ジャックのたてた家

エビハラ

第1話

 東の空に淡い光が滲み始めていた。

 埼玉県の郊外。展望の良い住宅地の一画に京子の住む家があった。二階建ての戸建住宅。表札には「二村」の姓が記されている。

 駐車場に車をとめた京子は、なるべく音を立てないように玄関の扉を開けた。

 家の中では、まだ娘が眠っている。

 玄関に腰を下ろし、靴底に付着した土を落としていると、寝室の方から小さな歌が聴こえてきた。

 舌足らずな声は、調子外れの音で小気味良いリズムを刻んでいる。

 七歳になる娘の千佳だ。

 普段なら寝ているはずの時間だった。

 聴こえてくる歌には、覚えがあった。

 姑の百恵が、孫の千佳に熱心に教え込んでいた歌だ。


「これはジャックのたてた家……

 これはジャックのたてた家に撒いた麦芽…」


 最初の歌詞を繰り返しながら言葉を足し、それを何度も続けて雪だるま式にフレーズを増やしていく。イギリスに古くから伝わる童謡なのだという。

 京子はそんな歌がある事を知らなかった。

 夫の和男が育った二村家と、京子の育った家とでは、環境がまるで異なる。

 京子がそれをはっきりと思い知ったのは、まだ千佳の首も据わっていない頃だった。

 連日の夜泣きで寝不足が続いていた京子は、息抜きに好きな音楽を聴こうと考えた。

 千佳を抱っこしたままスマホを操作して、お気に入りプレイリストを再生した。子供を産んでからというもの、気の休まる暇もなかった。ほんの少し、気晴らしがしたかったのだ。

 けれど、その試みはすぐに阻まれた。

 音楽を流し始めてものの数分。ものすごい剣幕で部屋に入り込んできた姑の百恵に、スマホをむしり取られた。画面をぎこちなく操作して音楽を止めた百恵は、眉を顰めて京子を睨みつけた。


「こんな音楽を聴かせて、千佳の教育に良くない影響があったらどうするの!」


 それから一週間、京子のスマホは百恵に取られたままだった。

 学生じゃあるまいし、まさか携帯電話が没収されるなんて。

 義母とは相容れないことを確信した出来事だった。

 百恵は若い頃、幼児教育に関わる仕事をしていたらしい。

 そのせいか、千佳の教育方針にアレコレと口を出してきた。

 それは百恵が寝たきりになった後も変わらなかった。

 起き上がれない身体で、百恵は絶え間なく厳しい言葉を投げつけた。

 注意、叱責、八つ当たり。

 京子に投げつけられるのは、いつしか言葉だけではなくなっていた。

 夫の和男は、いつ頃からか外泊を繰り返すようになった。面倒事と見れば、あからさまにそれを避けるような男だった。

 結婚と同時に新築した二世帯住宅には、百恵の奇声と罵声だけが何年も響き渡っていた。

 けれど、そんな百恵も、もういない。

 京子は数年ぶりに自由な時間を手に入れた。鏡の前に立ち、久しぶりにじっくり見つめた自分の姿は、随分と老け込んだようだった。

 でも、もういい。

 これから先は自由だ。

 千佳とふたり、生きていければいい。

 玄関に靴を脱ぎ捨てた京子は、そっと寝室の扉を開いた。

 千佳が歌っている。

 布団の上にペタンと座り込み、辿々しくもリズムを刻んでいる。

 音程は外れているが、その声は可愛らしかった。京子は千佳の歌が好きだった。


「これはジャックのたてた家に撒いた麦芽を食べたネズミ……」


 「ジャックのたてた家」というタイトルのこの歌は、繰り返すごとに1フレーズの歌詞が増える構造になっている。最後の方になると、連なった歌詞を覚えるだけでも難しい。

 千佳は、暇さえあればこの歌を口ずさんでいた。

 随分と、手のかからない子供に育った。

 一人遊びが得意で、いつもぬいぐるみを片手に歌ってばかりいる。

 寂しい思いをさせてきてしまった。

 京子は、小さく歌う千佳の身体を後ろからぎゅっと抱きしめた。

 千佳の身体は温かく、甘い寝汗の匂いがした。


「……ママ?」


「おはよう、千佳。目が覚めちゃった?」


「うん。うるさかったから」


「ごめんね。ママ、ちょっとお出かけしてて。車の音がしちゃったかも」


 すると、千佳は首を小さく横に振った。


「ううん。うるさいの、ママじゃないよ」


「え?」


 千佳はスッと片方の腕をあげた。

 人差し指は、真っ直ぐに隣の部屋へ向けられている。

 生前の百恵が使っていた部屋だ。


「おばあちゃん」


「……なに、言ってるの?」


 千佳はくるりと振り向いた。

 父親譲りの切れ長な瞳が、京子を見つめていた。


「おばあちゃん、うるさいの。ほかにもいっぱい」


 薄ら寒い気配が京子の背中を通った。

 百恵は亡くなっている。

 もう、一ヶ月も前の話だ。


「……千佳、おばあちゃんはもういないんだよ。亡くなったの」


「……そうなの?」


 千佳はキョトンと不思議そうに首を傾げている。

 祖母が死んだ、という実感をまだ得られていないのかもしれない。

 思えば葬式の時も、千佳は泣いたりはせず、ボーッと虚空を見つめているだけだった。

 京子はぎゅっと千佳の身体を抱きしめた。


「……大丈夫だよ、ママがずっと一緒にいるからね」


 千佳の首筋に、京子は頬を寄せた。母に抱きしめられているその間も、千佳は誰もいない百恵の部屋を、ぼんやりとした目で見つめていた。

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