第2話
木曜日の午後、和男が久しぶりに自宅に帰ってきた。
襟までノリの効いたワイシャツを着こなしている。
出会った頃は、身だしなみに気を使う几帳面な男だと思っていた。
けれど、今となればそれが違う事がわかる。
和男は身の回りの世話を、いつも周りの女性にやらせている。結婚前は交際していた女に。結婚してからは京子に。自宅に居付かなくなってからは、外に作った浮気相手にそれをさせ、見栄えの良い男で居続けている。
「あれ、千佳は居ないんだ」
玄関に革靴を脱ぎ散らかした和男は、ただいまも言わずに家の中を見てまわり、リビングのソファに腰を下ろした。
「……まだ学校。あと少ししたら帰ってくるから」
「そう。ね、なんか飲み物もらえないかな。暑くて喉がカラカラでさ」
そういって和男は微笑んだ。
白々しい、と京子は思った。
母を見捨て、妻を見捨てた癖に、こうしてたまに帰ってきては家族のような顔をする。もうとっくに壊れてしまっているものを取り繕おうとする。そんな和男に騙され、結婚までしてしまった自分の浅はかさに、京子はいつもやるせない気持ちになった。
げんなりしながらグラスに注いだ麦茶を手渡すと、和男は「僕、烏龍茶の方が好きなんだけど」などと言いながら、それを飲み干した。
「……何の用?」
「何って……僕は僕の建てた家に帰ってきただけだよ。久々に千佳の顔も見たかったし」
和男は中身が空になったグラスを京子の方に突き出した。片付けておけ、という意味だ。京子は小さくため息を吐きながらそれを受け取った。
「……この前、あの子の学校で父親参観の授業があったんだよ。私、あなたに伝えたよね。どうして来なかったの?」
「あれ、そんなのあったっけ? 忘れてたな。千佳に謝らないとだ」
あっけらかんと応える和男の調子が、京子の苛立ちを増幅させた。
何を言っても響きはしない。結局のところ、この男が優先するのはいつだって自分の都合なのだ。京子はキッチンに立ち、シンクの蛇口を捻った。グラスを洗っていると、ソファに座っていた和男がクルリと振り返った。
「あ、そうだ。最近、うちの姉さんから連絡とか無かった?」
グラスを磨く京子の手がピタと止まる。
「……どうして?」
「なんか、数日前から出勤していないみたいなんだよね。職場の方から連絡があって」
大変だ、と言わんばかりに和男は肩をすくめ大きな溜め息をついた。
和男の姉である恵梨香は、都内で小さなデザイン事務所を経営している。
先日の葬式の時もパリッとした喪服で現れ、さめざめと泣いていた。
百恵が患って介護が必要になった時にはほとんど見舞いにも来なかったのに。
「……知らない。電話とかも無かったけど」
努めて平静に、京子はそう答えた。
大丈夫だ。
知られた訳じゃない。
この男が、気づく筈はない。
この家にさしたる興味も持ち合わせていないのだから。
バクバクと鳴り始めた京子の心臓の鼓動に気づく訳もなく、和男は「そうだよなぁ。姉さんと京子って、そんなに仲良い訳でもないもんな」と言って、正面に向き直った。
リモコンを手に取り、テレビの電源をつける。
画面の中、ワイドショーでは、コメンテーターが知らない芸能人の不倫を糾弾している。
キッチンに立つ京子の背中に、冷たい汗が伝った。
ガチャ、と扉が開く音がした。
「ただいまぁ」
玄関の方から声がする。
千佳が学校から帰ってきたのだ。
「おっ、お姫様のお帰りだ」
そういって和男は立ち上がり、玄関へ悠々と歩いていった。
京子はその背中をじっと見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます