骨の髄までしゃぶりつくす愛

日和崎よしな

骨の髄までしゃぶりつくす愛

 山を越え、沼を渡り、ようやくたどり着いたその場所は、人の気配がない荒廃した村だった。


「お、家があるぞ。誰も住んでいないといいんだが」


 俺の視界に映っているのは、納屋のような小さな家だった。壁の黒い木板が腐って剥がれそうになっている。


 俺は娘を抱きかかえたまま走った。

 扉の前に立ち、引き戸のくぼみに手をかける。ギギギと家の寿命を削る音がしたが、お構いなしに扉を開けた。

 鍵はかかっていなかった。というよりは、壊れていた。


「誰もいませんねー?」


 呼びかけているのに思わず声を殺してしまう。

 そろりと中に入ると、案の定、誰もいなかった。部屋はひと部屋のみなので、ひと目でそれがわかった。


「よかった。しばらく落ち着けそうだぞ」


 俺は扉を閉めて、綿がはちゃめちゃに飛び散ったベッドの上に腰を下ろした。


「ああ、すまないな。苦しかったろう?」


 俺は娘を毛布にくるんでいた。人に見られたらまずい。子供がいると知れたら、統一政府に問答無用で取り上げられてしまう。だから毛布にくるんで荷物に偽装していたのだ。


 毛布をめくり、娘の顔の部分を開放した俺は、娘の顔を見て胸の奥が熱くなった。


「ごめんなぁ。こんな時代じゃなきゃ、もっと幸せにしてやれたのになぁ」


 俺は娘のひたいに軽く口づけし、頬をやさしくなでた。白くてスベスベの美しい頬を、やさしく、やさしく、何度もなでた。


 娘の反応はない。娘は自分で体を動かせない。しゃべることもできない。

 統一政府が発足してしばらくしたころに、民衆が起こした暴動に運悪く巻き込まれてしまったのだ。

 俺は軽傷で済んだが、妻は暴動の罪を着せられて連行され、娘はこうなってしまった。


 あれから何年が経っただろう。世界が荒廃しきって、生きることがギリギリになった。

 苦しさのあまり、当時の憤りはもうとっくに忘れてしまった。


「そろそろご飯にしような」


 部屋の中央にはテーブルがあった。イスは一脚のみ。どちらも木製で表面がささくれている。

 触ったら怪我をしそうなので、イスだけを引き寄せて毛布を被せた。


 イスに娘を座らせ、俺は鞄からむき出しの食パンを取り出した。


「ほら、パンだぞ。いらない? 好き嫌いはよくないぞ。たしかにしけってはいるが、食べ物は貴重なんだ。でもまあ、無理強いはしない。これは父さんがもらうよ」


 食事を終えた俺は、膝を着いて娘に寄り添った。

 肩を抱き、頬ずりをする。

 女の子らしいスベスベの滑らかな頬。ずっとこうしていたい。


 ――ギギ。


 木のきしむ音がした。誰かが来た。


 娘を見られたらまずい。俺は慌てて部屋を見渡し、娘を隠せる場所を探した。

 だが、いかんせん物が少ない。隠せる場所がない。ベッドの下は狭すぎて娘は入らない。

 部屋にあるものといえば、ベッドとテーブルとイスと、あとは冷蔵庫くらいのものだ。


「愛しい娘よ、すまない!」


 俺は走りざまに娘を腕に抱え、そして冷蔵庫を開けてその中に娘をぶちこんだ。

 幸いにも冷蔵庫は空で、仕切り板もなければ電源も入っていなかった。


 玄関扉が開かれるのと、俺が冷蔵庫を閉めるのはほぼ同時だった。


「おーい。誰かいるかーって、いるのかよ。ここ、おまえの家か?」


「ああ、いまはな」


 そう答えたにもかかわらず、扉を開けた男が家の中に入ってきた。

 中肉中背。肌は浅黒く、目つきが鋭い。アゴにはヒゲをたくわえている。

 盗みに躊躇がなさそうな雰囲気があるが、カーキ色のシャツはヨレヨレで穴だらけだし、カーゴパンツは土まみれでビリビリに裂けている。

 盗みの常習者ならもっといい服をきていそうなものだ。


「あー、腹減ったなぁ。なあ、あんた。骨、持ってねーか?」


「持ってねーよ。骨じゃ腹は膨れねーだろうが」


 これが荒廃しきった世界の成れの果て。満足に飯にもありつけず、嗜好品といえば骨。

 人々は食べられるものを探しているとき以外は、たいてい骨を探している。猫より犬が好まれる。たとえ猫好きの奴でも、骨だけは犬を好む。


「怪しいなぁ。そこの冷蔵庫に何か隠してんじゃねーのかぁ?」


 男が野太い声を放ちながらツカツカと奥へ入ってくるので、俺は本気の殺意を込めてにらんだ。


「ないって言ってんだろ。ここは俺の家だ。即刻出ていけ!」


「わ、わかったよ。出ていくって」


 とっさにかたわらにあった包丁を手に取ったことが功を奏したのかもしれない。

 その錆びた包丁は、中腹から折れて先がなくなっていた。


 俺は玄関扉を閉めて、冷蔵庫に駆け寄った。


「すまない。怖い思いをさせたね」


 冷蔵庫から娘を取り出し、すぐに毛布にくるむ。


「ここは人が来る。別の安息地を探そう」


 俺は娘を抱えて家を出た。


 この村は来たときには人の気配がなかったが、いまは妙に人の視線を感じる。身をひそめているのだろうか。


 早く村を抜けようと足早に歩いていると、後方からザッザッと足音が聞こえてきた。振り返ると、汚い身なりの男たちが俺のあとをついてきていた。


 俺が振り向いたとき、彼らは立ちどまった。

 再び進もうと進行方向に向き直ると、前方にも集団がいた。


 俺は、挟まれていた。

 前後ともにそれぞれ八人ずつ。


「おい、何の用だ。俺はここを出ていく。邪魔をするな」


 俺が声をあげると、後方から聞き覚えのある野太い声が返ってきた。


「その大事そうに抱えているものは何だぁ? さっき、家にはなかったよなぁ? てことは、冷蔵庫に入れていた食料かぁ?」


「おまえはさっきの……」


 アゴヒゲ男が前に出てきて下卑げびた笑みを浮かべている。悪態アピールのガニ股歩きで一人近づいてくる。

 さっきの家では身を引いたが、いまのこいつには大勢の味方がいる。恐れるものはないといった様子。


 あの家は浮浪者を誘い込む罠だったのだ。

 浮浪者が家に入ったら、一人が様子を見に行く。食料や骨を持っていないか、強奪可能な相手かどうかを確認し、標的と認定されれば仲間と合流して襲いかかる。


「これは食料じゃない。寝具だ!」


「いーや、どう見ても毛布に何かを包んでいるよなぁ。まさか、子供を隠し持ってんじゃねーのかぁ? だとしたら、統一政府に献上しなけりゃなんねーよなぁ!」


 密告報酬狙いか。子供の存在を統一政府に密告すれば、報酬として食料がもらえる。

 もし毛布の中身が食料だったとしても、そのまま奪い取る腹だろう。


 奴らにとっては、毛布の中身が食料でも子供でもいいのだ。


「くそっ!」


 俺は走った。毛布にくるんだ娘を腕に抱え込み、アゴヒゲ男とは反対方向の集団に向かって突進した。


「逃がすな!」


 男たちはみんな貧相な体つきだが、さすがに多勢に無勢。しかも人相の悪さからして慣れているらしい。

 俺はあっという間に絡めとられてしまった。


 そして、腕から毛布がはぎ取られる。


「取ったあああああああぁ!」


「返せ! おい、返せよっ!」


 俺は男たち取り押さえられた。うつ伏せに押さえつけられて体がビクともしない。俺には離される娘を見つめることしかできない。

 左右に顔を向けて重しになっている奴らを確認すると、俺の背中には六人ほどが乱雑に積み重なっていた。


 娘はアゴヒゲ男の手に渡った。

 そして、男が毛布を荒々しくめくる。


「おいおいおい! 持ってんじゃねーか。極上の骨をよぉ!」


 たちまちのうちに毛布がはがされ、うち捨てられた。

 娘の一糸まとわぬ美しき姿が露わになる。


「マジかよ! 俺にも分けてくれ!」


「俺も、俺も!」


 アゴヒゲ男に別の男たちが群がった。


 娘の体が引きちぎられる。四肢が引き千切られ、四肢は関節ごとに千切っていく。骨盤、肋骨、背骨と奪われていき、アゴヒゲ男の手には頭が残った。


「おい、やめろおおおおおっ!」


 俺の絶叫をさかなに、アゴヒゲ男が娘の顔をベロリと舐め上げた。


 人骨は犬や猫の骨よりもはるかに美味とされている。人骨を舐めたいがために人を殺して白骨化させる者もいるくらいである。

 このご時世に幼子の美しい人骨を抱えて歩きまわることは、ひと昔前で言うと金塊を一人で持ち歩くに等しい。


「返せ! 返してくれ、頼む! その子は俺の娘なんだ。俺の実の娘なんだよおおお!」


「バカ野郎が! 骨は舐めてなんぼだろうが! 骨と家族ごっこしてんじゃねーよ!」


 アゴヒゲ男が散乱した虫の死骸でも見るかのような目で俺を見下ろしてきた。

 俺は激しい殺意を込めて男をにらみ上げるが、それが逆に男の神経を逆なでしたようで、俺の頭を踏みつけにしてきた。

 挙句の果てに、娘の味を食レポしだす始末。


「うんめぇ! ていうか、これ、初物じゃねーか。初物の骨を舐めずに連れ回すなんざ、いまどき修行僧でもやらねーよ。欲望に逆らって高尚なフリでもしてんのか? 俺はな、そういう奴がいちばん大っ嫌いなんだよ!」


 男が何度も俺の頭を踏みつけにしてくる。

 そんな俺の耳には、打撃音のほかに、方々から嬉しそうな悲鳴が聞こえてくる。


「うんめぇ、うんめぇ!」


「初物ってマジ? しかも幼い女の子なんだろ? 最高じゃねーか!」


「これを舐めなかったなんてバカだなぁ。俺たちが頂いちゃうぜぇ!」


 俺には何もできなかった。ただひたすら娘がはずかしめられる様子を眺めるしかなかった。


 一時間ほど経っただろうか。逐一感想を述べていた男たちの口数が減って、辺りに静けさが戻った。


 誰かがボソリと言った。


「さすがにもう味がしねーな。舐め尽くしちまった……」


「あー、もういらね。お望みどおり返してやるよ。おっさん」


 娘の骨が次々に俺の目の前に投げ捨てられていく。


 俺を拘束している意味はもうないと判断したのか、俺の上に積み重なっていた男たちも次々と俺から離れていく。


 そして俺は解放された。

 目の前にはバラバラになった娘の骨。

 そして俺を冷ややかに見下ろすアゴヒゲ男。


 男の仲間たちは、床を転がるビーズのように緩やかに散っていく。


「ふん。これくらいで許してやるよ」


 アゴヒゲ男はそう吐き捨てて俺に背中を向けた。


 俺は立ち上がり、ガニ股で歩いていくアゴヒゲ男に駆け寄った。


「おい!」


「あ?」


 男が振り向いた瞬間、アゴヒゲの下に錆びた中折れの包丁を突き入れた。


 男は口をパクパクと動かすが、声は出ない。剥いた目を俺に向けて両肩を掴んでくるが、その両手はじきに肩を滑り落ちた。


 俺たちの様子に気づいた男がこちらを見て固まっている。

 そいつに俺が殺意の視線を向けると、そいつは脱兎のごとく逃げていった。


 俺はアゴヒゲ男の汚い髪を掴み、その体を乱暴に横たえた。


「おまえは必ず骨にしてバラバラに売りさばいてやるからな」


 俺はアゴヒゲ男の顔を思いっきり蹴飛ばし、娘の方に歩み寄った。


 娘は見るも無残な姿になってしまったが、幸いなことに、折れたり傷が入ったりはしていない。


 俺は娘の骨を丁寧に並べた。

 頭、背骨、肋骨、骨盤、腕、手、脚、足。

 一緒に暮らしている我が娘の骨だ。左右や上下の並びに迷うことはなかった。


「バラバラになっちまったなぁ。粘土を探して元に戻してやるからな」


 それから俺はそっと頭部を抱き上げた。やさしく抱きしめるが、男の唾液で臭くなっている。


「汚されちまったなぁ。守れなくて、すまなかったなぁ。父さんが、綺麗にしてやるからな」


 俺は娘の頬にやさしく舌を這わせた。味が失われているどころか、男の唾液臭が鼻にツンとくる。頭蓋骨をまんべんなく舐めまわして、自分の唾液で上書きする。


「いつかちゃんと洗ってやるからな。それまで、父さんで我慢してくれな」


 頭、背骨、肋骨、骨盤、腕、手、脚、足。

 余すところなくすべて綺麗に舐め上げると、その骨たちを丁寧に毛布にくるんだ。


 左腕に娘を抱き、右手でアゴヒゲ男の髪を掴む。

 その汚い荷物を引きずりながら、俺は次の村を探して歩き出したのだった。



    おわり

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