21 湯けむりの先にあるものとは⁉
宿屋に着いた時には日がすっかり暮れていた。
水分を含んだスライムは中々に重く、そのおかげで余計に汗を掻く。
どっと疲れた。
フェリーも口では何も言わないが、口から出る舌は雄弁で、疲れをあらわにしている。
水でも浴びたい気分だ。
そう考えていると、あることを思い出す。
「そういえばこの宿屋、風呂があるって話だったよな」
「そうだっけ」
「セシアちゃんが宿の紹介で話してたろう? それにお前が夜一人でトイレ行けないって起きて来た時にも見たじゃないか」
「オレ、漏らしそうでそんな余裕なかったよ」
どうやら本当に覚えていないらしい。
まあ、広い宿でもあるし、状況が状況だったから無理もないか。
風呂を見つけた経緯というのは深夜、急に起きてきたフェリーが幽霊が怖くてトイレに行けない、なんて言い出したことが発端だ。
時間が時間だ。深夜なんかに他の人間頼るというのも気が引けたから、宿の中をブラブラと歩きながらトイレを探していると、階段前の壁に宿の案内図を見つけたのだ。
案内図が張られているので察せると思うのだが、この宿はかなりの広さがある。
外見は普通の建物だが流石元お屋敷と言ったとこか。
そんなこんなで図を眺めているとトイレを無事見つけのだが、それと同時に風呂らしきマークを見つけた。
図によると、二階へと上がる階段の横にある通路を進むと中庭に出る扉があり、その扉を開けて、中庭に出るとすぐ目の前にある建物というのが風呂らしい。
見取り図を思い出しながら、通路を進み、中庭に出る。
そこにあったのは大きな池みたいなオブジェクトだった。
「これ、本当に風呂?」
フェリーは疑念の声を上げる。
石で周囲を囲まれて、色々な鉱石を使用した石畳が敷かれた水の溜り場。
傍から見ればただの池だ。
しかしここは異世界だ。これを風呂だと言われてもゴブリンやスライムを食べる事に比べたら、何らおかしな事はない。
「そうだ、これが風呂だ」
だからボクはこれを胸を張って言い切った。
池と言われてしまえば、まあ確かに池には見える。
けれど見方を少し変えれば、露天風呂と言われてみれば「まあ、確かに」と納得してもらえるだろう。
フェリーは確かめるように池に手を入れる。
「おっさん、これ普通の水なんですけど。ただの池なんですけど」
「知ってるか? 中世の時代、ヨーロッパの人達っていうのは基本的に川の冷たい水で体を洗ってたんだぜ? そう考えると風呂が水っていうのも不自然じゃないだろう」
水草が流れてくる。
「おっさん、なんか草浮いてるんだけど。ただの池なんじゃないか?」
「知ってるか? 水草にも色々種類があって水質をろ過してくれる物があるんだぜ。見ろ、ここの水。こんなにも透き通ってるじゃないか」
チャポン!
「おっさん、魚が跳ねたよ、やっぱただの池だよ」
「知ってるか? 人間の角質や古い皮膚を食べるドクターフィッシュなるものが存在するんだ。あの種の魚も淡水魚だったから、きっとここにもいるんだろう」
「無理だっつの‼ 流石にこれ、ただの池だよ‼ 一体どんなマーク見たらそこまで確信を持てるんだよ」
「楕円に、縦線を三つ書いたマーク」
「温泉マークじゃねえか」
「日本人なら入るしかないだろう?」
「確かに」
納得するのかよ。
あんなに水だの、草だの、魚だので文句を言っていたのに。
まあいい。とりあえず服を脱ごう。 汗やらスライムやらでベトベトだ。
服を脱いで縁に置くと水風呂にゆっくりと浸かる。
プールに入っていると思えばワクワクするじゃないか。
「はあー、気持ち良いな」
「オレからすれば川で遊んでいるのと何ら変わらないけどね」
「そうか、異世界だと湯船に浸かる機会はないのか」
「いや、そんなことはないぞ。ちょっと遠出をすれば温泉が湧いている場所があるんだ。ここ数年はご無沙汰だけどね」
温泉か、ボクも久しく行っていないな。
社会人になって以降、まともに遠出なんてしなかった。フェリーが言うようにこの世界にも温泉があるのだとすれば、一度は入ってみたいものだな。
温泉を想いながら、冷たい水を体に掛ける。
熱々のお湯は恋しいが、今はこの水風呂で我慢しよう。
「にしてもフェリー、普段はもこもこで気づかなかったが古傷が結構あるんだな」
「良いだろう? 男の勲章だぜ」
「特にその首の傷、凄いデカいな」
フェリーの首には大きな傷があった。
傷の様子からして、何か大きな動物にでも噛まれたような形をしていて、相当深かったのか傷の中で一番くっきりと残っている。
「ああ、これか。この傷は熊に噛まれて出来たものらしいぜ」
「らしいって、自分の事なのに随分と曖昧な言い方だな」
「それが幼い頃だったからか、覚えていないんだ。知ってることと言えば兄上が助けてくれたってことだけだ」
傷。
首元の傷。
普通であればそんなところを噛みつかれたら、死んでしまいそうなものだけれど、フェンリルというのはよほど頑丈な生き物と見える。
流石、森の主と言ったところだろう。
しかし、そんなフェンリルでも今日は疲れたらしく、大の字になって水に浸かる。
見ているとなんだか気持ちよさそうだ。どれ、自分も真似してみるか。
体を倒すと、ドッと疲れが滲み出るような気がした。
会話が一度止んだことで、静かな空間が降りてくる。
この宿は街の中にあったが、少し繁華街と離れていることと、周囲を壁で囲まれた中庭という構造が合わさり、静かな空間を作っていた。
周囲の音と言えば、ドラゴンの石像の口から噴水のように出る水が、川のせせらぎのように響くくらいだ。
水風呂の奥の方では、アロワナのような熱帯魚が風呂の中でゆったりと泳ぎ、時折大きく跳ねる。
「風情だねえ」
「そうっすねえ」
「何やってるんですか、二人とも」
ふと背中から声がした。
振り返ってみると、そこにはがまるで珍獣でも見てかるかのような顔をしたセシアちゃんがいた。
驚嘆と言うべきか、ドン引きと言うべきか、幻滅と言うべきか、まあなんとも言えない顔なこった。
「オレ達が何をやっているかって、見たままじゃないか」
「見たままと言われましても、あまり直視し難い姿なので見ただけでは分からないのですが。というより見たくない……」
「と言われてもなあ、水場に裸と言ったら、もう分かるだろう?」
「見て分からないから質問をしているとは、考えられないのですか?」
「風呂だよ、風呂」
「風呂……ですか」
ますます分からないという顔をするセシアちゃん。
「おっさん曰く宿の見取り図に楕円に縦三本線のマークがあったらしいんだけど……もしかして、風呂じゃない、とか言ってくれるなよ?」
「……ここ、池ですよ」
「ほらあ! やっぱり池じゃないか。聞いたか、おっさん!」
「馬鹿野郎、こんなん池に決まってるだろう!」
「なんで逆ギレ⁉」
「……あそこまで言ったからには引くに引けなかった」
まあ、普通に考えてそうだよな。
中庭に向いている窓からボク等の裸、全方位丸見えだもんな、これ。
「中途半端に博識だったのが仇になったな、おっさん」
「うっせえ」
「私はてっきりシスイさんとフェリーさんが昔いた村の風習かなにかなのかと思っていました。体を清めるみたいなことをするのかなと」
「風習といえば風習と言えなくはない、のか? ボク等の地域では楕円に縦三本線のマークは風呂って意味があってね、意地でも池だとは認めたくなかったんだよ」
普通に考えたら異世界に温泉マークなんてある訳がないのだ。
こんな初歩的なことを忘れてしまうとは、やれやれ油断してしまったぜ。
それもこれも、きっと疲れているからだ。
「いえいえ、風呂のマークと言う点は間違っていません」
「え、間違ってないの?」
「じゃあ、逆に聞くがここが風呂でないのなら、どこに風呂があるって言うんだ?」
「あそこに建っている小屋のような建物がそうですよ。私もついさっき出て来たところなので。今ならまだ温かいと思います」
セシアちゃんが指差す先には確かに木の小屋が立っていた。
外見は何と言うか、倉庫みたいな印象を受ける。周りを囲う建物と比べると何とも庶民的というか、質素な作りだ。
なるほど、こんなところにあったのか。すっかり見落としていた。
この池みたいに豪勢なものを想像したから、先入観であの小屋が風呂であるという考えに至らなかった。
「ようやく、湯船に浸かれるって訳だな」
「湯船? ああ、もしかしてシスイさんの村では湯の風呂だったのですか?」
「違うのか?」
「この地域で風呂と差すものは蒸し風呂なんです。なのでシスイさんが期待しているものはちょっと違うんです」
そうか、湯の風呂はないのか。いや、良いじゃないか。
蒸し風呂もサッパリするだろうし、疲れも取れるだろう。湯の風呂は次の機会のお楽しみということで、取っといておこうじゃないか。
「いや、何から何まですまないな。ありがとう、セシアちゃん」
「いえいえ、困っているならお互い様と言いますし。ですから、その……」
「何だ?」
「せめて、下を隠してください」
小屋の扉を開けると、目の前にもう一つの扉と籠がいくつか並んでいる脱衣所らしき作りの空間が広がっている。
もうすでに脱いである服を籠に入れると、熱気が手招きするように体を包む。
部屋は思っていたよりも広く、大人六人は余裕で入ることが出来そうな木で作られた空間。
部屋の真ん中には柵に囲まれた磨かれた岩のようなものが湯気を立てていて、こいつに水をかけて部屋の温度を調整すると見た。
「どっこいしょっと、ふぃ~……」
木の椅子に座ると深く息を吐く。
入る前はサウナみたいな熱々な空間を想像していたが、体感的に四〇度くらいで丁度良い。
「ああ、癒される」
「やっぱ、あったかいってのは大切なんだな」
「もう少し、温度を上げるか」
「あ、オレやりたい」
フェリーは水瓶から柄杓(ひしゃく)を取って岩に水をかける。
蒸気がむわっと立ち、視界がより白くなる。
体に付いた水滴が滴り落ちるのと同じように、疲れもまた落ちていきそうだ。
「はあ……いででででッ!」
案外そうでもなかったみたいだ。
肩と腰が尋常じゃないくらいに痛い。
ボクも歳ということか? いや認めん、認めんぞ。これを認めてしまったら、もはやおじいちゃんではないか。
百歩譲っておじさんは全然良い。若さがないと言われても認めよう。
しかしおじいちゃんと言われたら、もうお終いだ。
これは、アレだ。しばらく動かしていない所が悲鳴を上げているだけだ。そうに違いない。
ちょっと体をほぐせばきっと良くなるはずだ。
そう思って体を持ち上げようとするが、想像以上に重症なようで、なんか凄い痛い。
「……なあ、フェリー」
「どうした?」
「体を揉んでくれまいか。久々の運動だったせいか、あちこち痛くてたまらん」
「別に良いけど、あんまりやったことないから加減が分からないぞ」
「程よい加減で指圧したくれたら良い。ちょっと椅子に寝転がるから腰辺りを押してくれ」
「
座っていた長椅子に寝転がる。フェリーが後ろに回って、腰に指を置く。
グギギギギッ、ベキッ!!
鳴ってはいけない音がした。
「ぎぎゃああああああッ‼」
痛い、痛い、痛過ぎる!
多少の痛みなら許容した。痛みもまたほぐれている証みたいな物なのだから。
だが、これは違う。絶対違う。
万力で骨をすり潰されたような感じだ。もしかしたら本当に潰されているのではなかろうか。
忘れていた。こいつフェンリルだった。
人間なんかよりもバカみたいに力があるんだった。
「大丈夫か?」
「もっと、もっと優しいタッチで頼む」
「お、おう。頑張るぜ」
◆ ◆ ◆
そろそろセシアは風呂から出た頃だろう。
そう思ってリアックは06と描かれた部屋を出る。
階段を下りて、下の通路に出るとセシアが中庭に行こうとする姿が見えたため、呼び止める。
「セシア!」
「あら、リアック」
「まだ風呂入ってなかったのか? って髪は濡れてるな。どうして戻ってる?」
「忘れ物をしてしまったんです。石鹸を」
ああ、毎度毎度良い匂いがすると思ってはいたが、石鹸のせいだったのか。
横を通り過ぎるたびに香り立つから、汗が元々そういう匂いなのばかリ思っていたのだが、そうではないらしい。
「確か、風呂の中に置いてきてしまったのですが、今シスイさんとフェリーさんが入ってまして。どうしようかな」
「なら、僕が入るついでに取ってこようか」
「助かるわ。じゃあ、お願いしようかな」
そうして脱衣所まで来ると、服をぱっぱか脱いで適当に籠へとぶん投げる。
「一応、私がいるのですが」
「別に気にしないだろう? それに服着たままじゃ濡れちまうだろ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
一応、セシアに気を使ってタオルを腰に巻いた。
よし、準備完了。
そう思って風呂の扉を開けようと思った手をかけると———。
『ぎぎゃあああああああああッ‼』
悲鳴が聞こえた。
思わず、びっくりして二歩、三歩後ずさりする。
一体、何が起きたというのだろうか。
気になって扉を開けると、視界は蒸気で真っ白だ。
ただ、奥にいるであろうシスイのおっさんとフェリーのシルエットだけが映る。
うつ伏せになって一体何をしているのだろうか。
セシアも何があったか気になるようで、恐る恐る顔を覗かせる。
姿は見えないが、会話が聞こえる。
「ふっ、ふっ、ふっ、どうだ、おっさん。気持ち良いか?」
「ああ、最初は痛くて驚いたが、結構上手いじゃないか」
「そうか、じゃあオレ頑張るよ。ふっ、ふっ、ふっ」
「ああああ、良いねぇ。ああああッ!」
バタン。
僕とセシアは扉を閉める。
一体あれは何をやっているのだろうか。
湯けむりで良く見えなかったが、何か見てはいけないものを見てしまったような、謎の後ろめたさがある。
「……」
「……」
セシアと目を合わせる。心境は同じだろう。もしかしたら見間違いかもしれない。
というか、頼むから見間違いであってくれ。
そうした願いを込めて、再び扉を開ける。
そして、もう少し踏み込んで目を凝らしてみる。
湯けむりに映るシルエット。寝転がる影に対して、もう一つの影が上下に反復運動をする。
「こうか? こうすれば良いのか⁉」
「そうだ、もっと激しくだ。全身を使って、でも優しさを忘れず、いででででッ! いや、むしろ痛いのが気持ち良いまである!」
「ほお、おっさんの弱点知っちまったぜ。ここか、ここが良いのか?」
「くおおっ、ひぎぃ……おぬし、やりおるではないか、ぐほっ」
本当に一体ナニをヤッているんだあ⁉
まさか、そういう関係だとでもいうのだろうか。
(……これは邪魔してはダメかもしれませんね)
(お、おう。僕達は何も見なかったってことにしておこう……)
そうして気づかれないように、こっそりと部屋を後にしようとする。
すると、足元に何か踏んだような感触。
つるん———
瞬間、僕の体は宙に投げ出されるように態勢を崩す。
宙を舞うその刹那、見えたのは石鹸だった。
もう、駄目じゃないかセシア。こんなところに石鹸を置いたら、怪我をしてしまうだろう?
そして「ドンッ‼」という大きな音と共に倒れてしまう。
「いちちちち……あっ」
二つのシルエットがこちらを向く。
「おや、リアック君じゃないか」
「お、丁度良い所に来たじゃないか、リアック。お前も一緒に体をほぐし合おうじゃないか」
「あ、い、いや、結構です!」
そういって外に逃げようとすると、ガシッっと足首を掴まれてしまう。
「裸の付き合いしようじゃないか~」
「良いではないか、良いではないか~」
「嫌だああああああああ‼」
ずるずると白い地獄へと引きずり込んでくる悪魔達。
抵抗するように扉の枠を握りしめ、セシアに助けを求める。
「た、助けてくれ‼ このままじゃ、僕も餌食にされてしまう‼」
「……」
「頼む、早くこの手を握ってくれッ‼ そろそろ手が限界だ」
僕はセシアに手を伸ばすが、一向にその手を取る気配を見せない。
一体、どういうつもりなのだろうか?
セシアは考えていた。
私が手を取ったとして、獣人と大の大人と綱引きで勝てるのかどうか、と。
「……」
「……」
「ごめん」
「セシアさん⁉」
彼女は踵を返して、立ち去ろうとしていた。
「ちょ、待って! 置いてかないで! セシアさん! セシアさああああんッ‼ セシアさあああああああああああん‼」
やがて、握力に限界が来て枠から手を離してしまう。
「うあああああああああああああああッ———‼」
悲鳴と共に部屋へと飲み込まれていくリアックを横目に、セシアは走り出していた。
中庭を駆け抜ける最中、セシアは心中でリアックに謝罪する。
ごめん。
本当にごめんなさい。
でも、私にはアレを助けることはできないわ!
リアックの悲鳴は中庭に響く。
しかしセシアが部屋に戻る頃には、リアックの悲鳴は聞こえなくなっていた。
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