月の逆襲

高巻 渦

月の逆襲

 ある晩、男は買ったばかりの天体望遠鏡で満月を観察していた。

 朧気な光を放つ球体にしばらく見惚れていると、ふとクレーターの隙間に英数字の並んだ謎の文字列を発見した。

 男は慌ててその文字列をメモに取り、インターネット上で検索をかけてみた。

 しかし一件の書き込みも見当たらないどころか、ニュースにすらなっていない。


「まさか、俺が第一発見者なのだろうか」


 湧き上がる興奮を必死に抑えつつ、男はこの文字列が何を意味しているのか、一人で解き明かしてやろうと考えた。

 たっぷり二時間ほど頭をひねり熟考し続けたが答えは出ず、男は疲れてしまった。

 なにしろ、どこからどう見ても適当な英数字の羅列に過ぎないのだ。しかしこのままどこかの天文学研究所に助けを求めるのも悔しい。男は意地になっていた。

 意地になった勢いで、緑色のアイコンをしたチャットアプリのID検索欄にその文字列を打ち込んでみると「月」というユーザーが出てきた。恐る恐る友達に追加して「こんばんは」と文章を送ると、すぐに既読がついた。そして「こんばんは、月です」という文章と共に、臼と杵を持ったうさぎのスタンプが送られてきた。


 かくして男は、月と友達になった世界初の人間となった。


 話してみると存外気さくな衛星で、既読無視は絶対にしなかった。互いに独り身だった一人と一つは意気投合し、そのやりとりがチャットから通話に切り替わるまで、そう時間はかからなかった。

 男と月は毎晩夜が明けるまで色々なことを語り合った。太陽が昇っている間、月と連絡が取れないことだけがネックだった。

 ある満月の晩、いつものように通話をしていると、月がこんなことを言い出した。


「地球の音楽ってどんなのがあんの? せっかくだから月にまつわる曲を聴いてみたいんだけど」

「そうだなあ……ドビュッシーとか鬼束ちひろとか……みんなのうたっていう子供向けの音楽番組でも諫山実生って人が歌ってたぞ」

「マジかよ、聴きたい聴きたい」

「あとレベッカってバンドもお前のこと歌ってたな……確かその曲が曰く付きで、全然知らない女の声が入ってて……」

「おい怖い話やめーや、こっちただでさえ暗いんだから」

「お前デカい図体してビビりなのウケるな」

「3474.8kmあっても怖いもんは怖いんだわ、お前が変な話するから500kmくらい先に二つ並んでる星が人の目に見えてきたじゃねーか」


 そんなやりとりをしながら、男は月にまつわる数曲をシェアした。それらを聴き終えた月は満足したようだった。


「思ったより良い曲が多くて嬉しいわ」

「それは良かった、大抵の人間は昼より夜の方が好きだからな」

「次は俺の曲も聴いてくれよ」

「へえ、月にも音楽があるのか」

「あるよ、輸入モノだけどね。昔、俺の上に降り立った奴らが置いていったんだ」


 そう言って月がシェアしてきたのは、部族の太鼓を思わせる激しい打楽器の音をバックに、当たり前だが男の知らない言語で歌われている曲だった。メロディもハーモニーも全て無視したような騒々しいそれは、音楽というより電波に近く、聴いているうちに不思議と闘争心が昂ってくるような、そんな曲で──。

 気づくと男は部屋を飛び出し、夜道を駆けずり回っていた。数十メートル先に、仕事帰りと思しき女が一人歩いていた。俺は女の背中に向けて足を動かし、無我夢中で飛び掛かっていった。


 つい先ほどまで友人だった男が女の顔に拳を振り下ろすのを、月は遥か上空から静かに見ていた。

「満月は人を狂わせる」という言い伝えがある。アメリカの警察署のカレンダーには、満月の日にチェックが記されているらしい。

 狂気を意味する「lunatic」も、月が語源だ。


 とある星に住む生命体は、地球を侵略するための協定を月と結んでいた。地球人が使う最もポピュラーな交信手段であるチャットアプリを用いて、彼らを発狂させる電波を送り込み、地球を内から滅ぼしていくというものだった。

 そうしている間にも、満月の表面に刻まれた文字列を観測した世界中の人間が、チャットアプリによって月との交信を試みていた。


「この様子なら、もうすぐ地球は終わるな」


 良い音楽がなくなるのは残念だが、と月は膨大な数のチャットに返信を送りながらひとりごちた。

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