第4話

「率直に聞くわ。あなた、お母さんの事を虐待していたでしょう」


 百恵の葬式を終えて一ヶ月が経とうという頃、恵梨香は前触れもなく京子達の住む家を訪れた。書斎のテーブルに叩きつけられたのは、一枚の手紙だった。

 百恵の直筆と思わしきその手紙は、恵梨香の元へ郵送されていたようだった。


「な、何を……」


「あなたのやったこと、全部ここに書いてある。スプーンを喉の奥まで差し込まれた。熱いスープを身体にかけられた。見えない所を何度もつねられた、って」


「ち、違います! お義母さんは、認知の症状が進行していて……」


「全部お母さんの被害妄想、とでも言いたいの? 盗人猛々しいとはこの事ね。お母さんの遺体、火傷の痕がいくつもあったらしいじゃない。証拠は揃っているのよ」


 百恵は、スープの温度が低いと烈火の如く激昂する人だった。それなのに、熱いスープを用意した時に限ってベッドの上で暴れる。そうしていくつもの火傷ができた。

 けして京子が狙ってそうした訳ではない。


「死因の窒息死だって怪しいものね。痰が詰まったって話だけど……あなたが口を塞いで殺したんじゃないの?」


「なっ……」


 狼狽する京子を前に、恵梨香はフンと鼻を鳴らした。


「まぁいいわ。あんな母親がどう死のうが、私には関係ないもの。必要なのは、あの人が残したお金よ」


 恵梨香はタバコを取り出し、それに火をつけた。白煙が書斎の中に充満する。


「……今すぐ必要なの。事実を明かされたくなかったら、今ここに通帳と印鑑を持ってきなさい」


「そんな、私は虐待なんて……。それに、遺産なら恵梨香さんも相続されているじゃないですか」


「あんな金額じゃ足りないの。あの人はいつも和男ばっかり贔屓して。死んだ後まで、遺言で露骨に指示して……」


 恵梨香は苦虫を潰すように顔を歪めた。


「いいから早く通帳を出しなさい。事実がどうであれ、母さんの手紙はこちらにあるのよ。社会的に信用のある私と、この家に嫁いだだけのあなた。どちらが信じてもらえるかしらね」


 恵梨香は京子の顔に煙を吹きかけた。

 京子は奥歯をグッと噛み締め、書斎を後にする。


「そうそう、初めからそうやって素直に持って来ればいいのよ」


 廊下に出た京子の視界は白黒と瞬いていた。

 頭の奥の方がキューっと締まっていくような感覚がして、世界が遠くなっていく。

 気がつくと京子は、廊下に飾ってあった陶器の花瓶を握りしめていた。

 素早い足取りで板張りの廊下を歩く。開いた窓を向き、煙を吹かしている恵梨香の後頭部を目掛けて、腕を大きく振りかぶった。

 ガチャンッ、と大きな音がして花瓶は割れた。

 恵梨香の身体は、ゆっくりと書斎の床に倒れていった。


「ああああああっ!」


 気がつくと、京子は大声で叫んでいた。

 恵梨香の頭を目掛け、何度も右手を振り下ろした。その手には、咄嗟に掴んだ灰皿が握られていた。卓上にあったものだ。赤い口紅の付着した煙草が、床の上にこぼれおちた。

 自分の親の介護まで、人に任せきりだったくせに、なんて厚かましい女。

 クソ女。クソ女。クソ女。

 ゴッ、ゴッと鈍い音が続いた。

 痙攣していた恵梨香の身体は、いつの間にか動かなくなっていた。

 夕陽が差し込んだ書斎の床に、血で濡れた灰皿が転がった。

 ハァハァと短く切れる自分の荒い吐息が、やけにうるさく聴こえた。

 やがて熱が冷めた時、京子の身体はガタガタと震え始めた。

 膝を抱えるように床にペタンと座り、深く頭を抱える。

 まただ。

 また、やってしまった。

 そんなつもりは無かったのに。

 京子は自分の掌を広げて見つめた。

 生々しい死の感触が、今でもそこに残っている。

 あの日、暴れていた百恵の指が偶然に京子の眼球に触れ、鋭い痛みが走った。

 その時、京子の中にあった何かがプツンと切れた。

 カッとなった瞬間、京子はすぐ側にあった枕を無意識に掴んでいた。

 百恵の顔に枕を被せ、力を強く込めた。

 枯れ木のような身体がバタバタとはためき、そしてゆっくりと動かなくなっていった。

 京子は、その様子をじっと見つめていた。

 明らかな愉悦を感じながら。

 まるで、どこか遠くから眺めているような、不思議な感覚だった。

 そうして訪れた百恵の死は、偶然にも事故として処理された。

 京子は、許されたのだと思った。

 これまで必死に耐えてきた自分の行いを、神様が許してくれたのだと。

 けれど、そうではなかった。

 こうして恵梨香が現れてしまった。

 事切れた恵梨香の身体を前にして、京子はゆっくりと立ち上がる。

 どこかに隠さなければ。

 死体を捨てにいくのなら、深夜がいい。

 秩父の山の中なら、朝までに帰ってくることも出来るだろう。

 動揺する心と裏腹に、京子の頭はこれからどうすべきかを冷静に考えていた。

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