夢幻空花
@crimsonfox
序
積 緋露雪著
序
なんだかんだであれやこれやと思ひ悩みながらの十年以上の思索の結果、埴谷雄高の虚体では存在の尻尾すら捕まへられぬといふ結論に思ひ至った
その闇尾超は、しかし、極度の自虐の虜になってゐたと言われてゐて、彼は絶えず、
――お前自身を、お前の手で徹底的に弾劾せよ。お前の存在をお前は決して許すまじ。はっ、お前の手でお前を抹殺せよ。さうしてお前は口から手を突っ込んでお前の胃袋を引っ摑んで胃袋の内部を外部に引っ張り出して島尾敏雄の『夢の中の日常』のやうに体軀を裏返し、さうして首を刎ねて晒し首にせよ。その滑稽さがお前の本質だ。
と、闇尾超は己を針の筵の上に座らせては自問自答の罠に嵌まってしまってゐたらしかった。つまり、それは闇尾超は己の存在そのものを嫌悪してゐて、彼は死すまで闇尾超といふ存在を認めやうとはしなかったらしい。何故、闇尾超はそのやうな自虐の土壺に嵌まってしまったのかといふと、どうやら闇尾超は存在といふことに対しての全転覆、つまり、それはかうともいへ、あはよくば、宇宙に対して闇尾超といふ存在を賭して宇宙が闇尾超を認識した時にぎょっとする如くに宇宙に一泡吹かせることに取り憑かれてゐたとのことである。それは余りに馬鹿げたことであり、そもそもそんなことなど不可能なのであった。だが、闇尾超にとってそれは生あるうちにどうしても成し遂げるべき、または、闇尾超といふ存在の宿痾の如きものとして闇尾超には取り憑かれてしまったのだった。それは闇尾超が強烈に埴谷雄高の影響下にあり、「不可能性の作家」に心酔してしまったためだったのかもしれぬ。闇尾超は現代は不可能性を恰も可能であるかのやうに論理をでっち上げる時代であり、不可能なものをいかに可能のやうに見せられるかの化かし合ひの時代だと思ってゐたのは確かであった。
しかし、今はもう闇尾超は此の世にはゐない。疾うの昔に精神錯乱の上に病死し、夭折してしまったのであった。それも風の噂で知ったのであるが、闇尾超の死を知ってからといふもの私の頭からそのことは一時も離れることはなかった。それは何故なのだらうか。それは私の何処かに闇尾超に共鳴するところがあって、闇尾超に先を越されたといふ羨望とも嫉妬ともいへぬ何か私の心のどす黒い部分を闇尾超の死が撫でさすって呼び起こし、それがむくっと頭を擡げてその存在を私に突き付けるからなのかもしれぬ。
これまで私は物を書かうとしても、どうしても書けず仕舞ひに終はってしまってゐたのであるが、それでも新しい表現方法を見出せぬ私は、従前からある物語の既に使ひ古されぼろぼろになった表現におんぶに抱っこで、しかし、それでもいいので闇尾超の生の断片を思考実験の上で再構築したかったのであった。しかし、残念ながらそれが近代小説というものだ。さう開き直ってみたどころで、それでもそれは己が恥辱まみれで物語を書くことが恥ずかしいかったのもまた、事実なのである。そして、私は己の存在に対しても恥ずかしいからこれから書かれる思索の断片集に関して言い訳めいたことを書いて何とか己の恥辱を宥め賺してゐるのだ。さうせずば断片集なんぞ私には書けぬのだ。物を書くといふことは恥辱である。それでも闇尾超については書かれるべきなのだ。それは何故かと自身に問へば、詰まる所、存在に行き詰まった存在がどのやうにしてそれでも生を繋いでゐたのかを私自身が詳らかにしたかったからに外ならない。だが、物語は結局書けず仕舞ひで、闇尾超の思索の断片に応答する形での断片集しか書けなかった。
然し乍ら、この断片集はいふなればどうでもいい作品で、唯単に私の自己満足のためのものに過ぎぬのである。独り善がりの、読み手など全く意識せずに、只管自己満足のために書き継がれた断片集がこの作品である。つまり、私以外の読み手にとっては退屈極まりない代物なのである。それでも読みたいといふ人のみ読んで貰ひたい。多分、そんな人はゐないと思ふが。
私が、闇尾超を思ふ時、それは今も闇尾超の霊が此の世を彷徨ってゐて、宇宙背景輻射の如く宇宙創成時の
夢幻空花 @crimsonfox
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