわたしの頬を打つ。まるで、虫を潰すかのように。

 ああ、わかっていたのに、知っていたのに、どうしてわたしは、期待なんかしちゃったんだろう。少しでも、望みをかけてしまったんだろう。

 ほんの僅かでも、たった一欠片だけでも──わたしを愛してくれていた、なんて。


「本当に無様ですわね、お姉様」

「……」

「わたくしは由緒正しきヴィーンゴールド家の子女として『聖女』の道を歩みますわ、だから安心して野垂れ死んできてくださいまし」


 それでは、ごきげんよう。

 そう告げてわたしに背を向けたマリアンヌをエスコートするお父様とお母様の笑顔は、ひどく慈愛に満ち溢れていた。

 そっか。そう、だよね。わたしは。


 使用人に、辺境領行きの馬車へ詰め込まれるかのように乗せられながら、ただわたしは唇を噛む。

 わたしは、娘なんかじゃない。

 生まれてくるべきじゃなかった、「忌み子」なんだから。




◇◆◇




「それでは、これにてお別れでございます」


 恭しく頭を下げた使用人と護衛の衛兵から、罪人のように突き出されたわたしは地面にへたり込む。

 辺境領、ピースレイヤー領。

 東は隣国イーステン王国との国境線、そして北は人跡未踏の地にして魔物の巣窟ともいわれている「暗闇の森」と接した過酷な地だ。


 そして今、わたしが放り出されたのは辺境伯様の邸宅前ではなく、「暗闇の森」に連なる辺境の最前線だった。


「……まさか……」


 気づいてしまう。お父様とお母様はわたしを事故に見せかけて亡き者にするつもりだったのだろう、と。

 そして、辺境伯様には適当な言い訳をして、事前にヴィーンゴールド家に納められていた結納金だけを受け取る算段なのだろうと。

 なんて。なんて、小さなことを。


 怒りと悲しみに唇を噛んで、握りしめた拳を小さく振るわせる。

 わたしを愛してくれなくてもいい。憎んでくれてもいい。なのに、どうして。

 どうしてお父様も、お母様も、マリアンヌも。貴族としての誇りを捨てるような、恥ずかしい真似ができるのだろう。


 わたしがいらない子なのはわかっていた。

 愛情なんて欠片も注がれていないことに気づくのに、そう時間はかからなかった。

 それでも。それでも、ヴィーンゴールドの家には、誇り高き「聖女」の家であってほしかったのだ。


 わたしが忌み子であっても、それは唯一誇れることだったから。

 高貴なる血を引く者の家として常に優雅で、美しく、高潔であったのなら、例え呪われた忌み子であったとしても、この家に生まれてきたことにだけは、誇れたから。

 なのに、そんな誇りすら、わたしにとっての細やかな希望すら、無惨に踏み躙られて。


「……ぁ……ああ……ああああっ……」


 慟哭する。もう、死んでしまいたかった。

 わたしには、なんにもない。

 生まれた意味も、この血にも、生きていることにも。


 だけどこの場所に、「暗闇の森」に捨てられたことだけは幸運だったのかもしれない。

 涙を拭って、わたしはふらふらと立ち上がる。

 道もなにもわからないけど、適当に森の奥へと進んでいけば、自然と魔物に出会うことだろう。


 この「暗闇の森」に棲まう魔物を相手にできるのは「騎士の中の騎士」と呼ばれるほどに腕を磨いた勇士だけだと噂は聞いている。

 そんな魔物に、武術の心得も、魔術の心得もなにもないわたしが挑んだところで、結果は火を見るよりも明らかだろう。

 だけど、それでいい。それくらい強い魔物に出会えるのなら、わたしはきっとそれほど苦しまずに死ねるのだろうから。


 そう、死んでしまえば、きっと今よりはマシになるはずだから。

 生まれたそのときから蔑まれて、愛されることなく捨てられて、生きる支えになっていた誇りも踏み躙られたこんな人生なら──生きる意味なんて、どこにもない。

 ふらふらと、幽鬼のような足取りで森の中を歩いていると、走馬灯のように今までの人生がわたしの脳裏を駆け巡る。


 なんにも、いいことなんてなかった。

 ご飯は最低限しかもらえなかった。お勉強も、教えてもらえないから自分でなんとかするしかなかった。お誕生日になっても祝ってもらえなくて、マリアンヌの綺麗なドレスと宝石飾りをいつも羨んでいた。

 ああ、神様。どうしてわたしは、生まれてしまったのでしょう。


 生まれなければ、こんなに苦しまなかった。

 生まれてこなければ、こんなに悲しくなることもなかった。

 なのに、どうしてわざわざわたしはこの世に生まれてしまったのだろう。


 声に出さず投げかけた問いに答えたのは、闇から溶け出してきたように低く悍ましい声だった。


『こんなところを一人で歩いているとは……不用心ですねぇ、人間のお嬢さん』

「……ヴァン、パイア……!」

『いかにも……私はノスフェラトゥが「黒」の氏族。痩せ細っているのは少々残念ですが、生きた乙女とこうして巡り会えたのは望外の幸運』


 闇から溶け出してきたその魔物は、吸血鬼の中でも一際強力な力を持つといわれる「黒」の氏族……「ヴァンパイアシュヴァルツ」と呼ばれるものだった。

 光が差さない闇の中に棲まい、人の生き血を啜る凶悪な魔物。

 きっとわたしは、この魔物に血を吸い尽くされて死ぬのだろう。見窄らしく、枯れ木のようになって死ぬのだろう。


 別に、それ自体は構わなかった。

 だってもう、生きている意味なんていうものは、わたしにはなんにもないのだから。

 だけど、願ってしまう。祈ってしまう。


 最後まで誰かに絞り尽くされて死ぬのであれば、せめて──たった一度でいいから、愛というものを知ってみたかったと。

 本当は愛されたかったと、愛してほしかったと。

 ヴァンパイアシュヴァルツが牙を剥く中で、涙をこぼしながら頭巾を握りしめて震えていた、そのときだった。


「邪悪なる闇を討ち払え! 天剣『クラウ・ソラス』!」

『そ、その剣は──ぐあああああっ!』

「この俺が──スターク・フォン・ピースレイヤーがいる限り、貴様ら魔の者にウェスタリアの大地を踏ませはしない……!」


 豪奢でいながらも優しく、太陽のような光を放つ剣閃が、魔物を真っ二つに両断した。

 天剣を振るった騎士様は、ヴァンパイアシュヴァルツが塵として闇に還っていくのを見届けると同時に、その美しい剣を、「クラウ・ソラス」を鞘にしまって、わたしのところに近づいてくる。

 スターク・フォン・ピースレイヤー。それは、わたしが今日お嫁にいくはずだった辺境伯様のお名前だった。


「もう大丈夫だ。怖くはなかったか?」

「……は、はい……」

「そうか……しかし、ここは君のように年若い娘が来るべき場所ではない。もしも……命を投げ出そうとしていたのなら、踏みとどまるべきだ」


 辺境伯様は、噂とは全く違う柔らかであたたかな声音で、わたしにそう諭す。

 その言葉はきっと正しい。でも、わたしは。

 わたしには、生きている意味なんてなくて。


「……わたし、は」

「……君の目には、深い悲しみが見える」

「えっ……?」


 辺境伯様は腕を組むと、瞑目して静かに頷いた。


「なにがあったのかを聞くつもりはない……だが、君とて『暗闇の森』の噂を知らないはずはないだろう。年若い乙女がこんなところに一人でくる理由は察しがつく。さぞかし、つらい思いをしたのだろう」


 だが、もう大丈夫だ。

 辺境伯様は俯くわたしをまっすぐに見据えて、力強くそう言い放つ。


「……ありがとうございます。ですが辺境伯様……わたしにそれは、もったいないお言葉です……」


 本当に、その言葉をもらえただけで、わたしは幸せ者なのだと思う。

 でも、辺境伯様だって、わたしが何者なのかを知ればきっと、失望することだろう。

 頭巾を脱いで、忌み子の証である赤銅色の髪を露わにする。辺境伯様はきっと、ううん。間違いなく賢いお方なのだから、わたしがなにを言わんとしているのかは、それだけでわかってくれるはずだ。


「……わたしは、忌み子です。醜い赤い髪を持つ、いらない子です。だから、捨てられました。ですが、捨てられて当然なのです」


 こんなわたしに関わっていたら、辺境伯様だって不幸になってしまう。

 だから、わたしが婚姻を結んだ相手だと知る前に、ただの自殺志願者として見逃してくれることを祈って、忌み子の証を見せつける。

 ずっとわたしの人生に影を落とし続けてきた、赤銅の髪を。


「……このような醜い姿をお目に晒してしまったこと、申し訳ございません……」


 斬り捨てられるだろうか。

 それとも、見なかったことにしてこの場に置き去りにされるだろうか。

 どっちだって構わなかった。だって、わたしは、もう。


「……綺麗だ、美しい」

「えっ……?」


 だけど、辺境伯様の口から飛び出してきた言葉は、そのどっちでもなかった。

 呆気に取られたような表情で、琥珀色をした切れ長の目を見開いて、辺境伯様はただ、わたしの瞳を覗き込む。

 そこに、どんな意図があるのかはわからない。だけど、まるで妹がお誕生日のプレゼントにもらった宝石飾りを見つめるわたしみたいだと、失礼だけどそう思った。


「すまない、不躾なことを言ってしまった。ところで、君の名前を聞かせてはくれないか? ここにこれ以上留まるのは危険だ、明日にでも親元に送り届けよう」


 どうやら、わたしはまだ迷子だと勘違いされているらしい。

 こうなると、困ってしまう。だって、その答えは、わたしを保護してくれるなんて答えは、考えてもいなかったことなのだから。

 嘘の名前を名乗り出て、ただの町娘として生きていこうかと、一瞬、そんな考えが頭をよぎる。


 だけど、辺境伯様は聡明なお方であるはずだ。嘘をつけば、きっとすぐに見抜かれてしまうだろう。

 そして、なんの身分もないわたしは虚言の罪で断頭台に立たされるに違いない。

 どうせ、生きていたっていいことなんてなに一つない人生だ。罪人の烙印を押されて死んでしまうのも悪くはないかもしれなかった。


 ──だけど。


「……り……」

「り?」

「……リリアーヌ……わたしは、リリアーヌ……リリアーヌ・エル・ヴィーンゴールドと申します……」


 わたしの唇は、人生で数えるほどしか名乗ったことがない本当の名前を呟いていた。

 辺境伯様に嘘が露見してしまうのが怖いわけじゃない。その結果として断頭台に上るのが怖いわけじゃない。

 でも、どうしてか、辺境伯様の優しく、澄んだ琥珀の瞳を見つめていると、なんだか申し訳ない気がして、本当のことをつい口走ってしまったのだ。


「リリアーヌ……では、君が……!」

「はい……不束ながら、ピースレイヤー家に嫁がせていただいた者です……」

「……詳しい事情は屋敷で聞こう。立てるか?」


 大まかな事情を察したらしい辺境伯様は、地面にへたり込んだままだったわたしに手を差し伸べる。

 死ぬのなんて怖くなかったはずなのに、命なんていらなかったはずなのに、どういうわけかわたしの足は竦んで、立つことができない。

 動け、と、力を込めてもぷるぷると、生まれたての子鹿のように震えるばかりだ。


「……も、申し訳ございません! そ、その……っ!」

「いや、無理もあるまい。少しだけ、体に触れる無礼を許してくれ、リリアーヌ嬢」


 辺境伯様は小さく一礼すると、わたしを抱きかかえて、辿ってきたのであろう道を引き返していく。

 いわゆる、お姫様抱っこだった。

 小さい頃、書庫に忍び込んで密かに読んでいた童話に書かれていた、そんな抱かれ方。わたしは、夢でも見ているのだろうか。


 気づかれないように手の甲をつねると、鈍い痛みが皮膚を伝って体に走る。

 信じられないけど、これは夢でもなんでもない。

 辺境伯様は共に来たのであろう白馬に跨がると、わたしを抱きかかえているとは思えないほどに華麗な手綱捌きで走らせていく。


 本当はわたしが向かうべきだった場所へ、その邸宅である、「暗闇の森」から程近い場所に建てられた城塞へと。




◇◆◇




「おかえりなさいませ、ピースレイヤー卿」

「アインハルトか、君も戻っていたのだな。国境線の動向は?」

「穏やかです。スティアに任を引き継がせておきました。だからこうしてここにいるのですよ」

「それもそうだな」


 常に魔物からの脅威と、隣国の動向に備えていなければいけないピースレイヤー領は過酷な地だとは、噂には聞き及んでいる。

 アインハルトと呼ばれた黒髪の騎士様に、辺境伯様はふっ、と小さく苦笑してそう返すと、駆け寄ってきた従者たちに「クラウ・ソラス」を預けて、お屋敷の赤絨毯を優雅に歩む。

 一方でわたしは、緊張に震えながら、本当にこのお屋敷に足を踏み入れていいものかと、きょろきょろと周囲を見渡していた。


「ピースレイヤー卿、失礼ながらこちらの頭巾を被ったお方は?」


 騎士様が辺境伯様へと問いかける。

 思わずわたしはびくり、と震えて背筋を伸ばしていた。

 そうだった。辺境伯様はどうしてかわたしのことを丁重に扱ってくれているみたいだけど、お屋敷の方々まで、そうとは限らない。


「紹介がまだだったな。彼女──リリアーヌ・エル・ヴィーンゴールド嬢は、今日より私の妻となる女性だ」

「失礼ながら、リリアーヌ嬢は今朝こちらに向かわれるご予定でしたが、道中で魔物の襲撃を受け、お亡くなりになられたと聞き及びましたが……」

「そのような報告を受けたのは本当か、アインハルト」


 穏やかな表情をしていたのが一転、辺境伯様はわたしの家が並び立てたのであろう嘘八百に、嫌悪を向けるかのように眉を顰める。


「はっ。今朝方、私が帰還したときに」

「そうか……この俺も随分と舐められたものだ。だが、この通りリリアーヌ嬢は無事だ。彼女には予定通り、この屋敷で暮らしてもらうことになる」


 辺境伯様の言葉に異を唱える人は誰もいない。

 使用人たちや、騎士様までボロボロのドレスに頭巾を被っているという、見窄らしい出立ちのわたしに恭しく一礼をする。

 だけど、わたしはそれが不思議でならなかった。


 辺境伯様がなにかの気まぐれでわたしをお手元に置いてくださるというのならかろうじて理解できるけれど、どうして皆、花嫁を迎えるようにわたしを扱うのか。


「お、お待ちください! 辺境伯様!」

「……む、なにか不満か? リリアーヌ嬢」

「わ、わたしは……っ! わたしは、ヴィーンゴールド家の忌み子でございます……! お噂は、聞いていらっしゃることでしょう……なのに、なぜ、辺境伯様だけでなく、皆様は、わたしをいじめないのですか……? 気持ち悪くは、ないのですか……?」


 本当に、理解ができなかった。

 だから、わたしは問いかける。

 頭巾に隠された忌み子の証である赤銅色の髪を露わにして。


「リリアーヌ嬢、君はおかしなことを言うのだな」


 そう訴えかけるわたしを真っ直ぐに見据えて、辺境伯様が口を開く。


「……っ、も、申し訳……」

「ここにいるのは俺が正式に結婚を決めた一人の女性……我が妻だろう。忌み子などどこにいる? そうだろう、アインハルト」

「はっ、私の目には目の前にいらっしゃるお方は間違いなく、ピースレイヤー卿の奥方だと映っております」


 騎士様に、冗談でも投げかけるかのように微笑を浮かべて辺境伯様は言い放つ。

 その言葉を受け取った騎士様も、聞いていた使用人たちも皆、口元を綻ばせていた。

 皆が笑っている。それは、わたしがヴィーンゴールドの家にいたときもよく見た光景だ。


 書庫に入り込んだことが露見してしまったときや、妹の、マリアンヌのベッドを整えているときについ居眠りをしてしまったとき……お父様から罰を与えられるとき、いつだってお母様やマリアンヌ、使用人たちですらも、わたしを嘲笑っていた。


 だけど、今見ている笑顔は違う。

 朗らかで、あたたかくて。

 なんだか、見ていると泣きたくなってしまうくらいに穏やかな、春の陽射しにも似たものだ。


 今まで一度だって向けられたことのなかった……まるで、マリアンヌを褒めるときの、お父様やお母様のような、笑顔。

 それが、わたしなんかに向けられている。

 そして、辺境伯様は、わたしを……痩せ衰えて、背も低いわたしを、妻だと、そう呼んでくれた。その事実がもたらす感情は、わたしの頭の中をいくら探しても、名前が見当たらないものだった。


「……辺境伯、様」


 頭巾を目深に被って、わたしはその名前がわからない感情から目を逸らすように、俯く。


「さぞかし、つらかったことだろう。リリアーヌ嬢」

「……ですが、わたしは……」

「俺は、生まれてくることに罪などないと思っている」

「……っ……!」


 俯き、震えるわたしの肩に手を置いて、辺境伯様はまるで童話を読み聞かせるように語る。

 生まれてきたことが罪だと、生きていることが罪だと詰られ続けてきたわたしにとって、その言葉は理解が及ぶものではなかった。

 それでも、辺境伯様が嘘を言っていないことは、その力強い光を放つ瞳を覗き込めばわかる。だから、どうしていいのかわからなくて。


「ここはウェスタリア神聖皇国の最前線にして、最後の砦だ。我がピースレイヤー領を訪れる人間は……ここに仕える者たちも含め、皆それぞれに事情を抱えている」

「……」

「だから、というわけではないのだがな。今は呑みこめずとも構わない。それでも俺は、君を……リリアーヌ・エル・ヴィーンゴールド嬢を伴侶とした選択を後悔してはいない。そして、君はここにいてもいい。それだけは、忘れないでほしい」


 泣きたくなるくらいに優しくて、あたたかい言葉だった。木漏れ日のように、春風のように心地よく……だけど、心に走っているひび割れに染みてしまうような、そんなお言葉。

 辺境伯様が仰った通りに、今のわたしではその全てを受け止めることはできない。

 だけど。だけど、「ここにいていい」というその言葉が、今はなによりも甘美に……かつて盗み見た童話の結末を見届けたような心地にさせる。


「リリアーヌ嬢に相応しい服と、ありったけの食事を用意しろ! 湯浴みの準備もだ!」

『かしこまりました!』


 辺境伯様がぱちん、と指を鳴らすと同時に、使用人たちが散り散りに支度へかかる。


「さあ、リリアーヌ嬢。ようこそ、我がピースレイヤー家へ」

「……は、はい……ありがとう、ございます……」


 わたしはただ、辺境伯様から差し伸べられた手を取って、頭巾の下から呆気に取られたような表情で、それを見つめることしかできなかった。




◇◆◇




 今日は、人生で初めてのことばかりだ。

 冷たい水浴びで済ませるのではなく、熱を発する魔法石で沸かされた大きな湯船に浸かったことも、誰かに髪を乾かしてもらったことも、天蓋付きのベッドが中心に配置されている、豪奢なお部屋を与えられたことも。

 そして──夢にまで見た、豪奢なフリルがたくさんあしらわれ、宝石で飾られたドレスを着付けてもらっていることも。


「よくお似合いです、リリアーヌ様」


 わたしにドレスを着せてくれた、年若いメイド長のエスティさんが、柔らかな笑顔を浮かべながら耳元で囁きかけてくる。

 ドレッサーの鏡に映るわたしは、なんだかわたしじゃないみたいに華やかな見た目をしていて、これが本当に自分の姿なのか、にわかには信じられなかった。

 見窄らしいドレスを着て、部屋なんて与えられることはなく、屋根裏に藁を敷いて眠っていたわたしから、生まれ変わったみたいで。


「これが……わたし……?」

「はい。リリアーヌ様のお姿でございます」

「信じられない……まるで、夢を見ているみたい……」

「お戯れを。夢などではございませんよ」


 エスティさんはくすりと小さく笑って、呆然とするわたしに起立を促す。

 部屋の壁にかけてある時計は蛇の刻を、晩餐の時間が近いことを示していて、それはそろそろ、辺境伯様がこの部屋を訪れることの暗示でもあった。

 わたしは立ち上がり、ベッドに置いていた見窄らしい頭巾を被る。せっかく美しく身だしなみを整えてもらったのは、とても……とても、申し訳ないくらいなんだけれど、この身が美しく飾り立てられれば飾り立てられるほど、忌み子の証であるこの赤銅色の髪が疎ましく思えてしまうから。


「頭巾を被られるのですか?」

「……申し訳ありません。脱げと、そう仰られるのであれば、脱ぎますが……」

「まさか。リリアーヌ様がそうお決めになったのであれば、メイドにすぎないこの私が申し上げることはございません。それでは、失礼いたします」


 スカートの裾をつまみ上げて優雅に一礼すると、エスティさんは部屋の外へと去っていく。

 なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、どうしても受け入れられないものは受け入れられないのだから、仕方ない。

 そして、エスティさんと入れ違うような形で辺境伯様が姿を現す。


「美しい……やはり俺の目に狂いはなかったようだ」

「そんな、もったいないお言葉を……」

「もったいなくなどない。これは俺の妻に対する率直な気持ちなのだから、受け取られない方が傷ついてしまいそうだ」

「……あっ……は、はい……! ありがとう、ございます。辺境伯様」


 噂を聞いたときは少なからず、冗談を言うようなお人ではないと思っていたけれど、気さくにそんな言葉をかけて苦笑している辺境伯様を見ていると、噂なんてものは当てにならないものなのだと思い知らされる。

 ぺこりと頭を下げて、まだ受け止め切れないけれど、確かな温もりと共に私の心へ飛び込んできたその言葉を、わたしはそっと抱きしめた。

 美しい。今まで言われてきたこととは正反対で、戸惑ってしまうけど。やっぱり、わたしの赤銅の髪は醜いと、自己嫌悪を抱いてしまうけど。


 あたたかなその言葉は、心に刺さった氷の棘を少しだけ溶かしてくれたような、そんな気がした。


「さて、ここが食卓になる。今日は君のために腕利きを集めて食事を作らせた。口に合うといいのだが……」

「……ありがとうございます、わ、わたし……好き嫌いは、ありませんから」

「ふっ……面白いことを言うものだな、君は」

「そ、そうでしょうか……?」


 そんなやり取りを交わしているうちに案内された城内食堂は、質実ながらも確かな高貴さが感じられる装いをしていた。

 ヴィーンゴールドの家にいたときの食卓とはまた飾りつけの趣きが違っていたけど、なんだか、いい意味で派手すぎない装飾は、少しだけ緊張を和らげてくれた気がする。

 もっとも、わたしがヴィーンゴールドの家にいた頃は、食卓なんて使わせてもらえなかったけれど。


 辺境伯様は、わたしを席に座らせてから食卓につき、ぱちん、と指を鳴らしてみせる。

 無言の号令に従って、厨房から出来たての料理を運んでくる給仕たちは皆、わたしみたいにどこか緊張した面持ちだ。

 そんなに畏まられてしまうと、わたしもなんだか肩身が狭い。


 緊張に手を震わせながら、ただ料理が食卓に並んでいくのを無言で見送る。

 ふわりと立ち昇る湯気に乗って香ってくる匂いは、今までの人生で一度も嗅いだことがないくらいに美味しそうで。

 わたしが知っている食事とは、黒パンと野菜くずが浮かんだ、塩の味しかしないスープとは大違いだった。


「では、改めて……ピースレイヤー家によく嫁いでくれた。リリアーヌ嬢。この場を借りて、君と、君を伴侶とできる幸運に感謝する」

「い、いえ! そんな……もったいないお言葉を……!」

「君の身の上はある程度聞き及んでいる。ここでの生活に慣れるまでは少し時間がかかるかもしれないが……今はなにも気にせず、好きに食事を楽しんでほしい」


 テーブルマナーは貴族の嗜みとして一応教えられたけど、実践する機会がなかったわたしを慮って、辺境伯様はそう言ってくれた。

 黒パンと野菜くずのスープ以外食べたことなんてないし、食事がない日もあったから、正直なところ、目の前に並ぶ目も眩むようなご馳走にどうやって手をつけていいのかわからない。

 作法は問わない、とのことではあったけど、あまりはしたない真似をしては、辺境伯様の機嫌を損ねてしまいかねない。だから。


 震える指先で銀の匙を手に取って、透き通った黄金色に輝くスープをひと匙掬う。

 これが、本物のスープというものなのだろうか。

 わたしが飲んでいたものとは、比べること自体が失礼なくらいに綺麗で、いろんな食材の美味しさが凝縮された芳醇な香りを漂わせていて。


「……んっ……」


 こくり、と喉を鳴らしたときの衝撃は、舌先にじわりと優しくその味が滲んだときの感動は、筆舌に尽くしがたいものだった。

 適温に保たれた黄金色のスープは、適当に野菜くずを茹でた汁に塩をいくらか入れただけのそれとはなにもかもが違っている。

 これが、食事。童話の中でしか読んだことのなかった、貴族に許された、晩餐。


「……っ、く……ぐすっ……」


 そして、わたしが今の今まで食べてきたものがなんであったのかを思い知り──ただ、涙が止まらなかった。

 泣き虫はうるさいからと、泣くのはみっともないからやめろと、頬を叩かれて教えられてきたから、人前では決して涙をこぼすまいとしていたのに、わたしは。


「……すまない、そこまで口に合わなかったのだろうか」

「……い、いえ……違います……! その……あ、あまりにも……あまりにも、美味しくて……っ……!」


 首を傾げる辺境伯様に、わたしは身振り手振りを交えて必死に弁解する。

 この食事が舌に合わないなんて、大それたことを言える人がこの世にいるのだろうか。

 いや、いるはずがない。


「そうか……ならば好きなだけ飲むといい。給仕! コンソメを鍋ごと持て!」

「あ、あっ……お、お鍋ごとは、さすがに……!」

「む、そうか……ならば、冷めないうちに飲むといい。他にも様々な料理を用意させている。どうか、心ゆくまで楽しんでいただきたい。リリアーヌ嬢」


 ふっ、と微笑みかけてくれた辺境伯様のお顔は、とても「氷」という評判からは程遠くて。

 わたしは、またわけもわからないまま涙をこぼしてしまう。

 名前も知らないあたたかさが、それこそ、わたしの心に刺さった氷の棘を静かに溶かしていくような感覚を抱きながら。




◇◆◇




「まさか、少しだけしか食べられなかったとは……すまない、君がそこまで食が細かったとは思わなかった」

「いえ、そんな……それどころか、生まれて初めてあんなに美味しい料理を食べられて、わたし……」


 食事と湯浴みを終え、寝巻きに着替えさせてもらったわたしは、辺境伯様にエスコートされながら、胃がもたれたお腹を抱えて歩いていた。

 辺境伯様が言う通り、わたしは出されたフルコースを全部食べ切れなかったくらいに胃が弱っていて、自分がいかにまともな食事をしてこなかったのかを痛感する。

 出されたものを残してしまうなんて、はしたない。ただただ落ち込んで肩を落とすばかりだ。


「そうか……だが、次からは君に合わせた量を出すよう、給仕たちには言っておいた。先ほども言った通りだが、少しずつ慣れていけばいい」

「……ありがとうございます、辺境伯様」


 寝巻きの裾を摘んで一礼する。

 寝巻きなんてものを着たのも人生で初めてで、ヴィーンゴールドの家にいた頃のわたしは大概、ボロボロのドレスを着たまま眠りについていたのを思い出す。

 それと比べるのも失礼なくらいに、薄桃色に染められ、フリルがあしらわれたこの寝巻きは美しくて、なんだか寝床に入るというのに着飾っているみたいだと、そう思って気が引けてしまうくらいだった。


「構わない。ただ、一つだけ俺から君に提案がある」


 穏やかな顔をしていたのが打って変わって、辺境伯様は険しく細い眉根にシワを寄せる。

 なにか、粗相をしてしまったのだろうか。

 もしかして、ベッドを使わずに床で寝ろと、屋根裏に藁でも敷いて寝ていろと、お父様と同じことを言われるのだろうかと身構えてしまう。


「も、申し訳ありません……わたしは、なにか粗相を……?」

「いや……ただ、君は俺の妻なのだろう、リリアーヌ嬢?」

「……は、はい……そのようになっていると、聞き及んでいます」

「ならば……辺境伯様、などと他人行儀な呼び方はよしてほしい。俺は、君の伴侶なのだから」


 そっと震えるわたしの肩に手を置いて、辺境伯様は小さく笑う。

 ならば、どう呼べばいいのだろう。

 家を追われたに等しいわたしなんかが、本当にその名を呼んでいいのだろうか。


 震えるわたしの頬に、そっと辺境伯様の手が触れる。

 叩かれるのかと思った。思わず目を瞑ってしまう。

 辺境伯様がそんなことをするようなお方じゃないのはわかっていても、誰かがわたしの頬に触れるときは、いつだってそうだったから。


 ──でも。


「……やはり、君は美しい。アインハルトとエスティにせっつかれての婚姻だったが……そのような理由で君を妻に娶ったことを、心の底から詫びたいほどだ。リリアーヌ嬢」

「辺境伯、様……」

「すまなかった。だからこれは……そうだな。願い出という形になる。どうか、これからは俺の名を呼んでくれないか」


 こぼれ落ちた涙をそっと、ごつごつと骨張った力強い指先が拭い去る。

 いいのだろうか。わたしが、忌み子のわたしなんかが。

 その名を呼ぶことを、許されても。


「……承知いたしました。す、す……」

「……」

「……スターク、様……」


 しどろもどろになりながらも、ようやくわたしの舌先が、辺境伯様の──スターク・フォン・ピースレイヤー様のその名を紡ぎ出す。

 スターク様はふむ、と満足したように小さく頷いて、わたしの部屋のドアを開ける。

 どうだったのだろう。変な声音だったりしなかったかな。心配になるわたしに、スターク様は。


「……感謝する、リリアーヌ嬢」

「スターク、様」

「いや……俺も君をこう呼ぶべきか。リリアーヌ」

「……は、はぅ!?」


 つい、変な声が出てしまった。

 リリアーヌ。そう親しみを込めてわたしの名を呼ばれたのは、初めてだったから。

 お父様はいつだって、わたしの名前を呼ぶときは苛立っていた。お母様は、いつだってわたしの名前を呼ぶときは蔑んでいた。


 だけど、スターク様がわたしの名前を呼んでくれたときは、まるで春風が頬を撫でたかのようにそわそわして、でも、心地よくて。


「おやすみ、リリアーヌ。よい夢を」

「……ぁ、ありがとうございます。スターク、様……」


 なんでだろう。

 自分でもよくわからないけど、顔が真っ赤で、頬っぺたがかあっと熱を帯びていて。

 そしてとくん、とくんと跳ねる心臓がうるさくて、眠れそうもなかった。藁で作ったのとは大違いなふかふかのベッドに寝転んだ感動も、薄れてしまうほどに。


 わたしは、リリアーヌと……スターク様に優しく名前を呼んでいただいたことで胸に灯ったあたたかな火を抱きしめながら、しばらくごろごろとベッドでのたうち回っていた。




◇◆◇




 それでもふかふかのお布団とベッドの誘惑には抗い切れず、いつの間にか眠りの淵に落ちていたわたしが目覚めたのは、日が昇る前のことだった。

 ヴィーンゴールドの家にいた頃は、使用人たちよりも早く目覚めて、厨房に立ったり屋敷の周りをお掃除したり、お洗濯をしたりしていたっけ。

 だから、ピースレイヤー家でも同じことをしようと、そう思って寝巻きのまま、頭巾を被って厨房に向かおうとしたときだった。


「おはようございます。どこに行かれるおつもりですか、リリアーヌ様?」

「え、エスティさん……いつの間に……?」

「ふふっ、メイド長たる者、誰よりも早く起き、誰よりも遅く眠るのが使命ですから。それで……お着替えもされないまま、どこに行かれるおつもりだったのですか?」


 いつの間にか部屋の前に立っていたエスティさんが、いたずらっぽい笑みを浮かべながら問いかけてくる。

 責めているというわけではないんだろうけど、なんだか悪いことをしていたみたいでずきり、と心が痛む。着替えのことについては完全に忘れちゃってたし。

 ヴィーンゴールドの家では下着くらいしか着替えるものがなかったし、それだって一通りの家事が終わってからだったから、完全にその頃の癖が体に染み付いていたのだ。


「……ちゅ、厨房に。その、家事をしなければと思いまして」


 だから、私は観念したようにエスティさんへと行こうとしていた場所を打ち明けていた。


「厨房? 差し出がましいかもしれませんが、リリアーヌ様がなぜそのようなところに……?」

「……ヴィーンゴールドの家では、わたしが家事をしなければならなかったので」

「失礼ながらリリアーヌ様、それは我々のような使用人の領分では?」


 エスティさんは、小首を傾げて問いかけてくる。

 結論からいってしまえば、使用人たちも家事をやらなかったわけじゃない。

 ただ、彼女たちが担当していたのは、いってしまえばもっと「位が高い」ことで、芋の皮剥きだとか使用人たちの着替えを洗ったりだとか、庭の雑草抜きをしたりだとか、そういうことをわたしが担当していたのだ。


 そう口に出したわたしを見たエスティさんの表情は、まるで信じられないものを見たかのような驚愕に染まっていた。

 さすがに、わたしを疑うような視線こそ向けてこなかったけど、それでも「こんなことが許されるのか」とでも問うかのように天を仰いで、眉間に深いシワを刻んでいる。

 どうやら使用人の立場からしても、ヴィーンゴールドの家でわたしの置かれた境遇は異常なものに映るらしい。


「お事情は把握いたしました。それはさぞかしおつらかったことでしょう……ですが、恐れながら申し上げます。リリアーヌ様、芋の皮剥きは包丁を使う作業です」

「は、はい……それは、わかっています」


 エスティさんは諭すようにそう言ったけど、いまいち事情が飲み込めない。

 むしろどうやって包丁を使わずに芋の皮を剥けるのかが知りたかった。魔術の道は奥が深いというし、そういう魔術もあるのだろうか。

 などとぼんやりした考えを頭に描いているうちに、エスティさんは恭しく一礼して言葉を続ける。


「リリアーヌ様のご厚意とご献身の高潔なお心遣いには感謝いたします、ですが……万が一リリアーヌ様に怪我をされては、私たち使用人一同の立つ瀬がないのです」

「あっ……で、では、庭の雑草を抜くのはどうでしょう? それがダメなら、お洗濯を……」

「いけません、リリアーヌ様。水仕事をしたり草に触れるなど、リリアーヌ様の綺麗な手が汚れてしまいます! それに、辺境伯様からお預かりしたお召し物を汚すようなことがあっては、やはり我々の立つ瀬がございません」


 腰を折って頭を下げたまま、エスティさんはやめてほしい、とわたしの申し出を却下する。

 確かに、言われてみれば事情は飲み込めるし、万一のことがあったら使用人たちの立場がないというのも理解できるけど、このままなにもしないでいるのも、わたしを娶ってくださったスターク様に申し訳がない。

 なにか、お役に立てることはないのだろうか。


 わたしがそう頭を抱えているときだった。


「エスティ、リリアーヌになにをしている?」


 早朝から「暗闇の森」に出かけていたのか、頬に小さなかすり傷を作っていたスターク様が、険しい目線でエスティさんを見据える。

 もしもわたしの身になにかあったとしたら、即刻この場で斬り捨てるとでもいうような、有無を言わさない視線だった。


「はっ、わたくしたち使用人一同の仕事を手伝いたいと、リリアーヌ様からそうお申し出があったのです」

「……それは本当か、リリアーヌ?」


 訝るように、スターク様が問いかけてくる。

 嘘はついてないし、なんなら全部本当のことなんだけど、やっぱり使用人の仕事を貴族令嬢が担うのは、世間一般ではおかしなことらしかった。

 それになんだか、エスティさんを悪者にしているみたいで申し訳がない。わたしはぐっ、と決意を固めて、スターク様の問いに答えを返す。


「はい、ヴィーンゴールドの家では、わたしがいつも芋の皮剥きやお洗濯、お庭の雑草抜きなどを担っておりましたので、少しでもスターク様の助けになればと……」

「そうか……しかし、リリアーヌ。それは君がやるべきことではない。我が家においても、ヴィーンゴールドの家においても、だ」


 安心したのかそれとも呆れたのか、スターク様は眉間に指を当ててそう言った。

 不謹慎かもしれないけれど、眉目秀麗、という言葉が似合うスターク様は、物憂げな顔をするのも様になっている。改めてこんなお方に、わたしのような忌み子の出来損ないが釣り合うのだろうかと考えてしまう。

 だから、なにかお役に立てることを探していたのだけれど。


「なにか……なにか、スターク様のお役に立てることはございませんか? わたしは、ご恩をお返ししたいのです」


 考えて、悩んで、それでも答えは出てこなかったから、単刀直入に問いかける。

 いつも家でやっていたことができないから、どうしていいのかよくわからないのはあった。

 でも、それ以上にこんなに見窄らしいわたしを家に置いてくれている、妻と呼んでくれているそのご恩に報いたいという気持ちが上回っていたから。


「ふむ……君がそこまで考えてくれているとはな。こちらとしてもありがたい」

「いえ、そのような……」

「そう謙遜するものではない。そうだな……俺に一つ案がある。着替えを済ませてから、ついてきてほしい」


 部屋の外で待っているぞ、と言い残して、スターク様はエスティさんに目配せをする。

 エスティさんは一礼すると、寝巻きのままだったわたしに、部屋へ戻るようそっと促した。

 そして、気づいてしまう。今の今までわたしはよりにもよって寝巻きでスターク様とお言葉を交わしていたことに。


「それではメイドに本日のお召し物を用意させますので、しばらくお待ちください。リリアーヌ様」

「……はい、ごめんなさい……」


 こういう状況を、なんというのだったか。

 確か──穴があったら入りたい、だったかな。

 頭巾を目深に被って隠していたけど、わたしの頬はあまりの恥ずかしさに熱を帯びている。きっと、真っ赤になっているに違いない。


 本当に、今すぐ身を隠せる場所があるならそこに潜り込みたい気分だった。




◇◆◇




「着替えたか。よく似合っているぞ、リリアーヌ」

「ありがとうございます、スターク様」


 エスティさんに着付けてもらう形で、昨日とまた違った装いのドレスと、いつもの頭巾を身に纏ったわたしは、部屋の外で待っていてくれたスターク様のところに訪れていた。

 スターク様は「暗闇の森」から帰ったままの装いで、身の丈ほどある「クラウ・ソラス」こそ持っていなかったけれど、腰には護身用の小剣を帯びている。

 お着替えをしていただく時間を奪ってしまったのだと考えると、罪悪感が湧いてきて、いたたまれない気持ちになってしまう。


 だけど、でも、どうしてかスターク様が部屋の外でわたしを待っていてくれたのだという事実に、胸を高鳴らせている自分がいるのも確かだった。


「はじめに訊いておくが……君は貴族としてどれほどの教養を身につけている?」

「は、はい。お作法や所作、字の読み書きや基本的なお勉強は、教えていただきました」


 スターク様の問いに答えながら、ほんのりと辿る記憶の残り香を懐かしむ。

 お勉強の時間だけは、ヴィーンゴールドの家にいて唯一楽しかった時間だったかもしれない。それが例え、嫁入りの道具を最低限使い物にするため、ただそれだけの理由だったとしても。

 マリアンヌはお勉強なんて嫌いだといつも先生に文句を言っていたけれど、わたしにとって知らないことを学ぶのは、貴族としての所作を身につけるのは、全く苦にならなかったし、先生も褒めてはくれなかったけど、一つ一つ知識が自分のものになっていく感覚は、心地よかった。


「そうか。武術は……いや、伯爵家の令嬢が学ぶべきことではなかったな。すまない。魔術の心得はあるか、リリアーヌ?」


 一応、貴族の令嬢たちの間でも護身のために武術を教わるお方がいるのは小耳に挟んでいたけど、基本的にはスターク様が仰った通り、縁遠いものだ。

 一方で魔術はというと、高位の貴族──それこそ、伯爵家のように、あるいはその道で今まで血統を繋いできた家は、嗜みとして、あるいは社交界で生きていくための道具として、それを学ぶことは珍しくない。

 特に、数多くの「聖女」を輩出してきたヴィーンゴールド家にとって、なくてはならないものだったけれど、魔術を教わるのはいつもマリアンヌばかりで、わたしが覚えているのは本当に基礎の基礎、魔力の使い方と、盗み見た魔導書から独学で身につけた、明かりを灯す魔術ぐらいだった。


「……申し訳ありません。魔力の使い方と、本当に初歩の初歩の、明かりを灯す魔術くらいしか学んでおりません」

「ふむ……ならばちょうどいいかもしれんな」

「ちょうどいい、ですか……?」


 恥知らずとして罵られるかと覚悟していたら、スターク様の口から飛び出してきたのは、予想もしていない言葉。

 ちょうどいい、とはなにを指すのだろう。

 首を傾げてもそれ以上はなにも言わず、スターク様は屋敷のどこかへとわたしを先導する。


 そうして、歩くことしばらく。

 わたしが案内されたのは、巨大な両開きの扉に閉ざされた、城塞の一角だった。


「……スターク様。恐れながら、ここは……?」

「書庫だ」


 どうやらこの大きな扉の向こうにあるのは、書物を収めた部屋らしい。

 ただただ、スケールの違いに圧倒される。

 ヴィーンゴールド家にも書斎はあったけれど、それとは比べ物にならないほど大きな扉の向こうには、いったい何冊の本が収められているのか、まるで見当もつかなかった。


「ピースレイヤーの家は元々魔術師の出でな。見ての通り、俺はほとんど剣を振るうことしかしてこなかったが……何代前の先祖がそうしていたのかは見当もつかんが、とにかく本の類に目がない家だったらしい」


 そうして作られたのが、この巨大な書庫だとスターク様はどこか呆れたように笑って呟く。


「驚きました……こんなにたくさんの本を集めていらしたのですね、ピースレイヤー家の御先祖様は」

「ああ……俺にとっては無用の長物、と言うと先祖への礼を欠くな。だが、あまり有効に使ったこともない部屋だ。リリアーヌ、君は基本的なことしか教わってこなかったのだろう? ならばここで、なにかを嗜みとして学ぶのも悪くはあるまい」


 書庫の扉に鍵を差しながら、スターク様がふっ、と小さく笑う。

 なにかの嗜みなんて、そんな、とんでもなくもったいないことのように思えたのも確かだったけれど、ここにはたくさん……きっとわたしが生涯を費やしても全部は読み切れないかもしれないほどの本があると考えると、心がとくん、と高鳴るのを感じる。

 ごくり、と、思わず生唾を呑み込んでしまうくらいには。


「ふっ……やはり見立て通りの女性だったな、君は」

「も、申し訳ありません……はしたない真似を」

「いや、いい。もしもなにか役に立ちたいと思うのであったなら、ここで君が学びたいことを学び、そしてその教養を我がピースレイヤー家のために役立ててくれ」

「……はいっ!」


 掌に魔術で明かりを灯しながら、わたしはスターク様に促されるまま、書庫の中へと踏み入っていく。

 何代も前の御先祖様が収集して、利用していた場所だったけれど、不思議と全然埃っぽくなくて、室内は清潔に保たれていた。

 きっと、お掃除も、本の保管も大変だったに違いない。


 左手の明かりを頼りに右手で本の背表紙をなぞって、そこに刻まれた題名を頭の中で読み上げる。

 初級魔術大全、魔力を高める五つの習慣、魔術から魔法に至るまで──どれもこれも魅力的な本ばかりで、なにから読もうか、とてもじゃないけど決められないくらい迷ってしまったけれど。

 背表紙をなぞっていた指が、一冊の本を前にぴたり、と止まる。金箔と共に刻まれた文字を、誦じてみれば。


「新訳錬金術大全……著、クラリーチェ・エル・グランマテリア……?」


 それは多分、運命だったのだと思う。

 吸い寄せられるように手に取って開いた本に記されていたのは、噂には聞いていた──極めれば、全ての物質の素となる元素を抽出し、魔力で自在に作り変えることのできる魔術、錬金術。

 そして、初級者から上級者まで対応できるように、著者が事細かく描いたレシピだった。


 はらり、とめくった初級者用のページにそれが載っていたのも、きっと運命に違いない。


「安息の軟膏……」


 傷薬。それは中和剤と薬草、そして術者の魔力さえあれば簡単に作れるとされているものだった。

 これなら、わたしにもできるかもしれない。

 ふと、スターク様の負ったかすり傷が脳裏をよぎる。


 わたしにできることなんて、スターク様から受けた大恩に報いることなんて、できないのかもしれないけれど。

 ほんの一歩、わたしが踏み出そうとしているのは、初歩の初歩かもしれないけれど。

 胸に淡く芽生えた期待と、「新訳錬金術大全」を抱いて、書庫の奥へと駆け出していく。この本があるということは、ここにはきっと「それ」があるということに違いないから。




◇◆◇




「スターク様!」


 見立て通りにあった「それ」がもたらしてくれた恩恵は、果たして形となってわたしの掌に収まっている。

 ドレスや髪が乱れない程度に急いで、書庫の前でずっと待ってくださっていたスターク様の元へと駆け寄っていく。


「む、リリアーヌ……心配していた。よもや、書庫の中で迷っているのではないかと」


 安堵したように、スターク様が小さく息をつく。

 カンテラを携えたメイドたちが近くに控えているのは、多分そういうことなのだろう。

 さすがにわたしも書庫の中で迷ったりはしない……と、思いたいところだったけど、あの書庫は「アトリエ」だったのもあって、結構入り組んだ作りになっていたから、もしかしたらそうなっていたのかもしれない。


「はい……書庫は、とても刺激的な場所でした」

「そうか……俺はなぜ先祖が書庫をあのような作りにしたのかいつも疑問に思っていたが、もしかしたら、君がここに嫁いできたときのためだったのかもしれないな」


 ふっ、と「氷」の二つ名には似合わない、静かながらもあたたかな微笑を浮かべて、スターク様はそう言い放つ。

 とくん、と不意の言葉に心臓が大きく跳ねる。まさか、そんなお言葉をいただけるなんて、思ってもいなかったから。

 この気持ちはなんだろう。あたたかくて、だけどちょっとだけ苦しく締め付けられるような、気持ち。


 そんな風に、少しだけ意識が飛びかけていたのを引き戻すように頭を振って、わたしは乱れかけた息を整える。


「ぁ……ありがとう、ございます。ですが、答えはきっと、それだけではないかもしれません」

「……と、いうと?」

「ご覧ください……これは『安息の軟膏』でございます」


 掌で包んでいた小瓶をスターク様へと捧げてみせる。

 それは、錬金術がもたらしてくれた結果。全てはピースレイヤー家の御先祖様に、錬金術師がいてくれたことによる恩恵だ。

 書庫の奥の奥、隠し扉を通った先にひっそりと作られていた小部屋には、決して腐ることのない魔力が充填された水と、それに満たされた釜──錬金釜が、鎮座していたのだから。


 しかも、後世の錬金術師に向けてなのか、極めて高度な魔術で保存されていた新鮮な素材もいくつか箱の中に収められていて、それでわたしは、「安息の軟膏」を作ることができたのだ。


「ふむ……? 書庫にそのようなものが眠っていたのか? 半年に一度は整理させているはずだが……」

「いえ……これは僭越ながら、わたしが錬金術で作り上げたものです。ピースレイヤー家の書庫は、錬金術師のアトリエも兼ねていたのですから」


 隠し扉が、アトリエがあること自体知られてはいなかったのか、メイドたちが目を丸くしてざわめきだす。

 これはわたしの推測でしかないけれど、恐らくピースレイヤー家は、あのクラリーチェ・エル・グランマテリアという偉大な錬金術師になんらかのルーツを持つ家なのだろう。

 そうでなければ、あんな立派なアトリエが隠されているはずがない。


「そうか……我が家にそのようなものが隠されていたことも驚いたが、真に驚くべきは、君の学びに対する好奇心なのかもしれない。見立て通りの聡明さだ、リリアーヌ」

「……あ、ありがとう、ございます……! その、スターク様……」

「なんだ?」

「よろしければ、わたしが作ったこの軟膏を、使ってはいただけないでしょうか?」


 かすり傷とはいえ、それでもまだスターク様の頬には、「暗闇の森」で負ったのであろう傷痕が残っている。

 放っておけば治るような怪我かもしれないし、わざわざ錬金術で作らなくたって、「安息の軟膏」なんて、街で売っているかもしれないけれど。

 それでも、なにかがしたかった。わたしにできるなにかで、スターク様にいただいた恩を、少しでもいいから返したかったのだ。


「そうか、君はこれを、俺のために……」

「……は、はい。お気に召さないのであれば、い、今すぐ取り下げますが……」

「いや……貰っておこう。そうだな、せっかくだ。君の指で塗ってはくれまいか」


 細い顎に指をやって、妙案を閃いたとばかりにスターク様はそんなことを口走る。

 わたしが? わたしの? 指で?

 本当にいいのだろうか。わたしなんかが、その美しく、精悍なお顔に触れても。


「……わ、わたしの、ですか?」

「……不服か?」

「……いえ、とんでもございません! し、失礼いたしますっ!」


 指先で軟膏を掬い取り、恐る恐るといった風情でそっと、スターク様の傷口に触れる。

 すると、放っておけば治る程度の傷かもしれなかったけれど、見る見るうちにかさぶたができていた傷痕は塞がって、スターク様は元の傷一つない美しいお顔に戻っていた。

 どうやら、錬金術は成功したらしい。ほっと、安堵に胸を撫で下ろす。


「……驚いたな、ベヒモスの爪が掠めただけとはいえ、傷口が一瞬で塞がるとは」

「べ、ベヒモス……ですか?」

「ああ、『暗闇の森』を棲家にする図体ばかり大きな魔物でな……かすり傷とはいえ、あのような相手に少しばかり不覚をとってしまった己が情けない」


 日々精進あるのみだな、とスターク様は苦笑していたけれど、ベヒモスを……御伽話に出てくるくらいに有名で巨大な魔物を相手にかすり傷で生還していることの方が、とても信じられなかった。

 目をぱちくりとしているわたしの頭巾越しの頬に、今度はスターク様の左手が触れる。

 いつも頬を触られるときは叩かれるときだったから、今回もまた反射的に身構えてしまうかと思ったけれど、どういうわけか、体に力は入らない。


「君の厚意に感謝する、リリアーヌ。おかげでエスティに小言を言われなくて済む……ありがとう」


 冗談めかして、スターク様は微笑んだ。

 ありがとう。

 それはただ一言、たった一言だったはずなのに。


「……い、いえ……っ……! あれ……っ? わたし、悲しくなんかないはずなのに……どうして、涙が……」


 春の陽射しを浴びてしまった氷の棘が、そのまま溶け出てきたように、わたしの両目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。

 悲しくなんかない。

 むしろ、心があったかくて、心地よくて……陽だまりの中で寝転んでいるかのように安らかなのに、涙は次々に溢れてきて。


「……どうして、わたし……スターク様、わたしは、おかしくなってしまったのかもしれません……」


 止まらない。泣きたくなんかないのに。

 泣き虫は嫌われるから。涙は醜いものだから。

 なのに、どんどんと、体の奥から、瞳の底から、心が求めているかのように涙が溢れて止まらないのだ。


「……そうか、君は……」

「……ぐすっ……えくっ……スターク、様……?」


 気づけばわたしは、その逞しいお体に優しく抱き留められていた。

 頭何個分の身長差があるくらいに高い背と、細身でしなやかながらも鍛え上げられた筋肉が、ゆりかごのようにわたしを包み込む。

 困惑してしまう。だけど、抱きしめられたその瞬間、箍が外れたように涙は堰を切って、なにも言葉が出てこなかった。


「……その感情は、『嬉しい』というんだ、リリアーヌ」

「……スターク、さま……」

「……俺が言うのは格好がつかないが……あるいは、『幸せ』とも呼ぶものだ」


 嬉しい。

 幸せ。

 そのどちらも、わたしは知らなかった。


 いや、違う。

 知らなかったんじゃない。無知でいようと、忘れようとして──記憶の奥底に封じ込めていたのだ。

 だって、覚えていると、期待してしまうから。求めてしまうから。


 決して、手に入らないものを。

 どれだけ頑張ったとしても掴むことのできない報いを、わたしが一人啜り泣いている横で、いとも容易く妹が独り占めしていた、その言葉たちを。

 だから、嬉しさも幸せも、最初からこの世にはないものなんだと、自分に言い聞かせて。


「……すたーく、さま……わた、し……」

「……何度でも言おう。ありがとう、リリアーヌ。俺との婚姻を承諾してくれて……この家に来てくれて、そして、生まれてきてくれて」

「……っ……!」

「君の錬金術は、人を幸せにするためのものなのかもしれない。俺は現に満たされている……その力を、君の努力と探究心を、どうかこれからも分けてはくれないか」

「……っ、はい……っ……!」


 嬉しさ。幸せ。

 ああ、これがそうなんだ。

 ずっと求め続けていた、飢え、探し続けていたぬくもり。そして、諦めていたもの。


 杯が満たされていくように、わたしの心は水で溢れる。氷の棘が溶け落ちて、滴り落ちた雫で満ちる。

 この感覚こそが、ふわふわと柔らかなわたに包まれているような思いが。

 嬉しさの、幸せの、その形なのだろう。




◇◆◇




「見るといい、リリアーヌ。『暗闇の森』と接したこの場所だが……人が手入れをしてやれば、このように美しい花が咲く。俺は、それを愛おしく思う」


 初めての錬金術を成功させてから季節は巡り、夏の盛りを迎えた中庭で、スターク様はわたしの手を取り、お散歩に連れ出してくれていた。


「白く、美しい花です……とても、綺麗」

「俺もそう思う。そして、この花が綺麗に咲いているのは、ひとえに庭師たちの努力があってのことだ」


 スターク様は、今も枝切り鋏で庭木の手入れをしている使用人たちを一瞥して言った。

 彼ら彼女らとわたしたちの間には、身分という明確な差であり壁がある。それは、どうしようもないことだ。

 だから、貴族の中には、使用人をなんとも思わずにこき使うひどい人たちがいると聞く。


 だけど、スターク様は身分の差があることを前提にしつつも、使用人たちが日々働いている姿勢を、努力を褒め称えていた。

 その高潔をこそ、わたしは美しいと思う。

 この庭に咲き誇る花たちのように華やかではなくとも、例えるなら、崖っぷちに根を張り、咲いている一輪花のような気高さだ。


 スターク様の横顔を見つめながら、そんなことを頭の中にぼんやりと浮かべる。

 あの日、嬉しさを、幸せを知ってからというもの、わたしの世界は急激に鮮やかな色彩を取り戻していった。

 今まで枯れ果てかけていたものが、水を得たように息を吹き返したことで、知ったものや知ったことは数多い。


 だけど、その知識の中で、幸せたちの中で一番大きなものは、この家に嫁げた幸せだ。

 そして、次に大きなものは、わたしが正式にこのピースレイヤー家の錬金術師として認められたことだろうか。

 どういうわけか、わたしが錬金術で作った道具は市販のものとは比べ物にならないくらい大きな効果を発揮するようで、エスティさんたちが嘆いていた頑固な汚れを落とす洗剤や、安らぎをもたらすアロマや、様々な道具を作ることで、わたしはピースレイヤー家に居場所を得ることができていた。


「それは君も同じだ、リリアーヌ」

「わたしも……ですか?」

「もちろんだ」


 スターク様は頷くと、その白い花を一輪手折って跪き、捧げてくれた。


「君の錬金術のおかげで、この城塞も随分と華やかになった。恥ずかしながら……どうにも俺は使用人たちの機嫌を取るのが苦手でな。君がいてくれたおかげで、使用人たちも、騎士たちも皆活気付いている。これは、間違いなく俺にはできないことだ」


 ありがとう、リリアーヌ。

 その言葉と共に差し伸べられた一輪の花を受け取って、わたしはそっと胸に抱く。

 ここにきたばかりのときと比べて、少しは肉付きが良くなっただろうか。少しでも、スターク様が好ましいと思う女性になれているだろうか。


 そんなことを思いながら、そっと白い花──薔薇へと、視線を落とす。


「……それも全ては、わたしを……忌み子のわたしなんかを、スターク様が受け入れてくれたおかげです」

「謙遜するのは君の悪い癖だな、リリアーヌ。この花を君に捧げた通り、君にとっては忌むべきものであったとしても、俺にとってそうであるとは限らない」

「それは……?」

「さて、な。少しずつだ。少しずつ、答えを知っていけばいい」


 そう呟くとスターク様は立ち上がって、吹き抜ける夏の風にマントを翻す。

 わたしは頭巾を押さえながら、その逞しい後ろ姿をただ呆然と見つめていた。

 白い薔薇、その花言葉は、「心からの尊敬」。果たしてそれを受け取る資格があるのか、まだわたしはわからないまま、嬉しさと幸せだけを胸に抱いて、スターク様の半歩後ろに付き従う。


 わたしにとっては忌むべきこの赤い髪を憎む気持ちを抑えながら。本当は、マリアンヌのように美しいブロンドに生まれていたら、という妬みを、堪えながら。




◇◆◇




 秋が過ぎ、冬が過ぎ、季節が一つ巡りゆく。

 そうして迎えた春の梢で、ピースレイヤー家に嫁いできて一年という時間が経過したことを、この中庭で噛み締める。

 中庭に設けられたテラスで、わたしはスターク様と、テーブルに聳え立つ大きなケーキを前に、そんなことを考えながらがちがちに緊張して震えていた。


「今日は、君の誕生日だと聞いている」

「……は、はい。わたしも、忘れかけていましたけれど」


 誕生日祝い。その名目で今日は二人きりになっていたのだ。

 思えば、誕生日を祝われたことなんて一度もなかったし、お母様はいつもわたしのことを「産むんじゃなかった」と言っていたから、これも意識の外に追いやっていたのかもしれない。

 だから、こうしてちゃんと祝われるのは初めてで、それがとても嬉しいんだけれど、どうしていいかわからない、というのが正直な本音ではあった。


「……我がピースレイヤー領はウェスタリア神聖皇国の堡塁にして、人類の最前線だ。本当であれば、君をこのような城に閉じ込めておくのではなく、様々な場所に連れ出すべきなのだとは思うが……これが俺に用意できる精一杯だ。申し訳ないが、我慢してほしい」


 申し訳なさそうに、スターク様は小さく頭を下げる。

 だけどそんな、とんでもない。

 わたしは、このピースレイヤー領を訪れていなかったら、この家に嫁げていなかったら、きっと幸せを一生知ることなく、生涯を終えていたであろうから。


「我慢なんて、そんな……わたしはスターク様の元に嫁げて、ピースレイヤー領を訪れることができて、とても幸せな心地です。錬金術を研究するのは楽しいですし、四季折々の花々を愛でることも飽きません」

「……君の優しさには感謝が尽きない、リリアーヌ。その心の美しさにこそ、俺は真に心奪われたのかもしれないな」


 スターク様はふっ、と小さく笑って、なにかを誤魔化すようにティーカップに口をつける。

 わたしの、優しさ。

 その言葉を正面から受け止めるには、少し幸せを知りすぎたのかもしれない。


 スターク様と過ごす時間が甘美であればあるほど、ヴィーンゴールドの家で過ごしていた時間が、罵られ、憎まれ、蔑まれ続けていた記憶が、その証である赤銅の髪の存在がわたしを苛むのだ。

 ぎゅっ、と頭巾の裾を握りしめて、小さく俯く。

 わたしがわたしでいる限り、この呪いは解けることはない。ピースレイヤー領が抱えている事情が事情だから社交の場には出なくて済んでいるけれど、一度貴族たちの前にわたしが姿を現せば、物笑いの種になってしまう。


 それがとても悔しかった。悲しかった。

 スターク様はとても素敵なお方なのに、わたしの存在が、忌み子という事実が、傷をつけてしまう。


「……思えば、一目惚れだった」


 スターク様はカップを置くと、厳かにそう呟く。


「……一目惚れ、ですか?」

「そうだ。君の美しい髪に……俺は心を奪われたのだ、リリアーヌ」

「……冗談はおよしください、わたしの髪は……赤銅の髪は、貴族の間では物笑いの種になる醜いものです。忌み子の、証です……」


 だから、頭巾を脱ぐことができないでいる。

 ピースレイヤー家の使用人たちは、この城塞に駐留している騎士たちは、わたしのことを陰で嘲笑ったりはしていないけれど、それでも一度頭巾を脱いで髪を露わにすれば、嫌悪を示されるかもしれない。

 それが怖かった。幸せを知った今だからこそ、余計に。


「リリアーヌ。君は『日緋色』という言葉を知っているか」

「……いえ、存じ上げません」

「だろうな。俺もそれを見るまでは知らなかった」


 日緋色。ヒヒイロ。

 頭の中で、スターク様の言葉をなぞる。

 まるで知らない言葉だったけど、なんだか不思議な響きを持っていると、そう感じた。


「東洋の言葉だ。明けの明星と宵の明星が輝く空に似た、そこに浮かぶ太陽に似た色を指す言葉だと、そして決して朽ちることなく太陽のように輝き続ける金属の名だと、かつて聞いたことがある」

「東洋の……」

「……俺は、日が昇る空も、日が沈む空も、同様に美しいと思う。燃えるように広がる朝焼けと夕焼けが空の青を塗り潰すのが、赤く……日緋色に染まった空こそが、最も美しい空だと、そう信じてやまない」


 スターク様はまだ青々と晴れ渡っている空を、そこに浮かぶ太陽を一瞥して、そう語った。

 朝焼けと夕焼けが美しいとはわたしも思う。

 そして、その色をこそ日緋色と呼ぶのだというのは初めて知ったことで、とても素敵な言葉だと思ったけれど、それと、わたしの髪がどう関係あるのだろう。


「リリアーヌ、君は自らの髪を赤銅と蔑んでいるが……それは間違いだ」

「えっ……?」

「……美しき日緋色。夜明けを告げる色にして、決して褪せることのない普遍の美しさを持つその言葉こそが、君の髪を……俺が一目で惚れたその美しさを飾るのに相応しい」


 赤銅などとは比べ物にならない、日緋色金。

 ブロンドの純金を遥かに超え、太陽のような輝きを放つ美しさを誇るのがわたしの髪なのだと、スターク様は静かながらも熱く、語って聞かせてくださった。

 日緋色。赤銅の、赤の呪いではなく、太陽の祝福。それがもし本当なのだとしたら、スターク様のお言葉を信じるのなら。


 わたしが最も忌み嫌っていたこの髪こそが、幸せを招いてくれたことになる。


「……あ……ぁ……スターク、様……」

「……そうだ。君の日緋色の髪は、誰がなんと言おうとも、世界で一番美しい。この俺が、スターク・フォン・ピースレイヤーがそれを保証しよう」

「……わたし、は……」


 はらり、と、被っていた頭巾が解ける。

 スターク様の優しい両手が、戒めを解くように、呪いを祓うように、わたしの頭を覆っていた頭巾を取り去ったのだ。

 着替え以外で髪を人前で露わにしたのは、いったいいつ以来だろう。それすら思い出せないほどに長い時間、わたしは。


「……やはり、美しいな」

「……醜くは、ないのですか……?」

「君の髪を赤銅に例える者は見る目がない。それほどまでに美しい。そうだな……そんな美しい髪を持つ妻を娶れたことを、誇りにさえ思うほどに」


 じわり、と、また一つ心に分厚く張っていた氷が、スターク様という光に照らされて溶け出していく。

 美しい。ただの一度もそう呼ばれたことがなかったこの髪を、スターク様は誇りだとさえ言ってくれた。

 それだけじゃない。わたしを見染めたきっかけこそこの髪だったとしても、本当にわたしに心奪われた理由は、生きているこの在り方なのだとさえ言ってくれたのだ。


 ならば、わたしは。

 わたしがその恩に、生まれて初めて向けてくれた嬉しさと幸せに報いる方法があるのなら。

 解けた頭巾が風に煽られ、飛ばされていくのを見向きもせず、涙が溢れそうになるのを堪えて、真っ直ぐにスターク様の瞳を見つめる。


 わたしのことを美しいと慈しんでくれたように、スターク様の瞳もまた、見つめ合うだけでお腹の底がきゅん、と甘く締め付けられるように優しく、そして凛々しい。

 今からこの髪は、呪いの赤銅ではなく、祝福の日緋色だ。

 そう意気込んだって、今まで嫌いで嫌いで仕方のなかったものをいきなり好きになるのは難しいけれど。


「……わたしもです。スターク様のようなお方と結ばれたことを、心の底より誇りに思います」

「光栄だ。そうだ……その目だ。書庫を見つけたときのように、錬金術で新しい道具を作ってきたときのように輝くその目こそ、そして人を慮ることができる優しさこそ、俺が愛するリリアーヌだ」

「……ぁ、愛……っ……!?」


 すらすらとスターク様の口から飛び出してきた、あまりにスケールの大きな言葉に、頬が急激に紅潮していく。

 そんな。愛してる、だなんて。

 いけません、スターク様。わたしはまだ、愛のその前にある感情すら掴めずにいるのに、愛だなんて。


「ふっ……まだ、少しばかり刺激が強かったか」

「……も、もう! お戯れを!」

「戯れなどではない。だが……そうだな。少し急きすぎたのは確かだ。まず今するべきことは、君の誕生日を祝うことだからな」


 スターク様がぱちん、と指を鳴らして給仕を呼びつけると、銀の盃を二つと、葡萄酒が詰められた瓶をトレイに乗せたエスティさんが無言で現れて、瓶の中身を盃に注いでから静かに去っていく。


「君ももう十六だ。ウェスタリアの法に則るのなら、一角の大人と言ってもいい」

「はい……」

「では、乾杯しよう。我が妻、リリアーヌ・エル・ピースレイヤーの素晴らしき誕生日と、この出会いをもたらしてくれた至高神と、その末裔たる神皇陛下に」


 ──乾杯。

 この日初めて飲んだ葡萄酒の味は、なんだかとっても複雑だった。

 まろやかなのにぴりりと辛いような、焼けた豆を飲み込んでしまったかのような喉を通る感触と、その余韻として舌先に香り、鼻に突き抜けていく濃厚な葡萄の匂い。これは、まるで。


 甘酸っぱくて仄辛く、そして一度味わえば忘れがたい、恋の味だった。


「リリアーヌ、君に贈るものがある」

「……わたしに、ですか?」

「ああ。少しばかり地味なものかもしれないが……受け取ってほしい」


 スターク様は懐からなにかを取り出すと、わたしの手にそれを握らせる。

 掌の中に収まったそれは、ぼんやりと淡い光を放つ不思議な、魔力の鼓動を感じる青色の石だった。


「魂魄石、といってな。『暗闇の森』の奥地でしか産出されない、魔力の源になる石だ。宝石と比べれば見劣りしてしまうかもしれないが……君の錬金術に役立ててほしい」


 穏やかな光を帯びたそれからは、微かにスターク様の体温が感じられた。

 その事実にどぎまぎして心臓が早鐘を打つと、鼓動に相槌を打つかのように、魂魄石が静かに明滅する。

 宝石と比べると地味だ、とスターク様は仰っていたけれど、とんでもない。


「ありがとうございます、スターク様。最高の贈り物です」

「それはなによりだ、では今一度」

『乾杯』


 贈り物を受け取って、わたしは掲げた盃の縁と縁を軽くぶつけ合う。

 さながら、ベーゼを交わすように。

 優しく頬を撫でた春風が、祝福を囁くかのように吹き去っていく。頭巾の行方は、もう知る術もなかった。




◇◆◇




 頭巾を脱いで、髪を露わにするようになってから半年と少しが過ぎた。

 収穫期を迎えたウェスタリア神聖皇国は活気に満ち溢れ、秋の豊穣を祝った祭りが今も王都では行われているのだろう、と、テラスで秋風を肌に感じながらぼんやりと思う。

 スターク様に言われた通り、十六歳になってしばらくが過ぎている。一角の大人にはなったのかもしれないけど、正直なところ、実感はあまりない。


 わたしがこの城砦でやっていることはといえば、錬金術の研究に勤しんで、時折かすり傷を負って「暗闇の森」から帰還するスターク様を治療する傍らで言葉を交わしたり、四季折々の花を愛でたり、お茶会をしたり。

 要するに、いつもとあまり変わりなかった。

 だけど、日に日にスターク様のことをお慕いするこの気持ちは高まっていくから不思議なものだ。


 ピースレイヤー家に嫁いだばかりの頃の、枯れ枝みたいだった腕と比べて少しだけ肉付きが良くなった腕を見つめながら、ぼんやりとそんなことを考えていたときのことだった。


『伝令! 伝令! 王都からの伝令であるッ! 頼む、至急だ! 門を、開けてくれ……ッ!』


 正門の方でなにやら、切羽詰まった叫び声がする。王都からの伝令と言っていたけれど、声のトーンから察するに、あまり良い知らせではなさそうだった。

 ドレスの裾をつまみ上げて、わたしは肩口までで切り揃えていたのが、肩甲骨辺りまで伸びた髪を乱さないように、正門の方に駆け出していく。

 血相を変えたスターク様が、従者から「クラウ・ソラス」を受け取っている場面に出くわしたのは、その途中でのことだった。


「リリアーヌ、ちょうどよかった。君を今呼びにいくところだった」

「わたしも、スターク様を探しておりました」

「魔道具は持ったか?」

「はい、ポーションならば今日作ったものがいくつか手元に……!」

「用意がいいな……それはそうとリリアーヌ、少し失礼する!」


 クラウ・ソラスを背に負って、お姫様抱っこの格好でわたしを抱き上げたスターク様が駆け抜ける。

 嬉しいやらこんな緊急時に喜んでいる場合じゃないという感情やらで複雑な思いを抱きながらも、わたしはドレスの裾を押さえてスターク様に身を任せていた。


 そうして、お屋敷の前まで着く頃には、伝令を伝えにきたのであろう兵士の格好をした方が、息も絶え絶えになって倒れている姿が目に飛び込んでくる。

 その兵士を運んできたのであろう駐留騎士たちの鎧にも、べったりと血がついていて、もう助からないだろうとばかりに、一人は兜に覆われた頭を左右に振っていた。

 だけど。


「大丈夫です、この程度の傷であれば、わたしが癒せます……っ!」

「しかしながら奥様、彼は見ての通り瀕死で……」

「おい、新入り! リリアーヌ様は奇跡のような魔道具を作られる偉大な錬金術師なのだぞ! 黙って見ていろ!」

「は、はっ! 失礼いたしました!」


 まだここにきて日が浅いのであろう、頭を左右に振っていた騎士が、無数の傷が刻まれた鎧に身を包んでいたもう片方の騎士に嗜められて黙り込む。

 奇跡のような、は少し言い過ぎかもしれないけど、瀕死の状態であれば、生きてさえいるなら、わたしの作るポーションは治療できる。

 理屈はわからないけど、できることをやる。その精神でわたしは、瀕死になっている兵士の体にポーションを振りかけた。


「……お、おお……? 痛みが、引いて……」

「もう大丈夫です。しばらくは少しだけ痛むかもしれませんけど……」

「貴女が……私を? なんと……いや、じっとしているわけにはいきませぬ! 辺境伯様に伝令をお伝えせねば!」


 見る見るうちに傷口が塞がり、火傷と思われる水ぶくれが引いていった兵士は、自分の身に起きたことに困惑しながらも、任務を全うしようと跳ね起きる。


「……落ち着け。俺はここだ」

「は、はっ! 失礼いたしました、辺境伯様!」

「それで、王都からの伝令とはなんだ」


 ことと次第によっては急を要する、とスターク様は社交辞令で言っていたけれど、兵士の様子を見るに、恐らくなにか、尋常ではないことが王都に起きているのだろう。


「……聖女様の……『聖女の結界』が破られました……!」

「なに……?」

「そんな……っ……!」


 聖女の結界。それはウェスタリア神聖皇国を支える要石であり、王都とその一帯を魔物の侵入から防ぐために、「聖女」──今はきっと、マリアンヌの魔力で張られたものだ。

 魔物、とはいってもその辺りにいるような小さなものだけではなく、アンデッドの王から、果ては年老いたドラゴンすらも跳ね除けるほど強固なものだ。

 それでも「結界」を破ろうとする強力な魔物はあとを絶たない。


 だからこそ、ピースレイヤー領のように魔物の生息域、人跡未踏の地と接している辺境はその侵略を未然に防ぐために城塞を築いているのだ。

 だけど、いきなり「結界」の加護が一番手厚い王都の護りが破られたとなれば、それはもはや、天変地異に匹敵するといってもいいだろう。

 それほどのことが、今王都には起きているのだ。


「そうか……相手は何者だ? 全兵力を挙げて討伐隊を組ませよう」


 でも、例え「結界」が破られたとしても、王都にはピースレイヤー領に駐留している騎士たちと同じくらいか、それ以上に練度の高い騎士団がある。

 少しの間であれば、持ち堪えることはできるはずだろう。

 それが、わたしと、恐らくスターク様の見立てだった。


 ──だけど。


「あ、相手は……邪竜の王、イーヴェルです……伝説に謳われた、エンシェント・ドラゴンロード……本来であれば勇者様が討伐に向かったはずなのですが、音沙汰はなく……」


 がくがくと、恐怖に全身を震わせて、兵士はその名を口にする。

 邪竜王イーヴェル。その名を知らない人は、ウェスタリア神聖皇国には存在しない。

 今から大体二百年くらい前に、この国が存在する大陸であるセントスフィリア中央大陸より遥か北西に浮かぶ巨大な島、「魔の島」に、当時の勇者様とその仲間が命をかけて封じ込めた恐怖の象徴。


 戯れに国を呪いの炎で焼き払い、かつては豊かな自然の恵みに溢れていたという北方大陸ノースセンティアを雪と氷に覆われた不毛の大地に変えたとされる古竜の王がその一柱こそ、「封鎖大陸」イーヴェルの名の由来ともなった邪竜王だった。


「馬鹿な……その言葉が本当であれば、王都は!」

「か、かろうじて……かろうじて王都だけに『結界』を集中させることでなんとか持ち堪えてはいますが、恐らくあと二日ももたないでしょう……」


 それでも、スターク様なら、皇国最強の騎士であればあるいは、と、何万分の、何億分の一かの奇跡にかけて、王都から伝令は放たれたのだろう。

 だけど、遠すぎた。

 助けを求めるのに、ピースレイヤー領はあまりに王都ウェスタリアからかけ離れた場所にある。早馬を飛ばしたとしても、結構な日数がかかるほどに。


 それでもまだ国が滅んでいないという事実を考えれば、恐らく初手の初手で神皇陛下はその策に打って出たのだろう。

 皆が皆できる精一杯を尽くして王都に、この国が稼いだ猶予は、残り二日。

 あまりにも残酷すぎる現実に、アインハルト様も、エスティさんも、スターク様すら、この場にいる全員が打ちひしがれていた。


 最後の晩餐会を開くことぐらいはできるだろう、と、邪竜王の高笑いが聞こえてくるようだ。

 残り二日、たった二日。

 それしかわたしたちには残されていない。


 ──それでも。


 ぐっ、と拳を固めて、わたしは一歩前に歩み出た。


「あと二日……確かに二日、猶予はあるのですね?」

「はっ! 騎士様や我々兵士の誇りにかけて、それだけは確かだと言えます!」

「ならば、十分です」


 わたしの言葉に、正気か、とばかりにスターク様を除いて、この場に集まった人たちが目を見開く。

 そう、二日。これがあと一日であればわたしも絶望に打ちひしがれていたけれど、二日残されているのであれば、まだ希望は潰えていない。


「策はあるのか、リリアーヌ……!」

「はい、わたしの……わたしの錬金術で、必ず王都を救ってみせます! ですから力をお貸しください、スターク様!」


 わたしだけでは無理だ。

 あの邪竜王を倒すだけの力がわたしにはない。だけど、スターク様なら。

 皇国最強の騎士様であれば、可能性はあるはずだと、そう信じたかった。


「……わかった、君に命を預けよう。必要なものはなんだ?」

「オリハルコンです。悠久の時を経ても決して朽ちることのない、時の旅人とも呼ばれる金属……それさえあれば、理論上は王都まで一日も経たずに着くことができます」


 わたしが作ろうとしている魔道具、その一つは「刻の水門」と呼ばれる、念じた場所へ瞬間移動することができるものだった。

 だけど、その錬成にはどうしても、不壊にして悠久の金属を、オリハルコンを欠かすことはできない。

 もちろんそれが一朝一夕に用意できるようなものではないということはわかっていたけど──


「……オリハルコンか、ならば当てはある」

「本当ですか、スターク様!?」

「ああ……今は亡き母のティアラだ。勇猛な剣士として名を馳せた功績を讃えられて、神皇陛下から贈られたものがある。それを使ってくれ、リリアーヌ」


 そんな大事なものを、と一瞬舌先から言葉が滑り落ちそうになったけれど、今は一秒一刻を争う緊急事態だ。

 スターク様のご厚意と、お義母様と、この巡り合わせに感謝して、ありがたく錬成させていただくとしよう。

 オリハルコンが手に入るかどうかが一番の心配ではあったけど、それが解決したなら、あとは心配することはなにもない。


「アインハルト、リリアーヌが魔道具の準備をしている間に我々は邪竜王に対しての情報を可能な限り集める。書庫を開け放て! 知識ある者、明かりを持つ者は俺とリリアーヌに続け!」

『はっ!』


 スターク様の号令に続いて、使用人や駐留している騎士たちが応えて、我こそはと知識を持つ人が歩み出る。

 邪竜王イーヴェル。そう簡単に倒せるような相手じゃないことはわかっているけど。

 全力を尽くさなくちゃいけない。今のわたしにできる全てを使って、必ずこの国に、大好きな人が愛するこの地に勝利をもたらすのだ。




◇◆◇




 スターク様から託していただいたお義母様のティアラと、「暗闇の森」に棲まう魔物から取れる中でも最も純度が高い「蒼の魔石」、そして、部屋に飾られていた時計を素材にして、わたしは失敗することなく「刻の水門」を創り上げていた。

 今頃は、スターク様の指示でこの書庫から根こそぎ邪竜王にまつわる書物を運び出していった騎士たちが作戦会議をしている頃だろう。

 だけど、わたしにはもう一つだけやるべきことがあった。


「これを使って……」


 邪竜王に関する噂やお伽話の類でいいのなら、わたしも少しは聞いたことがあるし、錬金術の勉強で少し疲れたときにはここの書物を何冊か読んでいたこともある。

 曰く、本当か嘘かはわからないけれど、あまりにも強すぎる闇の力を纏う邪竜王は、近づくだけで並の人間を死に至らしめるほどの瘴気を身に纏っているらしい。

 そして、死を遂げた者をアンデッドとして自分の配下とする性質も。


 そのお話が本当なら、スターク様が並の人間ではないとはいえ、なんの加護もない状態で戦いを挑むのは危険すぎる。

 なにせ、相手は「聖女」の加護を得て戦う勇者様すらも討ち倒した古竜なのだから。

 だから、わたしが作らなければいけないのは。


 この家に嫁いでから、何度もお世話になってきた「新訳錬金術大全」のページをめくりながら、目当てのそれが載っている箇所を探し出す。

 分厚いという言葉が生ぬるいほどにページが嵩んでいる本だ、カテゴライズされているとはいえ、見つけ出すのはそう簡単なことじゃなかった。でも。

 目当てのページに辿り着いたわたしは、決意と共に素材を錬金釜の中に入れて、魔力を注ぐ。なによりも大事な、かけがえのないお方の顔を強く、脳裏に浮かばせながら。




◇◆◇




「ここを訪れたということは、邪竜王討伐のための勝利の鍵……それを創り上げたということでいいのだな、リリアーヌ」

「はい、スターク様。これが……念じた場所へと即座に移動することができる魔道具、『刻の水門』でございます」


 作戦会議室を訪れたわたしは、スターク様に促される形で、手にしていた「刻の水門」を──見た目としては、仄蒼く光る砂が入っているだけの砂時計を、円卓の上に置く。

 どんなものが出てくるのかと期待していた騎士たちの中には少なからず落胆の視線を向ける人もいたけれど、これは失敗なんかじゃない。

 それを証明するように、わたしは「刻の水門」を再び手に取ると、魔力を込めて砂時計をひっくり返す。


「おおっ……!?」


 一瞬で蒼い光の中に姿を消したわたしが、作戦会議室の反対側に現れるのを見て、消沈していた兵士たちも一転、驚愕しながらも希望に満ちた表情を取り戻していた。


「……このように、錬成は成功でございます」


 ドレスの裾を摘んで一礼するわたしに、歓声と、ウェスタリア神聖皇国の勝利を願う鬨の声が浴びせられる。


「よくやった。よくやってくれた、リリアーヌ……我々も作戦は固まったところだ、装備を整え次第、出立する」

「……恐れながら、スターク様。作戦とは……?」


 邪竜王イーヴェルは、正面から挑んで倒せるような相手ではない。

 大砲やバリスタをも容易く弾き返すその鱗を斬り裂けるのは、唯一、オリハルコンでできた聖剣だけだと、童話には謳われている。

 それが本当かどうかは確かめようがないけれど、勝算があるのならば、わたしも最大限に力を尽くすべく、スターク様へと問いかける。


「邪竜王イーヴェル……やつは二百年前にも現れ、そのときの勇者に一度『魔の島』へ封じ込められている。恐らくではあるが、まだその目覚めは不完全……手負いの状態であるというのが、竜の生態に詳しい者たちが下した結論だ」


 ──もっとも、生物としての枠を超えた生物であるエンシェント・ドラゴン……その王たる存在に、人間の定規が当てられるかはわからんが。


 スターク様は少しだけ物憂げな顔をして、眉間にシワを寄せる。

 確かに、お伽話が本当であるなら、伝承であるのなら、北方大陸を不毛の地に変えたかの邪竜王が、この世界でも随一の大国であるとはいえ、ウェスタリア神聖皇国を滅ぼすのに手間取ったりはしないはずだろう。

 だとしたら、希望はある。わたしはほっと、安堵に胸を撫で下ろした。


「そこで、俺が取るべき作戦は一つ……この聖剣『クラウ・ソラス』で伝承に謳われたように、二百年前の勇者が封印を施したときのように、あえてやつの逆鱗を穿ち、勝負を決するつもりだ」


 聖剣の傷跡は、魔の者にとっては耐え難い苦痛であると同時に、どれほどの時を経ても癒えることなく痛み続けるという。

 だとすれば、逆鱗に……最強種たる竜が持つ、唯一の弱点に二百年前の傷跡が刻まれているのならば、それを深く抉り、勝負を決するという作戦は決して無謀なものではない。

 一か八かには違いないけれど、確実に勝利の目がある一手だ。


 だから、わたしは。


「承知いたしました、スターク様。では……ささやかではございますが、どうかこの護石を受け取っていただけないでしょうか」

「これは……?」


 首に下げていた飾りを外して、わたしはスターク様へとそれを手渡す。

 困惑しながらも、ぼんやりと赤く──日緋色に輝くその護石を受け取って、スターク様は首を傾げる。


「それこそは、『魂の護り石』でございます。恥ずかしながら、わたしも『聖女』の家系に生まれた身……きっと、ほんの僅かではございますが、授けられるご加護があると信じて、作らせていただきました」


 魂の護り石。それは持ち主に術者が「加護」を与える、いわば「聖女の加護」を擬似的に再現するための魔道具だった。

 わたしは、初めから聖女になることを期待されてなどいなかったから、この身にどれほどの魔力が、聖なる力が流れているかはわからないけれど。

 それでも、少しでもお役に立てるのなら。勝利の一助となれるのならと信じて、全身全霊で加護を込めさせていただいたものだ。


「そうか、邪竜王の瘴気……ありがたい。感謝する、リリアーヌ」

「いえ……」

「それでは、その『刻の水門』を貸してはくれまいか」


 スターク様は「魂の護り石」を首に下げると、エスティさんにガントレットを着けてもらった左手で、わたしが抱えていた「刻の水門」を要求する。

 それは取りも直さず、スターク様が一人で、たった一人で戦地に向かわれるという意志の表れだった。

 円卓に広げられた地図には、答え合わせをするように青色の駒が一つ、王都ウェスタリアに配置され、残る駒は全て「暗闇の森」に集まっている。


「……っ……!」

「どうした、リリアーヌ。作戦は一刻を争うのだぞ」


 それは、理に適っている。

 どうせ、オリハルコン製である「クラウ・ソラス」以外は邪竜王に傷を負わせることができないのなら、イーヴェルの復活に呼応して凶暴化することが予想される魔物への防備にこの砦の全力を注ぐという作戦は。

 でも、一人。たった一人で、スターク様がかの古竜の王が一柱に挑まなければならないのなら、わたしは。


「……嫌で、ございます」

「なぜだ! この戦いは、ウェスタリア神聖皇国のみならず、人類の存亡がかかったものといってもよいのだぞ、リリアーヌ!」


 この家に嫁いで初めて、スターク様はわたしを怒鳴りつけた。

 だけどそれは、心の底から憂いと、優しさに溢れたもので、できることならこうしたくはなかったとばかりに、スターク様の表情には色濃く後悔が滲んでいる。

 ああ、本当に。こんなときまで、わたしなんかを慮ってくださって──だから。


「スターク様が王都に馳せ参じるのであれば、わたしも共に参ります……っ! 『魂の護り石』は加護を授けた者と近ければ近いほど、その力を発揮するものなのですから!」

「だが、それでは君を……! 俺は、君を危険に晒したくはない。失いたくはないのだ! わかってくれ、リリアーヌ!」

「それは、わたしも同じですっ!」


 いつになく、強く言い返してしまったわたしの声を聞いたスターク様は、驚いたように目を丸くする。

 ご無礼なことをしてしまったかもしれないと、後悔はしていた。

 だけど、わたしの舌先は止まることを知らずに、すらすらと思いの丈を、ふつふつと心の底から湧き上がる声を紡ぎ出してしまう。


「わたしは……っ……! わたしは、愛するお方を……ただ一人で死地に送り出すなど、とても堪えられません……! いつも、傷ついてお帰りになったとき、どれほどわたしが心配しているかを、スターク様はご存知ですか……? 嫌なのです、愛するお方を失うのは、わたしも! ですから! 例え死すときであっても、最期まで共にありたい! わたしは! わたしは……スターク・フォン・ピースレイヤー様の、妻なのですから!」


 ああ、言った。言ってしまった。

 わたしは今、なんと?

 ああ、そうだ。


 愛している、と。

 嬉しさを、幸せを、わたしに教えてくれた大切なお方に、ずっと捧げたかったこの気持ちの名前。それこそが、愛。

 例えこれが最期だとしても、その決断を躊躇うことなく隣にいたいという、想い。


「……リリアーヌ……」

「……ご無礼をお許しください、スターク様……ですが、このリリアーヌは、決して死すためだけに決意を言葉にしたのではありません」

「……わかった。聞こう、君の作戦を」


 涙を堪えて毅然と見据える視線に折れてくれたのか、納得してくれたのかはわからない。

 だけど、スターク様は確かに、わたしの言い分を聞き入れてくれていた。

 その寛大さに感謝しながら、再び「刻の水門」を手に取って、スターク様へと、思い描いていた勝利の鍵を、言葉の形で送り出した。


「……なるほど、その手があったか!」

「……どうでしょうか、スターク様……?」

「……君を危険に晒すかもしれない。だが、許してくれるか、リリアーヌ」

「もちろんです……! わたしは、どこまでも貴方について参ります、スターク様……」


 ぎゅっ、とわたしの拳を包み込んだ大きな掌に、戦士の手の感触に安堵と頼もしさを覚えながら、「刻の水門」をひっくり返す。

 出立のときだった。

 淡い燐光に包まれたわたしたちは、騎士たちの鬨の声を、激励を背に王都へと跳んでいく。


 遥かな距離を、僅かな刻で踏み越えて。




◇◆◇




『フハハハハ……無駄だ、人間ども……! 勇者亡き今、いかに聖女がいようとも、我を止めることはできぬ……自らもがき苦しむな……死は安息ぞ、フハハハハ……!』


 王都に飛んだわたしたちが感じたのは、身の毛もよだつような悍ましい瘴気の波動だった。

 これが、邪竜王。

 ただ遠くから、ウェスタリア城を押し潰そうとしているその威容を見ているだけでも、気がおかしくなってしまいそうだ。


 だけど、邪竜王はきっと一撃で地に臥せることになるだろう。

 ぎゅっ、と胸の前で拳を握りしめて、「魂の護り石」へとありったけの加護を、わたしが持てる全ての魔力を注ぎ込んでいく。

 どうか。願うように、乞うように、心の中で神様へとそう問いかける。


 わたしの人生は、奪われてばかりのものでした。幸せを、嬉しさを、人並みの生活を。そして今、愛する人と愛する国をも失いかけております。

 ですから、どうか見ていらっしゃるのなら、この体に流れる血へと祝福をお与えくださいませんか。

 わたしもまた、聖女の血を引く者なのだと、かの邪竜王を倒すための血が、この体には巡っていると、証明させてはいただけませんか。


 そう願った言葉は果たして天に届いたのか、「魂の護り石」が、一際大きく、曇天に覆われた空を貫くように赫々とした光を放つ。

 まるで、広がる鉛の空へと別れの言葉を突きつけるかのように。

 そして、スターク様が手にしている、白銀に輝く「クラウ・ソラス」の刃が、夜明けの色に、闇を切り裂く日緋色に染まっていく。


「この光は……リリアーヌ、君が……?」

「はい、スターク様……これが、わたしの加護と、祝福です。全てを、わたしが今捧げられる全てを、お誕生日にいただいた『魂魄石』を錬成したその護り石に込めさせていただきました」


 それこそが、わたしに返せる恩義だと信じて。

 そう信じて、あの日、錬金術に役立ててほしいという言葉と共に受け取った、生まれて初めての誕生日プレゼントを錬金術で、スターク様をお護りするエンチャント・アクセサリーに生まれ変わらせたのだ。


「そうか……ありがとう、リリアーヌ。今の俺は、いや……俺たちは、誰にも、何者にも負ける気がしない!」

「はい……っ! 参りましょう、スターク様!」


 作戦を完成させるための要素はあと一つ。

 日緋色に煌めく「クラウ・ソラス」が輝いていながらも呑気に構えているあの邪竜の王が、最後までわたしたちという存在を侮ってくれること。

 その驕りこそ、傲慢こそ、引導を渡す最後の条件。


 わたしは「刻の水門」へと手をかけて、邪竜王イーヴェルの逆鱗が存在する場所を──今も尚、抜けることなく、棘のように突き刺さったかつての聖剣が食い込んでいる一点を見つめる。


『む……? なんだ、この鬱陶しい光は……?』

「今だ、リリアーヌ!」

「はい!」


 イーヴェルがその魔眼をこっちに向けようとしたその瞬間、ウェスタリア城への攻撃が緩んだ一瞬を狙って、わたしは「刻の水門」をひっくり返した。

 跳ぶべき場所は、飛ぶべき場所はただ一つ。


 ──あの邪竜の逆鱗だ!


『なんだ、貴様らは何者だ、なぜここに……まさか──』

「邪竜に名乗る名はない! 討ち払え……天晴剣、『クラウ・ソラス・ヘリオース』!」


 スターク様が咆哮すると同時に全力で振り抜かれた日緋色の光を纏った剣閃が、杭を打つ要領で邪竜王の逆鱗に突き刺さった、二百年前の勇者様が抗った証である聖剣を体内へと押し込んでいく。

 数多の時を経ても朽ちることのないオリハルコンが共鳴し、イーヴェルの逆鱗へと、夜明けを纏う二振りの聖剣が突き立てられる。

 そして、王都ウェスタリアを覆う曇天を真っ二つに、そして邪竜王の首を胴体から断ち切り分かち、「クラウ・ソラス・ヘリオース」が放つ光の刃が完全に振り抜かれた。


『ば、馬鹿な……この余が! 悠久を生きる常闇の竜王たるこのイーヴェルが、このような小さき者どもにぃぃぃ……ッ……!』

「その小さき者を……人間を一度ならず二度も侮った、それが貴様の敗因だ、邪竜王イーヴェル!」

『お、おおおおおっ……! 我が体が朽ちてゆく……だが、逃すものか……人間の騎士よ、我が死と引き換えに、貴様には尽きぬ呪いを……』

「させませんっ!」

『オオオオオオオッ!!!!!』


 再び「刻の水門」をひっくり返して、わたしたちは崩れ落ち、灰に還っていく邪竜の王を一顧だにすることなく、瘴気が及ぶことのない場所へと一瞬で跳ぶ。


「これで終わりか……」

「はい……終わりです、きっと……」

「本当に……君の錬金術は、人を幸せにするためのものだな。俺の不幸のみならず、この国をも救ったのだから」


 わたしを抱きかかえて、石畳に降り立ったスターク様がふっ、と小さく笑う。

 それに応えるように、わたしもまた、微笑みを返す。

 ああ、本当に。本当に、乗り越えられたんだ、わたしたちは。


 本能的に身を寄せ合って、ウェスタリア城をも握り潰そうとしていたその巨体が朽ちゆく姿を見届けるわたしたちを、さながら祝福するかのように、斬り裂かれた曇天の隙間からは、天使の梯子がそっと差し込んでいた。

 抱き合ったぬくもりと、生きている喜びを噛み締めながら、わたしは嬉し涙をこぼしてしまわないように、そっとスターク様の胸に顔を埋める。

 そして、なにも言わずにスターク様は、わたしの髪を。「日緋色」と、「夜明けの色」と褒めてくださった髪を、そっと撫でてくださったのだ。




◇◆◇




「スターク・フォン・ピースレイヤー。ならびにリリアーヌ・エル・ピースレイヤー。此度の活躍、誠に見事なものであった、大儀である」


 邪竜王イーヴェルの討伐から一週間、王都の復興や怪我をした人、呪いを受けてしまった人の治療を終えたわたしとスターク様は、ウェスタリアの城、その謁見の間へと直々に招かれていた。

 玉座に厳かな面持ちで腰掛けている、白金色の髪と瞳を持つ年若いお方──その頭上に王冠を戴いていることからもわかるように、そのお方こそが、このウェスタリア神聖皇国を統治する、神皇陛下だ。

 ウェスタリアの一族は神の末裔であり、無二の白金色をした髪と瞳こそがその証明。歳はスターク様とそう違わなくとも、玉座から迸る威厳は、わたしをがちがちに緊張させるには十分すぎた。


「いえ、陛下……恐れながら申し上げます」

「許可しよう、スターク」

「わたくしはあの邪竜めにとどめの一撃を放ったにすぎません。全ては……我が妻、リリアーヌの機転と錬金術、そして加護があったおかげでございます」


 首に下げていた「魂の護り石」を陛下に捧げて、スターク様は恭しく跪く。

 わたしもそれに倣う形で、神皇陛下に跪き、最も深い敬意を表す礼をする。

 陛下は、ふむ、と小さく頷くと、「魂の護り石」を側に控えていた大臣に預けて、どこまでも厳かに口を開く。


「其方の言い分は理解した。リリアーヌ、面を上げよ」

「……は、はい……っ……!」

「スタークの申すことは、まことであるか?」


 嘘を言っているのなら、この場で首を斬り捨てるとばかりに冷たく、試すように陛下は仰る。

 スターク様が謙遜しすぎているところはあるけれど、起きた事実だけを抜き出してみれば、確かにそうなるのだろうか。

 わたしに機転があったとは思わないけど……それでも、スターク様が仰るのなら、それを信じて、首を縦に振る。


「はい、事実に相違ございません。天地神明にかけて」

「そうか……しかし、錬金術と申したか。余も存在を知ってこそいたが、途絶えた古の秘術をこの世に甦らせるとは、まこと、愉快なものよ」


 ははは、と、陛下はそのお言葉通り、大臣から再び「魂の護り石」を受け取って摘み上げると、上機嫌そうに笑みを浮かべていらした。


「面を上げよ、スターク。リリアーヌ。此度の国難を乗り越えられたのは、ひとえに其方ら夫婦の活躍があってこそだ……そこで、余から褒美を与える」

「お待ちください、神皇陛下!」


 陛下のお言葉を遮って立ち上がったのは、わたしたちの傍に控えていた「聖女」……マリアンヌだった。

 神皇陛下のお言葉を遮ることは、普通であれば許されない。だけど、この国で陛下の次に地位が高い、諫言役としての立場も兼ねている「聖女」は別だ。

 マリアンヌは激昂にその柳眉を吊り上げて、納得がいかないとばかりにわたしたちの前に立ちはだかる。


「此度、王都が陥落しなかったのはこのわたくしの……聖女の『結界』を集中させていたからでございます! そこの出来損ないは、赤毛を持って生まれた貴族の恥晒しは、ただ美味しいところだけを持っていっただけに過ぎません!」


 その発言に怒るよりも先に、うわあ、と、わたしは恐怖に慄いていた。

 絶対に「聖女」の立場でなければ言えないことだ。首が五、六個飛んでいたとしてもおかしくはないし、下手をしなくても一族郎党、皆断頭台にかけられるくらいには、礼を失した発言だ。

 とてもじゃないけど、そんな口を叩く度胸なんて、わたしは持ち合わせていない。


「……言葉を慎め、マリアンヌ」

「ですが!」

「余は言葉を慎め、と言ったのだ。其方が加護を与えた勇者は死した、確かに王都を守り抜いた功績……それだけは余も忘れておらん。だが、そのためにいくらの民を犠牲にしたか、わからぬ立場ではあるまい」


 王都に「結界」を集中させるということは、普段は国全体を覆っている護りを切り捨てるということでもある。

 魔物の侵略を跳ね除ける聖女の加護を、「護り」を失った街や村が、自力で生き残る力を持っていなければ、その結末は容易く想像できることだろう。

 厳しくも、この国の民を愛する陛下の忠告ではあったけれど、マリアンヌはそれすら気に食わないとばかりに食ってかかる。


「民がどうしたというのですか! この私の……『聖女』の加護があってこそ成り立っているのがこの国ではありませんこと!? 私の加護がなければ、この私がいなければ! この国は民草諸共滅んでいたことは明白です!」


 口角泡を散らして喚き立てたところで、ようやく自分の失言……そんな言葉ですら生ぬるいほどの暴言に気づいたのか、マリアンヌはさあっと顔を青くしていた。

 だけど、全てはもう遅い。

 神王陛下は研ぎ澄まされた刃のような、凍てつく、鋭い視線をマリアンヌへと向けて、厳かに言い放つ。


「……余は、貴様という人間を買い被っていたようだ。よもや、この余を侮辱するだけではなく、余の民をも貶めるその言葉……取り消せるとは思わぬことだ」

「……っ、ですが! ですが、私は、聖女です!」


 あとに引けなくなったのか、マリアンヌは豊かな胸に手を当てて、陛下にどこまでも食ってかかる。

 もうやめて、と、そう願っても、決して私の思いは届くことはないのだろう。

 訪れる結末を脳裏に描いて、唇をきゅっと噛み締める。


「ああ……そうであったな、今このときまでは」

「……は……?」

「……マリアンヌ・エル・ヴィーンゴールド。其方は『聖女』に相応しくない。その立場と権力に溺れ、本義を捨てた聖女など、ウェスタリア神聖皇国には不要だ」


 一切の容赦なく、陛下はマリアンヌの主張を切って捨てる。

 そこに、慈悲という言葉は欠片もなく、例え「聖女」であったとしてもその一線を踏み越えた人間は決して許さないという、陛下のお怒りが見て取れた。

 ああ、どうして。どうして、マリアンヌ。


 心の中で嘆いても、声は決して届かない。

 ううん、例えわたしが言葉にしたとしても。

 それほどまでに、マリアンヌは。妹は。


「お、お戯れを……! な……ならば、私がいなくなれば、この国を支える柱たる『聖女』はどうなるのですか!」

「黙れ、下郎めが!」

「ひっ……!」

「次の『聖女』ならば決まっておる。それは……リリアーヌ・エル・ピースレイヤーだ」


 突然告げられたその言葉に、わたしは拝礼をしたまま目を白黒させることしかできなかった。

 どうして、なんで。なんでわたしが、「聖女」なんて恐れ多い役職を拝命できるのか。

 ちらりと目配せをすると、スターク様はふっ、と小さく口元に苦笑を浮かべるばかりで、意地悪しかしてくれない。


「聞け! 余はここに神皇の名をもって宣言する! 次代を担う『聖女』にはリリアーヌ・エル・ピースレイヤーを! その護りを担う聖騎士たる『勇者』には、スターク・フォン・ピースレイヤーを任命する!」


 神皇陛下の宣言に、わあ、っと、観衆たちから歓声と拍手が上がり、侍従たちが事前に用意していたのであろう花びらを、吹雪のように散らす。


「そして同時に罰を言い渡す! 先代聖女、マリアンヌ・エル・ヴィーンゴールド……いや、マリアンヌ! 貴様からは聖女の位を剥奪し、極めて傲慢たる娘を育て上げたその両親と侍従たちには極刑を下す!」

「あ、ああ……っ……いやああああああっ!!!」


 マリアンヌは膝から崩れ落ちると、そこに水溜りを作り上げてがくがくと震え出した。

 もう、わたしにはどうすることもできない。

 ただ、もしも。もしもなにかが違っていたのなら……こんなことにはならなかったのかな、と、もしもを想うことばかりだ。


「だが、マリアンヌ。余はただ一つ、貴様がこの国を守り抜いた恩を忘れてはおらぬ」

「し、神皇……陛下……」

「それに免じて、貴様の刑を減免する。罪人マリアンヌ! 貴様には流刑を言い渡す!」

「いやあああああっ!!! 私は、私は罪人なんかじゃない!!! 聖女なの!!! 聖女がいい!!! どうしてあんな出来損ないなんかにぃぃぃ!!!!!」

「そこの罪人を引っ立てよ! 不愉快極まる!」

『はっ!』


 狂乱するマリアンヌの両腕を取り押さえて、兵士たちが引きずっていく。

 ああ、お父様。お母様。マリアンヌ。

 どうして、こんなことに。


 嘆くわたしを嗜めるように、スターク様が目を伏せ、小さく首を左右に振った。

 君は悪くない、と、そう赦しを与えるように。

 本当にそうなのだろうかと思う。それでも、わたしは。わたしが信じるのは、スターク様だと決めているから。


「面を上げよ、新たなる聖女と勇者よ」

『はっ!』

「うむ……其方らはこの国の新たなる礎だ。邪竜の王をも退けたその武勇は素晴らしい。天晴れだ。だが、国のため、民のために命を捧げる高潔と覚悟……それをゆめゆめ忘れるでないぞ」

『光栄にございます、神皇陛下!』


 わたしたちは声を揃えて、決まってしまったその肩書きを拝命する。

 正直なところなにがなにやら、という感じではあったし、スターク様が隣にいなければきっとわたしは取り乱していたけれど。


 ──マリアンヌ。お父様、お母様。


 わたしは、望まれて生まれた子ではなかったのかもしれません。ですが、十五まで育てていただいた恩だけは、決して忘れません。

 胸の中でそれだけを別れの言葉として、謁見の間どころか、城内に響き渡るほどの歓声に、手を振り、笑顔で応えてみせた。

 それが、きっと「聖女」の最初のお務めだから。


「さて……ところで其方らはまだ婚儀を結んで一年しか経っておらぬのだったな」

「恐れながら、仰る通りでございます。神王陛下」

「式は挙げたのか?」

「いえ……まだでございます、神皇陛下」


 突如として、からかうような口調で問いかけてくる神皇陛下に困惑しながらも、わたしたちはそのお言葉を首肯する。

 すると、陛下は。


「そうか……ならば再び余の名において宣言する! 我がウェスタリア神聖皇国は、新たなる聖女と勇者の婚礼の儀を、国を挙げて執り行うと!」

『万歳! 神皇陛下万歳! 聖女様、勇者様、万歳!』


 割れんばかりのシュプレヒコールが王城に響き渡り、花びらと紙吹雪が無数に乱れ舞う。

 祝福を受けているはずのわたしたちを置き去りにして、なんだか事態はどんどん、雪だるまのように膨れ上がっていく。


「す、スターク様……」

「……神皇陛下のありがたきお心遣いだ、褒美として受け取ろう、リリアーヌ」


 ご褒美が、国を挙げた結婚式だなんて、わたしにはスケールが大きすぎてとても想像できなかったけれど。

 今はただ、スターク様の観念したような笑顔につられてわたしも口元を綻ばせ、観衆に手を振りながら謁見の間をあとにする。

 全部が全部、幸せなことばかりじゃなかった。でも。


 きっとその幸も不幸も含めての報いなのだろうと、わたしは胸にそう刻み込んだ。




◇◆◇




「……やはり、こうして二人きりでいるときが一番落ち着くな」

「はい……あの結婚式は、なんだか祝われているはずなのに肩身が狭い思いでした」


 国を挙げた結婚式から三日、ピースレイヤー領にようやく帰還できたわたしたちは、中庭のテラスでティータイムを楽しんでいた。

 たくさんのご馳走に、目も眩むような献上品の数々は、思い返せば豪奢でこそあったし、それをいただけるのも光栄でこそあったけれど、やっぱりどこか、身の丈に合わない心地がして。

 こうして、エスティさんたちが作ってくれたショートケーキと紅茶をささやかに楽しむのが、やっぱりわたしたちにはお似合いのようだった。


「だが、一つの区切りになったのは確かだろう」

「はい……ようやく夫婦になれたような、そんな心地がします」


 思えば、わたしがピースレイヤーの家に嫁いできたきっかけは、色々散々なものだったっけ。

 でも。


「……スターク様、わたし……貴方の元に嫁ぐことができて、貴方の妻になれて、本当に幸せです」

「……もったいない言葉だ、俺は君に助けられてばかりだからな」

「もったいなくなんかないです、受け取ってもらえない方が傷ついてしまいます」

「……ふっ、そうだな」


 かつて言われたことをそのまま返すと、勘弁してくれとばかりにスターク様は肩を竦める。


「ならば一つ、君の伴侶らしいことをさせてはくれないか、リリアーヌ」

「……な、なんでしょう……?」

「リリアーヌ……いや、我が最愛の妻、リリア。これからは、君をそう呼ばせてくれないか」


 リリア。

 ただ、名前を縮めて呼んでいるだけなのに、なんだかとってもあたたかくて甘酸っぱい想いが、胸の中から溢れ出さんばかりの勢いで込み上げてきて。

 じわり、と、涙が滲んでしまう。ああ、きっとようやく。


 ようやくわたしは、このお方に出会えて……スターク様に見初めていただいて、初めてこの世に産まれることができたのだ。


「スターク様……わがままを一つだけ言っても、いいでしょうか?」

「いくらでも構わない」

「……ありがとうございます。では……もう一度。リリア、と。そう呼んで、くださいますか?」


 そう願って差し伸べた手の甲に口づけてから、スターク様はわたしの瞳を覗き込み、大きく頷く。


「リリア。何度でもその名を呼ぼう」

「スターク、様……」

「愛している、リリア」

「わたしもです……スターク様……」


 そして、わたしたちは二度目のベーゼを交わす。

 初めてのベーゼと同じで、ショートケーキの味がする、とっても甘くて、少しだけ酸っぱい、恋と愛の味を、舌先でなぞり合うように。

 いつまでもこの恋が、愛が、続いていくことを願いながら。

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愛を知らない「頭巾被り」の令嬢は最強の騎士、「氷の辺境伯」に溺愛される 守次 奏 @kanade_mrtg

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