第5話
「出てきなさい、千佳ぁ!」
京子は逃げた千佳の姿を追っていた。
その手にはゴルフクラブが握られている。
和男が玄関の近くに置きっぱなしにしていたものだ。
クラブの先端でコツコツと床を叩きながら、京子は千佳を探した。
逃げるあの子が悪いのだ。
多少の"しつけ"が必要だろう。
そうして京子が千佳を探し回っている間も、あの歌はずっと鳴り響き続けていた。
隣の部屋から、天井から、至るとこから、沢山の声が歌いかけてくる。
「これはジャックのたてた家♪
これはジャックのたてた家に住む千佳♪
これはジャックのたてた家に住む千佳を叩いたおばあちゃん♪
これはジャックのたてた家に住む千佳を叩いたおばあちゃんの口を塞いだママ♪
これはジャックのたてた家に住む千佳を叩いたおばあちゃんの口を塞いだママを脅したおばちゃん♪
これはジャックのたてた家に住む千佳を叩いたおばあちゃんの口を塞いだママを脅したおばちゃんを殺したママ♪ 殺したママ♪ 殺したママ♪ 殺したママ♪」
「……やめなさい。やめなさい、千佳ぁっ!」
右手のゴルフクラブを振りかぶり、京子はリビングの椅子を叩き壊した。
飛び散った木片が、京子の顔に飛ぶ。
尖った一片が頬を擦り、そこから赤い血が滲む。真っ赤に染まった頬を拭いもしないまま、京子は滅茶滅茶にゴルフクラブを振り回した。
身体の内側から湧き上がってくる衝動を抑える事が出来なかった。
何かが壊れ、崩れていく様を見ていないと頭が割れてしまいそうだった。
頭上から、タタタッと軽い足音がした。
千佳だ。
二階に逃げたのか。
ひしゃげたゴルフクラブを引きずりながら、京子は二階へと続く階段を登る。
「千佳、早く出てきなさぁい……」
暗い廊下。
千佳の姿はない。
けれど、あの歌は響き続けている。
京子が人を殺したという事実を、軽快なリズムで歌い続けている。
「……歌うのを、やめろって言ってるのよおおおッ!」
そう絶叫し、京子は床にゴルフクラブを叩きつけた。
ゴッ、という音に反応するように、近くの部屋から人の声のようなものが聞こえる。
ヒュッと小さく息を呑む声。
千佳だ。
京子は赤い頬を歪ませてニタリと笑った。
「そこにいたのね」
ドアノブに触れ、ガチャと扉を開いた。
部屋の奥、窓の近くで身を隠すようにして千佳がしゃがみ込んでいる。
「……歌を、やめなさい」
京子は、諭すように語りかけた。
あくまでも冷静に。
怒っているのではない。
これは"しつけ"なのだから。
「……うるさくしないで。変な事を言わないで。これ以上、ママを困らせないで」
一つ話すごとに、手に持ったゴルフクラブがコン、コンと床を打つ。そのリズムが少しずつ早くなる。リズムに比例して、京子の放つ言葉の語気も強くなっていく。
「逃げないで。怒らないで。叩かないで。噛まないで。引っ掻かないで。暴れないで。叫ばないで。物を投げないで。食べ物をひっくり返さないで。ひどい事を、言わないで!」
ゴンッ、と一際大きな音で床を鳴らすと、目の前にいる千佳が肩を大きく震わせた。
いつもベッドの上で傍若無人に振舞って。粗を探して、文句ばかりつけて。たまにはそうやって惨めに震えて、自分の行いを省みればいい。
京子はそう思いながら、千佳の震える肩へとゆっくりと手を伸ばした。
己の考えが根本的にズレている事に、京子は気が付いていない。
口から出る言葉は、いつしか千佳への叱責ではなく、亡くなった百恵に対して抱いていた鬱憤に変化していた。己の抑え切れない感情が、誰に向けられていたのかも、京子の中では最早判然としていない。
俯いていた千佳がゆっくりと顔を上げる。
ヒック、と喉をしゃくりあげる声が聞こえた。
涙と鼻水でグシャグシャになった顔で、絞り出すように千佳はその一言を口にした。
「……ママ」
か細い声だった。
その肩を掴もうとしていた京子の左腕が、ピタリと止まった。
何かがおかしい。
あの歌は、今も耳元で聞こえ続けている。
けれど、千佳は目の前で泣いている。
震えながら、自分を呼んでいる。
これを歌っているのは、千佳じゃない。
「これはジャックのたてた家に住む千佳を叩いたおばあちゃんの口を塞いだママを脅したおばちゃんを殺したママが殺す千佳♪ 殺す千佳♪ 殺す千佳♪」
楽しげにリズムを刻むその歌声は、家中から聴こえている。
京子の背中に、冷たい汗が伝った。
その瞬間、右手に掴んでいたグルフクラブの重みを、急にズシリと感じた。
私は今、何をしようとしていた?
怯えている千佳。
感情に任せて荒らしまわった室内。
ひしゃげたゴルフクラブ。
娘の身体を鷲掴みにしようとしている自分の左腕。
まさか、殺そうとしていたのか。
百恵や、恵梨香の時と同じように。
何より大切な、千佳を。
その瞬間、ずっと聞こえていたあの童謡が急にシンと鳴り止んだ。
そして、誰かが耳元で囁いた。
「なんだよ、早く殺せよ」
京子の全身が粟立った。
何かがいる。
この家には、得体の知れない何かがいる。
途端、京子の身体が周囲から強く引っ張られた。驚いて視線をやったが、そこには何も見えない。しかし、無数の手が纏わりついているような感覚がある。
「……イヤだ、ママ!」
蹲っていた千佳が、京子の腕を両手で掴む。泣きべそのまま必死に踏ん張っている。
見えない無数の手に対し、千佳はたった一人で、母親を渡すものかと抗っていた。
「……千佳!」
京子は左腕を伸ばし、千佳のいる方へ身体を寄せようとした。
しかし、ビクとも動かない。
ふと足元に目をやると、そこに纏わりつく人影のような靄が見えた。
義母の百恵。義姉の恵梨香。
死んだはずの二人が、そこにいた。
折り重なるように身体をくねらせた二人の眼窩は、暗く落ち窪んでいる。
それはもう、この世のものではない。
そして京子は理解した。
自分はもう、逃れられない。
そう考えた瞬間、纏わりついていた何かが京子の中にズブズブと入り込んできた。
耐え難い感覚だった。
己という存在を四方から啜られ、嬲られているような苦痛。
朦朧とする意識の中、京子は自らの左腕に必死にしがみつく千佳の姿を見た。
京子に纏わりついているドス黒い靄が、千佳にまで食指を伸ばしていく。
「ダメッ……千佳っ!」
京子は、左腕に渾身の力を込めて、しがみついていた千佳を振り払った。
「逃げなさい、千佳!」
「イヤだ、ママぁ……」
「……お願いよ、千佳。ママからのお願い。大丈夫。ちゃんと、後で会えるから。ね?」
苦痛の中で精一杯の微笑みを浮かべ、京子は千佳に語りかけた。
「行って。お願い」
その声が千佳に届いたのか、もう京子には判断がつかない。
既に視界は黒い靄で覆われ、何も見ることは叶わなかった。
闇の中で、床を蹴る音が遠ざかっていくのが聴こえた。
千佳がこの場所を離れたのだ。
薄れゆく意識の中、京子は僅かな安堵を抱いた。同時に、一筋の涙がこぼれた。
「ゴメンね、千佳……」
一言、そう呟いた。
そして二村京子という一個の存在は、この世界から消えた。
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