後編
私はその日の内に妻とトランクに死体を乗せた車で高速を北上し内陸部へと向かった。幸い娘は修学旅行でいないから今日中に戻れなくても何も問題は無い。SAもPAもただひたすらに無視しながら、平均時速100キロを出しながら二時間もしない内に高速を出て、そのうちハイビームを付けても先の見えないような暗い国道の山林へ進んだ。
山の中の国道には電柱がなかなか見当たらず、おまけに新月だったため車のライトのみが頼りの綱だった。昼に来れば気にならないのだろうが、何も見えない所為で風で木端の擦れる音が酷く五月蠅く感じられる。
「どうしよう」
「どうするもこうするもないんだけど」
ようやく見つけた電灯の下に場所に車を止め、無言の時間が続いたあとにようやく出た言葉がコレだった。
そう、どうするもこうするもないのである。
簡単にまとめてはいけないがそうすると、私は車通勤での帰宅中に人を撥ねてしまったのだ。最悪なことに現場は住宅街でない畑や雑木林のひろがるような田舎であり、異音を聞いて駆けつけるような人間も吠える犬も後続車もいなかったのである。私は飲酒運転などしていないし、ライトもちゃんとつけていた。運転中にはいつも最大限の注意を払っていた。
だが轢いてしまった。女が、田んぼから道路へ上がってきたところをやってしまったのが。あ、と思ったときには質量を感じる衝撃と共に女の身体はフロントガラスの上へ吹っ飛んで行った。
目の前が真っ白になった。
私がやったのか?私がやってしまったのか?まさか。いいやまさか。でもさっきのはまやかしなんかじゃないぞ。やってしまったのか?本当に?本当に本当に?もっとゆっくり走ればよかった。最大の面倒事だぞ。車の外に出たくない。出なきゃ。出ろ。本当に起こったことなのか?月が出ていれば気付いたハズだ。本当に?さっきに戻して欲しい。戻れないんだなあコレが。時間を元に戻して欲しい。今度はうまく止まるのに……。
女は車の後ろに倒れていた。思ったより体は変に曲がっていたりしてなかったが(それでも十分あり得ない曲がり方だったが)、頭部には明らかな損傷があった。血で汚れた髪の毛の中に頭蓋が見えている。車はどこもへこんではいないが何処かに血がついているはずだ。白い車体にしたことを後悔する。
だが、平穏に生きている人間の誰が見たことがあるだろうか。血の付着した車というものを。俺は無い。一応、スマホのライトをつけて車体をざっと確認すると、車上に大きめの筆で雑に払ったような赤い跡があった。これだろう。人を撥ねて血が付いた車を初めて見た。そのうち生臭くなるのだろうか。
正しい反応かそうでないのかわからないが俺はすっかり落ち着いた後、車に付いた血を鳥の糞が着いたときの為に車内に備えていた雑巾でふき取れるだけふき取り、かなり触りたくなかったが女の死体を車のトランク部分に押し込んだ。これをこのあとどうするかは数時間後か明日の俺が決めることだ。
そこまで決めていて今たいへん弱っているんだから情けないったらありゃしない。妻が適当な山に埋めようと言ってくれなかったら明日には異臭騒ぎになって発覚までそう時間はかからなかった、なんてことになるところだった。かなり自分の悪い癖が出た。
このまま車を降りて、後部座席から道具を出して、死体を運んで、埋めればいいのだが、なんだかそれを実行する勇気が無かった。妻も同じ考えなのか「どうするもこうするもない」と言った後ずっと黙っている。
数時間前まで人魚を殺しただのなんだのの話が嘘であるかのようだ。子供のころは怪談が怖かったが大人になって周りの見方が変わってからはからはそれどころじゃなくなったことがある。それの縮図が今の事態かな、なんて考えたりする。人魚というファンタジーよりも現実の死体の方が怖い。暗い車内の中ではヘッドライトとカーナビだけが光源である。
道路沿いの木々が揺れているのが分かる。なんだかワサワサという音も聞こえてくる。風が強いんだなあ、そろそろ台風の季節か。
ふいに車が揺れた気がして、思わず妻と顔を見合わせる。地震ではない。
気のせいだと願いながら後ろを見る。
もちろん後ろにはシャベルやビニールシートがあるだけで、死体はトランク部分に入れてある。まさかと思うが、確かめるにはトランクの中身を確認するしかない。出発するときにトランクの中は妻と一緒に確認したし、息をしていなかったからちゃんと死んでいると判断した。もしや息を吹き返したのか?
「みてくるか……」
独り言なのか妻に向けて言ったのか自分でもよくわからなかった。
妻に車内に残っているよう頼み、車から出て懐中電灯を付け、そうしてトランクの前まで来て、深呼吸する。丸い灯りの中に、バックドアとナンバープレートだけが見える。
トランクを開く。イメージをする。
トランクを勢い良く開く。イメージをする。
トランクをためらいなく開く。イメージをする。
トランクを勢いよく開ける。イメージをする。
空想の宝箱を開けるイメージをする。
床の収納スペースを開けるイメージをする。
飯を炊いたまま一年間開けていない炊飯器を開けるイメージをする。
蛾を靴で踏んだのをどうなったか確かめるイメージをする。
排水口に溜まった家族の体毛をイメージをする。
それらをトランクに全部入れるイメージをする。
この中に入っているものは今思い描いたもの全てがマシに思えるような代物だから頑張って開けろと自分を奮い立たせる。走ってすらいないのに心臓が痛いくらい高鳴る。
バックドアに手を掛け、思い切って(痙攣に近い)エイヤッとトランクを開けた。
酷く醜かった。
私は中身を見た途端、妻の言っていたことが全て本当だという事を理解した。いたのだ、本当に。
腰を抜かして這うように運転席に向かい、ドアを開けた。
「出たッ!出たッ!出たッ!」
運転席のによじ登りながら妻に助けを求めた。
「何!?ふみ君どうしたの!?」
「礼奈ちゃんマジだったッ!見てッ!」
点けっぱなしの懐中電灯を渡す。
「何を!?」
「ごめんあの話さっきまで信じてなかった!」
妻に催促しながら再び這いながら開けっ放しのトランクの方へ向かう。妻は後を追って運転席から鍵とリュックをもって出てきた。リュックには死体を埋めるための様々な小物が入っているのだ。
妻がトランクに向かう間、再び見るのも怖いので後輪の方で蹲る。
見間違いだといいな……暗いし。と思っていると、妻がリュックを開ける音がした。中を漁る音がする。妻の方を振り返る、というか見上げると、電灯の逆光になっていてはっきりとはわからなかったが、錐体細胞が働いている目には、妻が今後いかなる恐ろしいシチュエーションになっても見ることはない、この事象独自であろう表情をしていた。
妻はゴム手袋の上に軍手を嵌めた。そして言った。
「こいつ殺そう」
その途端、人魚の背が弓なりに背を曲げ胴体がトランクから出てきた。私は悲鳴を上げたが次の瞬間には妻は懐中電灯でそいつの顔を残像しか見えない程の速さで殴打していた。殴打はすぐに終わった。妻は息を荒くしていた。
「死んだ?」
「これからちゃんと殺す」
トランクの中を恐る恐る見てみると、自分が轢いた生き物を改めてハッキリとみることが出来た。一見地味な色のワンピースを着た不細工な顔をした女だが、下半身は魚だった。こうしてみれば確かに嫌悪がこみ上げてくるような見た目をしているが、幼い頃の妻と義弟はこのような生き物に殺意が湧いたのだろうか。とっととこの死に体の気持ち悪い生き物をトランクの外に捨てたかったが、殺したいとは思わなかった。
妻の方を見ると、何を考えているか分かっても何をしでかすか分からない気配を醸し出していて怖かった。
「ふみくん」
「うん」
すると妻が人魚をトランクから引きずり出した。そしてすぐ下の後輪に下半身と頭を押し付けた。何をするか何となくわかるような気がする。
「ちゃんとこいつが死んだか見ててね」
待って欲しい。待ってくれ。妻の言ったことは本当だった。つまり、妻は二度もこんな不細工な生き物を殺すハメになるのだ。夫としてこれでいいのか?家族がやりたいと思っている事を、ありとあらゆる事を、よしやってこいと言って送り出すことだけが、それが本当に、家族の役割か?
手のひらがしびれる。汗が穴という穴から吹き手で来る。
「待ってくれ礼奈ちゃん」
礼奈が振り返る。邪魔しないで欲しいという顔だった。ああ、こんな顔をされたのは初めてだ。ありとあらゆるものを振り絞って言う。
「俺がやる」
運転席に座る。妻には生き物の頭の方にいてもらい、加減を見てもらう。
エンジンを点けシフトレバーをPからRに下げる。ペダルをゆっくり踏む。車が少し傾いたかな、と思ったら何かこう、どう表現すればよいか分からないが、頭蓋骨をタイヤの下敷きにした際、としか言いようがない独特の嫌な破壊音というか割れる感覚というべきか、独自の物が座席に伝わってくる。
乗り上げて、ガクンと落ちる。ところを潰れる。不思議だ。
「やった!」
車外から礼奈の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「やったよふみ君!」
そうして国道から山の中へ、頭の潰れた人魚の死体と死体を埋めるためにかき集めた道具を運ぶ。これは殺すよりも大変な作業だった。まず懐中電灯の光だけを頼りに山の中を動くのは正直非常に危ない。なにより足元が見えにくいのでふとした際に足を滑らせて真っ逆さまに……という恐ろしいことは容易に想像がついた。でも埋める以外の処理を考えることなんてできないのでやるしかないのである。
結婚した際、セックスや子育てや家族旅行をすることは想定の範囲内だったが流石に人魚の死体処理を共にすることは想定の範囲外だった。泥まみれになり人一人入れるほどの穴を掘り、妻が時折死体をシャベルで丹念に叩いているのを見ながら、人生何があるのか本当に分からないと思った。思い知ったというべきだろうか。
ビニールシートを巻きハムのように紐で縛った死体をできるだけ深く掘った穴に放り、埋める。丹念に埋める、堀ったぶんの土を戻すんだから丹念も何もないだろう思われるかもしれないが、死体の分穴の体積は変わるため戻す際はそのまま戻すと土が山盛りになりバレる可能性がある。だから埋めるときは道を舗装するように、穴に土を詰めるようなやり方で埋めなくてはならないのだ。
最後に土を踏み固めた時、時間はすでに3時間立っていた。時刻は午前一時を回ったところだろうか。私たちは泥まみれになっていた。
車に戻り、タイヤに付いた汚れをペットボトルの水で洗い流し、トランクの中に道具を入れる。これで後部座席はスッキリした。
こうして二人して無事に座席に戻った。人魚の死体などない正常な世界である。車を発進させようとしたら、背後からパトカーが来た。
どうするかな。
頭に何となく不安がよぎる。
パトカーが後ろにとまり、警官がこちらに歩いてきたので窓を開けた。
「はい」
「こんばんわ。■■県警です。こんな遅い時間気になったんでちょっと声お掛けしました」
「あーこんばんは」
「免許証拝見してもよろしいでしょうか」
「はい」
拒む必要もないので財布から免許証を出し、渡した。警官は何かメモを取った後私に返した。
「別にねー浅倉さんが何か違反をしたとかいう訳ではないんですがここに止めていた理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
正直に人魚の死体を埋めてましたと言うべきだろうか。すると妻が
「すこし喧嘩しまして……」
「あーハイ」
「それで一旦落ち着こうとちょっと遠出してて」
「なるほどね」
警官は再びメモをとった。この後も2、3質問があったが、心配せずに答えられるものであった。
じゃあ夜遅いんで気をつけてくださいねー、と言って警官はパトカーで去っていった。
特徴的な赤いライトが消えるのを見送った後、いっきに緊張の糸が緩んだ。ちゃんと答えられているはずなのに私の脇は汗びっしょりであり、妻はじぬかと思っだ、と悲鳴を上げていた。
帰る途中、行では無視したSAのフードコートで再び思い出話を再開し、日の出とともに家に帰ったのだ。朝帰りだったので翌日は二人して昼まで寝て、それ以降は人魚の死体なんてなかったように普段の生活を再開した。
あれから何年か経つが、運転には娘に苛立たれるくらい気を付けているし、もちろん人は一人も引いていない。
娘の進学や仕事が増えて仕事も増えた以外に特にこれといった変化は無いが、娘が修学旅行で仲良くなったという山田という友達とよく遊んでいて、家に何度か遊びに来たことがある。顔はよくないがそれ以外はいい子である。友達づきあいの浅い娘にこんないい、それも進学しても長く付き合ってくれる友達ができたことは親としても幸いであった。
妻は自業自得などないと言ったがあれはある意味正解であった。自業自得とは人間同士で発生させる概念であって、人魚とかいう人間社会の外、動物とほとんど変わらない存在に対しては無視することのできるものだったのだ。あのあと暫くはあの警官が気になってて掘り返してたらヤダなとか、ゾンビみたいに復活して家に来たらヤダな、とか考えていたが杞憂であった。あの地域のなんとかという山の奥で白骨化した死体が埋められていた、などというニュースはみていないし、インターホンのカメラにそれっぽい者も映ったこともないし、そもそも出来事自体を思い出す頻度も年々少なくなってきている。
その日は妻が夕飯にワカサギの天ぷらを用意してくれた。いつものように「いただきます」と、そう言って食べた。美味しかった。
皿洗いが終わり風呂に入ろうか酒を飲もうかテレビを点けようか考えていたら、娘が聞いて欲しいことがある、と私たちに席に座る様言った。娘は口を少し半開きにして、私と妻の間の空間を見つめていた。迷っているときはこうなるのだ。もう高校生だから進路のことについて相談したいのだろう、と考えていた。
因果は応報するというよりは、川のように巡るらしい。妻の人生や、義理の弟の人生や、私の人生のこれまでのすべてがハッキリと分かった気がするし、また見えないところに広がる暗闇の深さを知ったような気もするし、この気づきは30分後には「じぇんじぇん解ってませんでした!ダーッハッハッハ」となるのかもしれないが、娘の発言はそう思わせるほど、我々の間や世界には切ろうにも切れぬ何かがあるのだと思わされた。
「人魚を殺したことがあるんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます