終編

 夜の港を目も当てられないような不細工な少女がみっともなく逃げるように走っている。少女はこの近辺では見ない制服を着ており、事実高校生であり、もちろんこの街の住民ではなかったし、本当は人ですらなかった。

 少女の名前を山田という。山田は狐や狸が人に化けるのと同じ理屈で人魚が人に化けたものだった。

 山田は幼い頃から人に化て学校に通っていたが、同級生には見た目と匂いの所為で殴られたり物を盗まれたりしていた。山田は自分から人に関わったことを後悔したが、先生に相談しても大した効果は無かったのでどうする事もできず、諦めながら惰性で学校に通っていた。

 しかし6年生の修学旅行を境にそれは何故か止まった。浅倉さんが何か知っているような事を言っていたが、代わりに彼女が仲良くしてくれるようになった。

 理由は分からなかった。でも浅倉さんが仲良くしてくれて嬉しく思った。同じ中学高校にも通うことができて、そこでも仲良くいれたのは、本当に幸福て、その頃には自分がいじめられていた事も忘れていた。今日までは。


「人魚を殺したことがあるんだ」

 最初、何を言っているのかよくわからなかった。理解が追いつかなかったとも言う。

 浅倉さんと金曜日の放課後はだいたい駅のショッピングセンターで寄り道している。大体何か飲んだり文具を買ったりするのだが、その日も途中まではいつも通りの寄り道だったが、彼女から珍しく外の広場でお話ししようと言われた。外の広場は土日祝日ならイベントなどで賑わう場所なのだが、平日なので当然人の集まりは無い。

 外はもうすっかり暗くなり、ショッピングセンターの窓からの明かりや広場の照明灯の光が目立つ様になっていた。浅倉さんと私はは広場を突っ切り広場を囲む様に置いてあるベンチ群の一つに座る。ここのベンチはまだ仕切りが付いておらず、昼間にたまにホームレスが寝ていると言う話を聞く。不衛生ではと思ったが、浅倉さんは気にしていない様だった。単に知らないだけかもしれないが。

 だからこそ話したかったのだろう。人魚を殺した話を。


 山田は、彼女は本当は友達にはなれない人だったのだ。私の正体を知れば、その瞬間に殺しにくるのだ、という確信を持った。そして正体が露見する日はそう遠くないうちに訪れるとも。

 特定の属性に差別意識を持っている人間は仲のいい友人が実は特定の属性を持っていた場合、何故自分は特定の属性の人間に対して間違った認識をしていたのだろうと後悔するのではなく、隠された、騙された、裏切られたのだと被害者意識を持つ生き物である。

 それが普通の人間である。

 そして浅倉は山田にとって普通の人間である。特別な存在であっても普通の人間である。

 浅倉と分かれた後、山田は急いで海の近くの駅を検索した。海ならばどこでも良い。駅へ戻り検索結果ででた方向の電車に乗る。行き先は未知の領域である。車窓の外はもう民家の四角い灯りや、たまに現れる大型店舗の看板の灯りしか見えなくなっていた。

 耳慣れない駅名を聞きながら乗り継ぎをくりかえし、そして今に至る。

 走る中、ひどく懐かしい故郷の音が聞こえる。もう何年も戻っていないのに覚えていたことに少し驚く。そしてひどく懐かしく思うくらい、あの場所には馴染めなかったのだ。

 あともう少し。私は此処に来るべきではなかったのだ。


 故郷は思ったよりも優しく私を迎え入れた。いつ入っても酷く冷たいはずの海は、今はその冷たさに安堵していた。

 通学鞄には衣類は畳んで通学鞄に詰めて船着場の真ん中置いておいた。早ければ日の上がらないうちに見つかるし、監視カメラがあるとすれば、少なくとも人が海に飛び込む姿は映るだろう。

 数メートル下には漆黒の水が広がる。光の反射は無く、ただ音だけが波の在処を伝えている。

 私は飛込競技の選手のように故郷に飛び込んだ。そのまま港の外へ泳いで行く。先ずは沖へ流されるように泳ぐ。息継ぎをせずに何百メートルも泳いでいける。目も痛くない。脚もだんだん纏まっていく。この感覚だ。本当はこうしているべきなのだ。私は。 

 その恍惚感から目を醒させたのは、顔に小魚が群れで当たったからだった。

 小魚の群れは一瞬で身を翻し何処かへ潜っていく。私の声は出ない。パニックになって思わず波の上に顔をだした。陸のものに影を落とすほど明るくないし星に主役を譲る程でもない、半端な月の夜だったことを今気づいた。

 港の光はすっかり小さくなっている。不意に、まだ戻れると思った。どうしてそう思ってしまったのか。戻れば私はまだ浅倉さんと友達の山田でいられる。でもそれは浅倉さんが私の正体に気づき、殺しにくる可能性が高くなることを意味する。私は同胞のように死にたくない。

 ……話せば浅倉さんは理解してくれるだろうか。不意に浮かんだ幻想を振り払う。浅倉さんは何時も正しい訳ではないが、私の観る範囲では絶対に理不尽を赦したことは無かった。私の正体を知ったら、きっと赦すことはしないだろう。

 追い討ちをかけるように、港の方から風が吹いてくる。港の光が更に遠くなる。授業で習ったっけ。昼は海から風が吹いて夜は陸から風が吹くって。

 もう、やめよう。

 来るべきではなかった。それに、そろそろ息が苦しくなってきた。私は鰓呼吸だったろうか。なにせ十数年ぶりの姿だ。なぜ魚と同じところで生きていられるのか私にもよく解らないが。もう肺呼吸すら難しくなってきている。

 潜ったら、もう二度と陸には行かないどころか、波の上に顔を上げることすらしないだろう。仲間にあったら伝えなければ。陸に行ってはいけないと。行けば殺されると。

 陸にいた頃の癖で思い切り息を吸ってから、勢いをつけて潜った。瞬く間に水面から遠ざかる。そうして果てし撒く潜っていくうちに、口の中に溜めた空気を吐き出す。朝になるまでには、仲間のところに着くだろう。

 

 夜の海のしじまに、一呼吸分のあぶくが湧いてそれきりだったことを、誰も知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人魚を殺した話 鼠棚壕 @sumizumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ