優しく歌って

増田朋美

優しく歌って

寒くなって、クリスマス寒波とか、そういう言葉が騒がれるようになってきた。それでは、もうすぐクリスマスで嬉しいなと言うことになると思うのだが、大雪で、被害が出てしまうというのは、困ったものである。

さて、その日。小久保哲哉さんは、いつも通り御殿場の自身の法律事務所に出勤した。いつも通り、事務員の女性にご挨拶して、まあ今日も依頼は来るかなあなんて考えていると、

「ほら、ここだ。ひらがなで書いてくれてあるじゃないか。遠慮しないで中に入れ。」

「確かにこくぼほうりつじむしょと書いてあるんですが、本当に私のような人間で、やってくれるのでしょうか?」

と、一人の男性と、一人の女性の声がした。小久保さんは、どうぞお入りくださいというと、

「失礼いたします。あの、どうしてもこいつが小久保さんにお姉さんの弁護をしてほしいというので連れてきました。よろしくやってあげてください。」

と、ガチャンとドアを開けて、杉ちゃんが車椅子で入ってきた。

「ほら、入れ。大丈夫、怖い人じゃないし、ちゃんとやってくれる人だから、心置きなく、相談をしてくれ。」

杉ちゃんは、そう言って、一人の女性を部屋の中へ入れた。こういうところへ来るのは初めてなのだろうか。若い女性が、一人、ちょっと緊張した面持ちで、部屋の中へ入ってきた。

「あの、すみません。こんな事をお願いして申し訳ないかもしれないですけど、あの、姉を助けていただけないでしょうか。もちろん、弁護料とか、そういうものがかかってしまうのは仕方ないと思うんですが、どうしてもやってくれそうな弁護士の先生がいなかったんです。」

女性は、申し訳無さそうに言った。

「刑事事件でしょうか?お姉さんが、なにか、事件を起こしたのですか?」

小久保さんはそう言って、とりあえず杉ちゃんと女性を椅子に座らせた。

「ええ、児童虐待というのでしょうか。姉が、仕事のじゃまになるからと言って、息子の小海圭祐くんを、ビール瓶で殴って殺害したと言うのです。」

「お姉さんは、息子さんを殺害したことを認めていらっしゃるんですか?」

小久保さんが聞くと、

「はい。そこもはっきりしないのです。ただ私は、姉があれほど子供が生まれるのを楽しみにしていたので、姉がビール瓶で殴って殺害したというのがどうしても理解できないのです。たしかに逮捕されたとき、刑事さんの話によりますと、姉は、ビール瓶を持っていました。だけど、圭祐くんを、仕事の邪魔だというでしょうか?」

と、女性は答えた。それがかなり興奮している様子だったので、器質的に興奮しやすいのかと思われた。

「まず初めに、あなたのお名前と、お姉さんの名前を教えていただけませんか?」

小久保さんが言うと、

「はい。私は、小海奈保子と申します。姉は小海信代です。殺された姉の息子さんは、小海圭祐くんです。」

女性は初めて名前を名乗った。

「小海信代?なんか聞いたことのある名前ですね。僕はテレビを見ませんが、時々週刊誌などで見たことがある名前ですね。」

小久保さんがそう言うと、

「実はそうなのです。姉は、音大を出たあと、しばらく劇団に入っていたのですが、そこから、歌手としてデビューしました。多分、話題のソプラノ歌手といえば、すぐに出てくるんじゃないでしょうか。」

小海奈保子さんはそういった。

「あの、シューマンの献呈をヒットさせたやつだね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。そうなんです。」

奈保子さんは、恥ずかしそうに言った。

「しかし、小海信代さんが結婚したというニュースはどこでも報道されませんでしたし、誰かと交際していたのでしょうか?」

小久保さんが聞くと、

「はい。それが、海外のバイオリニストの方と交際していたようですが、圭祐くんが生まれる前に、どこかの国での爆撃に巻き込まれてしまったようなんです。それから姉は、一人で圭祐くんを育てるんだって、張り切っていたんですけど。でも、出産をして、少し変わったみたいで。」

奈保子さんは、申し訳無さそうに言った。

「出産をして変わられた?」

「ええ。それからおかしくなっていきました。圭祐くんを大事にするどころか、ずっと放置しっぱなしで、はじめは、私も産後で疲れているのかなと思っていたんですが、圭祐くんのことを、叩いたり、放置したり。そういうことばっかりするようになっていって。きっと本当におかしくなってしまったんではないかと思います。」

「それで、お姉さんは、病院で治療を受けようと言う気には?」

「ならないんですよ。あたしはそこが不思議で仕方ないんですが、どういうわけか、ああいう常軌を逸した事をしているのに、自分は正常だ、ただ圭祐がじゃまになったので、それで叩いただけだとしか言わなかったのです。」

「なるほど。それで最終的に圭祐くんを殺害してしまったと言うわけですね。」

小久保さんは、奈保子さんの言葉に考え込むように言った。

「そういうことなら、非常に難しいだろうな。」

と、杉ちゃんも、考え込むように言う。

「お姉さんは、今でも拘置所に居るのですか?」

小久保さんが聞くと、

「いえ、今警察病院に入院しています。いくら刑事さんたちが取り調べをしても、話が通じないみたいで。それで、影浦千代吉先生という精神科の先生が、治療にあたってくださっているようですが、すごく難航しているみたいで。そうかと思えば、刑事さんたちは、早く裁判をして、事件を終わらせたいと考えているようですし。」

奈保子さんは、小さな声で言った。

「わかりました。それでは引き受けますよ。それよりも、まず初めにお姉さんの小海信代さんに会わせてもらえないでしょうかね?それも、不能なのでしょうか?」

小久保さんが言うと、

「とりあえずさ、ここでああだこうだ言ってないで、その本人に合わしてやったらどうだ。」

と、杉ちゃんが言ったので、みんなはそうすることにした。小久保さんはすぐに支度をして、杉ちゃんと小海奈保子さんと一緒に、警察病院に向かった。

病院につくと、影浦千代吉先生が待っていた。そして、小久保さんが弁護を引き受けてくれるということを聞いて、ホッとしたと言った。

「それで、彼女、小海信代さんにお会いしたいのですが、まだ面会はできませんか?」

小久保さんが言うと、

「はい。そうですね。まず初めに、彼女には病識が無いのです。今でもなんで自分がここに閉じ込められているのかわからないと言って、昨日も看護師と大喧嘩をしました。できるだけ早く、薬を飲んで、落ち着いてもらいたいのですが、彼女はそれをしようとしてくれないので、僕たちも困っているところなんです。」

と、影浦先生は言った。

「それでは、息子の圭祐くんを殺害したのも正常だと思っているのでしょうか?」

小久保さんがそうきくと、

「いえ、それはわかりません。彼女が僕たちの事を信用してくれるかもわからない状態なので。すみません。医者のくせに、期待に添えないような医者で。」

と、影浦先生は申し訳無さそうに言った。

「そうですか、一度だけでも顔を見させていただけないと、こちらも弁護をするのに支障が出てしまうのですがね。」

小久保さんがそうきくと、どこかかから女性が騒ぐ声が聞こえてきた。あ、姉の声ですと、小海奈保子さんがいう。影浦先生は、すぐに止めさせましょうかといったが、杉ちゃんが、

「止めるな止めるな。こんなとき、小海信代さんに言わせろ言わせろ。」

と言った。影浦先生は、すぐに止めなければ医者としてだめだと言って、急いで走っていってしまったが、杉ちゃんたちにはこういう文句が聞こえてきたのである。

「女の人が圭祐に毒を飲ませようとするんです!だから、私があの子に消えてもらわないと、その人から、逃げる方法がなかったんです!」

メチャクチャな発想である。

「そういうことであれば、圭祐くんが仕事のジャマなので消えてもらいたいという言葉は嘘のようだな。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうですね。それにああいう女性が話すことは、事実以上の事実というか、事実以上の真実を話しています。だから、無視してはいけません。無理やり黙らせるということも本当はしては行けないんですけどね。」

小久保さんがそういった。それからしばらくして、多分影浦先生が注射を打ったのだろう。それ以上、小海信代さんが、叫ぶということはなかったが、でも、たしかに、小海さんは症状があることはたしかだった。

とりあえず、影浦先生に、まだ聞きたいことがあったけど、今日は小海さんの事を考えて、三人は帰ることにした。家族である、小海奈保子さんも、看護師さんたちが任せてくださいと言ったので帰ることにした。その帰りのタクシーの中で、杉ちゃんのスマートフォンが鳴った。スマートフォンは数字が読めなくても、ロゴマークで電話に出ることを示してくれてあるから、杉ちゃんでも電話に出られるのである。

「はいはいもしもし。ああ、またやったのね。畳代がたまんないねえ。まあ、しょうがないことだけど、諦めるしか無いのかな。そのくらいの軽い気持ちで考えてくれ。」

杉ちゃんはそう言って電話を切った。

「ああ、また水穂さんですか?最近寒いですからな。水穂さんには堪える寒さかもしれませんな。」

と、小久保さんが言うと、

「水穂さんって誰なんですか?」

小海奈保子さんがきいた。

「ええ。まあ、僕の大親友でさ。すごく優秀なピアニストなんだけど、ちょっと理由があってね。それでちゃんとした病気の治療を受けられないで、ずっと寝てるんだ。」

杉ちゃんは言葉を濁すように答える。

「はあ、例えば悪性腫瘍とか、そういうものですか?」

奈保子さんが聞くと、

「そんなレベルのものじゃないよ。明治とか大正であったら、イチコロかもしれないけど、今はイチコロどころか、ちゃんと治療法もあって、みんな元気に暮らせる様になってるんだけどね。だけど、その理由のせいでさ、ちゃんと医療を受けることができなかったってわけさ。多分きっと、銘仙の着物を着ているやつは、病院にいくら行っても、引き受けてくれないでしょ。それだから、いつまでもほっぽらかして、もう動けなくなっちゃってる。本当はそれじゃいけないのにね。でも日本社会って、優しくないよね。」

杉ちゃんはわざと笑いを浮かべて言った。

「そうなんだ、、、。じゃあうちの姉も、理由を話せば、治療を受けられるようになるのでしょうか?」

奈保子さんは杉ちゃんに言った。

「本来であれば、日本国民は法の下に平等なんですから、医療を受けることだってできますし、もし病院が治療を拒否するようであれば、人権侵害として、損害賠償を出させることだってできますよ。」

小久保さんが弁護士らしくそう言うと、

「そうだねえ。たしかにそれはそうなんだけどさあ。医療を受けるとか、そういうことは、ある程度、税金を収めているとか、ある程度、機械の使い方に慣れているとか、そういう事ができるやつじゃないとだめだってことは、水穂さんを見ればわかる。だから、法律なんて、何の役にも経たないよねえ、小久保さん。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうなんだ。銘仙の着物、、、。それを着ている人は、そうやって、差別されているですね。あの、それはどんなものなのでしょうか?よろしければ、その人にあってみたいです。姉に、治療を受けてもらうためのきっかけになってくれるかもしれないので。」

奈保子さんはそんな事を言い始めた。

「今頃、薬飲んで寝てると思うけどね。話はできないと思うぞ。噂をすれば、くしゃみをするが、水穂さんの場合は、咳をして畳を汚すから。」

杉ちゃんはそんな事を言うが、

「いえ、それならお会いしたほうがいいかもしれません。お互いにプラスの方向に働いてくれれば、水穂さんも、そして、お姉さんの小海信代さんもまえむきになってくれるかもしれません。」

と小久保さんが言った。そして、タクシーの運転手に、方向転換して富士駅に回してくれるように言った。運転手は驚いていたが、富士駅にちゃんとタクシーを動かしてくれた。杉ちゃんたちはタクシーを降りると、今度は、富士山エコトピア行のバスに乗り、そこで30分ほど乗って、富士かぐやの湯のバス停で降りた。そして、大きな日本旅館のような建物へ小海奈保子さんを連れて行った。その建物には、呼び鈴がなかったので、杉ちゃんは玄関の引き戸を叩いた。

「おーい、帰ってきたよ。今日はちょっとワケがあって、お客を二人連れてきたよ。」

杉ちゃんの声に、一人の女性が走ってくる音がした。応答したのは、今西由紀子であった。

「で?水穂さんの容態は?」

と杉ちゃんが言うと、

「ええ、今柳沢先生と一緒です。」

由紀子はすぐに答えた。

「それだけかい?電話したときはえらく慌てている様子だったけど?」

杉ちゃんが言うと、

「ええ、柳沢先生が、慌てても叫んでも何もならないって言ってましたから。」

と由紀子は、小さな声で言った。

「とにかく、こいつを水穂さんにあわせてくれ。小久保さんもだ。ちょっと事情があって連れてきた。意味はないかもしれないけれど、でも、連れてきたんだよ。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は、とりあえずあとの二人を中へ入れた。こういう人権とかそういうものにうるさい人は、由紀子はあまり好きではなかったけれど、でも、そういう人がいてくれるから、みんなが暮らしていけるんだと言うことは由紀子も知っていた。とりあえず、由紀子は、二人を四畳半へ通した。

四畳半では、水穂さんが咳き込みながら、柳沢先生に背中を擦ってもらっていた。水穂さんの布団の近くに、朱色の液体が散乱しているのは、赤墨をこぼしたわけでないというのは、小海奈保子さんはすぐわかってくれたようだ。小久保さんは水穂さんに大丈夫ですかと声をかけたが、水穂さんは咳き込んでいて答えなかった。柳沢先生が、水穂さんの背中を叩いて吐き出しやすくしてやって、水穂さんの口元に当てたちり紙が真っ赤に染まると、水穂さんは咳き込むのをやめてくれた。水穂さんが着用している、黄色の紺の縞模様の着物を、奈保子さんはしげしげと眺めていた。

「これが、銘仙の着物なんですね。そして、これを着用していると、辛い目に合わなくちゃならなくなるんだ。嫌でも。」

奈保子さんは、涙をこぼしてそう言っている。

「泣かなくていいんだよ。それより、現実を見てくれれば。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんは柳沢先生に、口元を拭き取ってもらって、そっと奈保子さんに頭を下げた。奈保子さんは、そんな事と思わず叫んでしまった。まだ、こういう人が居るんですねと小久保さんがつぶやくと、水穂さんは一言、

「ごめんなさい。」

と言った。

「それより、早く横になって休んで。眠って頂戴。」

と由紀子が、水穂さんに言うと、

「でも、せっかくお客さんが来てくれているのに、横になるのはちょっと。」

と、水穂さんは言うのだった。それが大変弱々しく、明らかに衰弱しているのがわかったし、由紀子の表情から、もうここにいないでほしいと分かった奈保子さんは、

「私、もう帰りますね。よく休んでください。静かに、休んでまたピアノを聞かせてあげてくださいね。」

と水穂さんに静かに言って帰る支度を始めた。小久保さんも

「水穂さんは、もう少し、人権を主張してもいいと思うですけどね。誰だって、医療を受ける権利はありますよ。」

と、水穂さんに心配そうに言って、帰る支度を始めた。二人は、小久保さんが用意してくれたタクシーで、御殿場に帰っていった。

「あの人、本当に可哀想というか、どうしようもない方なんですね。人間は、どうしても変えられないことって、結構あるんですね。」

帰りのタクシーの中で、小久保さんの隣に座った小海奈保子さんは、なんだか考えるように言った。

「ええ、あなたは若いから、なかなか理解が難しいかもしれないですけど、でも、そうならなくちゃならないことも、あるんですよね。」

小久保さんは、小海奈保子さんに言った。

「正直に言うと、私は姉に消えてほしいと思ったこともありました。あれだけ歌手として名声を持っているのに、気が付かないで落ち込んでばかりいて、そして、産んだばかりの圭祐くんを殺害してしまうなんて、姉が許せないと思ったこともありました。でもきっと姉は、私が知らないところでなにか辛い事情があったのかもしれません。だってあの人の後にあった楽譜を見てわかりました。あれだけ難しい曲を沢山持っているのだから、相当演奏技術無いとできないですよね。だけど、ああして、寝込んでしまうわけですから。」

「そうですか。あのピアニストの後にあった楽譜とは、誰のことですかね?」

と、小久保さんが言ってみると、

「決まってるじゃないですか。あたし、姉ほど音楽に詳しい訳ではないですけど、一応知ってますよ。レオポルド・ゴドフスキー。世界一、難しいピアノ曲を書く作曲家じゃないですか。」

小海奈保子さんはそういった。

「それだけは知っていらしたんですね。きっとそこを知っていれば、彼もまた喜んでくれると思いますよ。人間どうしても、変えられない事情を背負って生きてますからね。それを、皆さんお互いに話して共有できる世の中になることができたら、もう少し、犯罪が減るんじゃないかなと思いますけどね。」

小久保さんは、弁護士らしくそういう事を言った。

「また寒くなりそうですね。」

小海奈保子さんが、そういった。たしかに、風が突き抜けるように吹いている。確か明日が、クリスマス寒波のピークになるという。それを乗り越えれば、また暖かい季節がやってくる。それが、どれだけ続くかわからないし、中には寒波のせいで体調を崩す人も居るだろうけれど、それでも生きていくことは続けなければいけないのであった。

「まあねえ。人間は機械ではありませんから、簡単に何でもできるというのは、不自然ですよ。あの有名な書でもあるじゃないですか、躓いたっていいじゃないか、にんげんだもの。それが一番だと。」

小久保さんは、そう話を続けた。ふたりが乗ったタクシーは、風に煽られていたが、それでも頑張って動いているのだった。


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優しく歌って 増田朋美 @masubuchi4996

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