シャロンは気づいていなかった最低なジェリーが最高のジェリーフィッシュだったことに

はなまる

裏切られたと思っていたのに…

 シャロン・グロスは耳を疑った。


 「編集長、本当にわたしが?」シャロンは目を丸くして編集長に行ったことを頭の中で反芻していた。


 編集長のジェームスは言った。


 「ああ、もちろんだよシャロン。君はいつも頑張っている。僕がそれを見逃していたとでも?急にマシューが家の都合で引っ越すことになってバクスターの担当者が必要なんだ。それで君になら任せられると思ったんだよ」


 「ああ…バクスターってあの今人気急上昇中の作家ですよね?その担当者にわたしなんかがいいんですか?」


 嘘!夢みたいだわ。ウォルトブックスに入って3年、カレッジしか出ていないわたしは、インターンシップから始まり、その後は番組のリサーチ、そのほかもろもろな雑用をこなしてきた。


 つい半年前にやっと編集アシスタントに格上げされて今まさに編集部の花形とも言える作家担当者に抜擢された。


 「ああ、他の担当者は今は手いっぱいで君しかいないんだ。どうだシャロン、やってみる気はあるか?」


 「はい、喜んでやらせていただきます。編集長ありがとうございます」シャロンは喜びに溢れた顔でジェームスを見た。


 「じゃあ、早速マシューから詳しいことを聞いてくれ」


 「わかりました」


 わたしがウォルトブックスに入ったのは、たまたまインターンの募集を見たからで最初は編集部の仕事に興味はなかった。だけどいろいろな仕事をこなしていくうちにいつしか自分も編集者として作者の手伝いが出来たらいいのにと思うようになっていた。


 ほんとにいつの間にわたしが?


 あいつが目指していた作家の手伝いがしたいだなんて…


 ジェリー・ブッシュ。わたしの夫だった男…それは最悪の結婚生活だった。


 わたしは3年前彼と出会って一瞬で恋に落ちた。それまでのわたしはくそ真面目ながり勉で、ハイスクールの頃は、カレッジスクールに行くための奨学金免除を獲得するため、カレッジスクールに通っている時は、とにかくいい会社に入るために勉強に没頭した。


 そしてカレッジに入るとひとり暮らしを始めたのでアルバイトも忙しかった。カレッジスクールに通いながら、ダイナーで深夜までアルバイトをした。ダイナーの仕事はきつかったが、食事にありつけるのですごくありがたかった。帰りには残り物をもらえておかげで翌日の昼食も困ることはなかった。



 だがおかげで男の子と遊んだりデートをする余裕はわたしには全くと言っていいほどなかった


 そんなわたしはウォルトブックスに入って3カ月がたったころ、仕事仲間と一緒にバーに行った。


 ちょうどインターンの期間が終わってわたしは正社員として雇用されたばかりだった。


 そこのバーテンダーをしていたのがジェリーだった。彼はすごくハンサムで女の子からも人気らしく、彼のそばには女の子たちが群がっていた。なのに…そんな女の子を難なく相手にするようなプレイボーイに恋をしてしまった。それがそもそもの間違いだった。


 だけどうぶなわたしは真っ逆さまに…


 彼の濃いまつ毛に縁どられた魅力的なグレイの瞳に…


 もはや磁石で惹きつけて吸い寄せられる砂鉄のように…


 彼の虜になってしまった…


 そう…彼は作家志望で小説を書いていた。


 そしてある日彼がわたしの家に転がり込んできた。


 「シャロン頼む。女の所から追い出された。君と付き合ったことがばれた。だからここにしばらく置いてくれないか?」それが悪夢の始まりとも気づかずわたしは大喜びで彼を狭いアパートメントの中に招き入れたのだ。


 バージンを捧げた男と言うのはこれほど女にとって大切な存在になってしまうものだろうか?


 今思えばおぞましき勘違いだった。


 悪名高き、能なしジェリーフィッシュ……これはわたしが彼に突けたあだ名だが…海を漂うクラゲのように、彼はわたしの望む安定した暮らしをするタイプではなかった。


 そして女友達は相変わらずいっぱいいたし…わたしはその他大勢のひとりにすぎなかったのだから…


 もう忘れなさい。こんなラッキーな話の日にこんなこと思い出すなんて、どうかしてる。


 わたしの人生はこれからバラ色に輝くのよ。あんな下らない奴のことなんか。きれいさっぱり忘れてしまうのよ!


 シャロンはそう思い直すと、ジェリーの記憶をきれいさっぱり脳から押し流した。



 早速マシューと一緒に、作家のバクスターのところに挨拶に行った。


 彼は1年ほど前に、”暗闇の掟”という初めて出した推理小説が、ネットで大評判になるとあっという間に10万部という数字をたたき出した。


 その後も2作目”マンチェスターの屍”が発売するなり20万部を超えた。その後も次から次へと新作を発表してその勢いは今やスーパーマンでも止められないのではと言われるほどだった。


 ウォルトブックスでも、彼の小説をウィークリーブスに掲載中だった。そしてマシューはその小説の担当者だった。


 マシューは40代半ばの結構やり手の編集員だった。


 そもそもマシューより前にも何人かの編集員がバクスターの担当者になったが、彼が直接原稿のやり取りをするにあたって、どの担当者も気難しい彼とうまく付き合えず、とうとうマシューの担当になったのだった。



 そんなこととは知らないシャロンは、意気揚々と今回の仕事に張り切っていた。


 「いいシャロン。バクスターは気分屋だ。調子のいいときは原稿がすぐに仕上がるけど、ちょっとつまずくと仕上がりが遅くなる。


 だからそんなときは彼の神経を逆なでしないよう彼の機嫌を取らなくちゃならない。彼はそれを女性で発散するときもあれば、食事や些細なゲームなんかですむときもある。


 とにかく彼の気分はころころ変わるから、あまり神経質にならずに気長に付き合う方がいい。


 「はい。それでマシュー…彼の女性で発散するって言うのはもちろんわたしにその役目をしろってことじゃないですよね?」もしかしてそれでわたしが選ばれたんじゃないでしょうね。もしそうなら冗談じゃないわ!


 「もちろんだよシャロン。君は出版社の人間だ。そんな関係になったら問題だ。彼には昔から女性を引き付ける力があるみたいで、彼曰く、金に困っても女には不自由したことがないそうだ」マシューは黒縁の眼鏡の奥で、瞬きをしてため息をついた。



 シャロンは、バクスターと言う男性が傲慢で嫌な奴だと確信した。


 「まあ、個人的には、バクスターってすごく嫌な人みたいだけど、これも仕事だもの。わたしはとにかく彼から原稿を頂ければそれでいいんだし、彼の私生活に立ち入ろうなんて思ってもないから…でも最近ではどの作家もパソコンで原稿はメールで送ってくるはずじゃないのかしら?こうやって取りに行くのは珍しいんじゃないんですか?」


 「ああ、もっともだ。こちらもパソコンを用意すると言ったんだが、彼はパソコンは使わない主義だって聞かないんだ。原稿をメールで送ってくれればこんな面倒なことをしなくても済むのに…」


 まったく!


 という声さえ聞こえてきそうだ。いつもは礼儀正しく自信を持ったマシューがこんないら立ちを見せるなんて、バクスターって相当嫌なやつなんだわ。


 それなのに…わたしなんかが担当者になってうまくやっていけるのかしら?


 何言ってるのよ。まだ始まってもいないことでくよくよしても仕方ないじゃない。とにかく彼とは真摯に向き合って、信頼を得るしかないわ。



 シャロンの家は、シングルマザーの家で、すごく貧しい家庭環境だった。そんな環境で育つうち、彼女は将来は安定した職業についてお金に心配のない生活を送りたいと思うようになった。


 わたしはこれくらいのことで弱音を吐くようなやわには出来てなんかないんだから…



 マシューがここだと合図した。


 そのビルは豪華なコンドミニアムで、建てられてまだ数年のマンションだった。


 地上20階、プールやジムも併設されていて、コンシェルジュもいるマンション。


 大きなガラス張りの扉を開けると、ぴかぴかの黒い大理石の床。拭き抜け天井。煌びやかなシャンデリアが出迎えた。その豪華な入り口を入ると、セキュリティが完璧に完備された入り口でマシューがチャイムを押した。


 「どなた?」


 「お約束していますウォルトブックスのマシュー・ボイトです。Mr.ゴルドー…」


 「ああ、もうそんな時間か…どうぞ入って」


 ドアが開きふたりは中に入った。コンシェルジュと目が合うと向こうが頭を下げた。


 わたしたちも挨拶をしてエレベーターに乗った。


 「何階ですか?」


 「5階だ。彼はつい最近このコンドミニアムを買ったんだ」


 「ええ、そうでしょうね。でも5階?彼ほどの収入があれば最上階でも帰るんじゃ?」シャロンは、そう言いながらもゴールドに輝く豪華なエレベーターにもうっとりした。


 「シャロン、ニューヨークのコンドミニアムがどれくらいするか知ってるのか?このマンションを買えるだけでもすごいことなんだから」


 「ええ、そうですよね。ここがニューヨークってことを忘れてました」バクスターは成功者ってことね。


 でもわたしはそんな高望みをしたところでかなうはずもない。しがない編集者としてコツコツ働くしかない。それでもこの仕事なら安定しているんだもの。文句を言わないの!



 5階に着くとエレベーターの扉が開いた。シャロンはうっかりしてつんのめった。


 「噓…」履きなれないハイヒールのかかとが、エレベーターの溝に引っかかって転びそうになった。


 マシューが手をつかんでくれたので転ばずに済んだ。だが、運の悪いことにシャロンはコンタクトを落とした。彼女は極度の近眼で、コンタクトかメガネがなければ、人物の輪郭はわかっても顔までは良く見えない。


 「シャロン大丈夫か?」


 「マシューどうしよう…コンタクトが…」


 「けがはない?」


 「ええ、あなたが手をつかんでくれたから、でもこれじゃバクスターの顔が分からないわ」


 「まあ、今日は挨拶だけだから、いいんじゃないか。紹介が済めば今日は帰るから、向こうが君の顔を知ってくれればいいんだから」


 「ええ、まあそうですけど…」わたしだってバクスターの顔が知りたいのに…そんな嫌な奴の顔がどんなか見たかった。きっとはげで太ってるわね。



 まごまごしているうちに、ドアから彼が出て来た。きっとわたしが騒いだからだわ。


 「やあ、マシュー何かあったのか?」バクスターが声をかけた。


 「ああ、Mr.ゴルドー、いえ、何でもありません。シャロンがつまずいただけですから」


 「つまずいた?ああ。女性はよくやるんだ。ハイヒールのかかとでもひっかけたんだろう?」バクスターが笑いながら近づいてきたらしい。



 「いきなりご心配かけてすみません。あの…Mr.ゴルドー今度ウィークリーブスの担当をさせていただくシャロン・グロスです。どうぞよろしくお願いします」なによ!シャロンは顔をしかめた。そんなこと言うなんて、いつも女性が来てるってことね…


 シャロンは吐き気がしたが、彼は大金持ちで有名人なんだもの…そんなの当たり前じゃないと思い直した。


 自分には関係ないわって言う顔をして、おぼろげな形しか見えない彼の方をまっすぐ見た。


 「ああ、君が担当のシャロン・グロス?待て…シャロン・グロスだって?」


 「あのシャロンをご存知なんですか?」マシューが驚いた。


 バクスターはシャロンを見つめている。


 シャロンは、バクスターの顔がほとんど見えていなかった。彼が驚いた顔をしたことに全く気付いていなかった。


 バクスターのグレイの瞳は、シャロンをまじまじと見つめている。彼の視線は彼女に釘付けになっていた。


 「あの…Mr.ゴルドーわたしをご存知なんですか?」


 「あの…君は僕がわからない?」どうしてシャロンがここに?


 「実はコンタクトを落としてしまって、今はぼんやりとしか見えなくて…すみません」


 バクスターはほっとしたような表情をした。そうだった。彼女は目がすごく悪かった。



 「マシューちょっといいかな」バクスターはマシューを手招きで呼ぶと彼に耳打ちをした。


 「どうしても君が担当を外れないとだめなのか?悪いけどあんな若い女性じゃどうも頼りなくてね」バクスターはシャロンに聞こえないように耳打ちする。


 「申し訳ありません。わたしも家の引っ越しでニューヨークを離れるので、今すぐは他の担当者も空きがなくて…Mr.ゴルドーもしよかったらパソコンをご用意しましょうか?そうすれば担当者と会うことは、滅多にないと思いますが…」その方が好都合だ。マシューは返事を期待して待った。


 「いや、パソコンは結構!悪いがジェームスになるべく早く担当者を変えるように伝えてくれないか?出来れば男性がいいと…」


 「シャロンが若すぎるってことですか?まあ、彼女は魅力的ですし、でもシャロンは真面目できっちりしていますから心配ないと思いますが…」


 マシューにはバクスターの瞳が銀色に光ったかのように見えた。


 「いや、そんなつもりは毛頭ない。だったらもういい!じゃあ顔合わせは済んだから引き取ってくれ!」バクスターは苛立ちをあらわにして言った。


 「いえ、もちろんそんなことはわかっています。ではMr.ゴルドーよろしくお願いします。シャロンもう失礼しよう。彼は忙しいそうだから…」


 「そうですか?どうもすみませんMr.ゴルドー。次は眼鏡も持ってきておきます。ではよろしくお願いします。失礼します」シャロンは頭を下げるとマシューに腕を取られてエレベーターに乗った。




 バクスターはふたりがエレベーターに乗って扉が閉まると、部屋に戻った。


 まさかシャロンと会うなんて…今さらどうってことないさ。彼女とはもう2年半前に終わったんだ。それも彼女が僕を追い出したんだ。僕から別れを切り出したわけじゃない。気にすることは何もないはずだ。


 僕は結婚までしたんだ。なのにシャロンときたら…まったく!


 いいからあんな女のことなんか頭から追い出すんだ!


 彼は今までも何度も自分にそう言い聞かせてきた。


 シャロンと会ったからと言って、何も変わることはない。ただの雑誌の編集者というだけで…


 マシューの言う通りパソコンを使えるようになるべきか?


 バクスターは、新作の小説に取り掛かったばかりでさっきまで調子が良かった。だがシャロンのことを考えると何も考えられなくなり、一気に調子が狂ってしまった。


 クッソ!何を今さら…


 長い間ふたをしていた感情が知らないうちに…


 じわじわ染み出るインクように、彼の心を覆っていった。



 シャロンは、帰りの車の中で何かがおかしい気がしていた。あの声どこかで聞いたことがあるような…


 バクスターにシャロンと呼ばれた時、なぜか耳の奥で懐かしい気がした。どこかで聞いたような声。僕が分からないのかって聞いたバクスターのしゃべり方も聞き覚えがあるような…


 まさか…よく似た声なんていくらでもあるし、きっと緊張したせいよ。シャロンはそこで考えるのをやめた。


 今日は嫌なことを考えるのはやめるべきよ…



 「シャロン、今日はみんなと一緒に食べに行かないか?僕はみんなと食べれるのも最後だろうし、君も来るだろう?」


 「ええ、もちろんよマシュー」


 シャロンは即座にオッケーした。どうせ帰ってもひとりなのだから…



 それから数日後マシューはシカゴに転勤した。


 シャロンは、あらためてバクスターのところに向かっていた。


 今日は眼鏡も持ってきたし、彼には今週中に原稿をお願いしますって頼むことと、原稿の進み具合を見るのも今日の仕事だった。もし彼の仕事が進んでいないようなら、なにか彼の手伝いをした方がいいのだろうか?


 そんなことを考えながらシャロンは彼のマンションのチャイムを鳴らした。



 「Mr.ゴルドー。お約束していますウォルトブックスのシャロン・グロスですが…」


 「ああ、君か…」そう返事が返って来ると入り口のドアが開いた。


 シャロンはエレベーターで5階に上がると彼の家のドアをノックした。


 バクスターがドアを開けてくれたのでシャロンは、部屋に入った。その部屋はシャロンが思い描いているような部屋だった。


 「失礼します。ミスターゴルドー今日はよろしくお願いします」


 「ああ、シャロン、まあ、入ってくれ、何か飲み物でも持ってこよう。あっソファーに座ってて。それに僕のことはバクスターと呼んでくれないか…」


 彼はシャロンをまともに見る暇もなく、すぐにキッチンに行ってしまった。


 真っ白い壁、大理石の床、広いリビングに大きな最新式の暖炉、広い大きな窓からは、近くにある公園の木立が見えてとてもいい景色だった。


 だが、装飾品はほとんどなかった。必要最小限度のソファーやテーブルはあったが、お金持ちの家にありそうな絵画や彫刻などのような類は全くなかった。まるで家具屋のモデルルームみたいだった。いや、家具売り場でさえ花くらいはある。



 シャロンは部屋を見回すと、言われた通りソファーに座った。すぐにバクスターがトレイにコーヒーを入れて持ってきた。


 シャロンはその時初めてバクスターの顔をはっきりと見た。


 「あなたは…あなた…ジェリーじゃない。一体ここで何してるのよ!」シャロンは驚いて大きな声を出していた。


 「シャロン、そんなに驚くなよ。僕がバクスター・ゴルドーなんだから…」


 「噓よ。彼のような小説があなたになんか書けるはずないわ」


 「噓じゃない。あの小説はどれも僕が書いた。君だって僕が作家になると言ってたのを知ってるだろう?僕は本気だった。君と別れてからも諦めなかった」


 そうシャロン、君を見返そうと思った。君は僕を信じてくれなかった。でもあの頃の僕を見れば信じられなかったのも無理はないが…でも僕は君にだけは信じてほしかった。まあいいさ、もう過去のことだ。何を今さら…



 「そういえばバクスターってプロフィールが謎だったわ。それでわたし気づかなかったのね」もうなんて馬鹿なの。先日来た時コンタクトさえなくしてなかったら彼だって気づいたのに…でもジェリーはわたしに気づいたはず、じゃあどうしてあの時はっきり言わなかったのよ?


 そうよ。きっとわたしに仕返しするつもりなんだわ。あの時わたしが彼を追い出したから…


 でも離婚届にだって彼は何の迷いもなくすぐにサインしたじゃない。


 いいわよ。あなたがその気なら受けて立とうじゃない。わたしに悪いところなんかないんだから…


 あなたはろくに仕事もせず、わたしの家に転がり込んできて生活費もほとんどわたし持ちだったじゃない。それに女とは縁が切れなかったみたいだったし、土日は楽しくバーで働きながらナンパもしてたくせに…


 シャロンの心にはあの頃の憎しみが戻ってきて、たちまち彼が憎たらしくなった。


 「ずいぶん出世したのね。あの頃はジェリーフィッシュだったくせに…」


 「ジェリーフィッシュって言うな!僕の名前はジェリー・ブッシュだ」


 「ええ、そうだったわ。ジェリー・ブッシュ…わたしたちの関係はもうとっくに終わった話だから、早速仕事の話をお願いするわ。原稿はどうでしょう先生?」シャロンは嫌味たっぷりに彼に言う。


 「ああ、そうだな。原稿はほぼ出来上がっている。後は最後の仕上げってところだ。それよりランチにでも行かないか?僕は朝から何も食べてないんだ」


 「じゃあ、わたしは失礼するわ。原稿は金曜日に取りに伺ってもよろしいでしょうか?」とんでもない…彼とランチなんて…


 「帰るならいいじゃないか、ランチぐらい付き合えば…それとも僕が恐いのか?」


 「まさか…あなたが恐いなんて」シャロンは首を振ると、また彼を見据えた。


 ジェリーが真っ白い歯を見せて笑っていた。わたしがその笑顔に弱いって知ってるくせに…



 シャロンは、まともに彼のその笑顔を見たのはいつのことだっただろうと思った。付き合い始めたころは、彼の全てが好きでたまらなかった。 


 初めて彼と結ばれたのは、バーのトイレの中だった。彼はいきなりわたしを求めてきた。わたしは抗うことなどできなかった。熱いキスで頭は朦朧としていたし、彼の舌がわたしの口の中で暴れ回ってわたしはアドレナリンのたぎった入れ物みたいになっていたもの…


 彼が洗面台の上に腰をかけさすと、いきなりショーツを引き下げ、自分の高まりを…


 わたしはいきなりで悲鳴を上げた。痛みで体が焼け付きそうで…彼がキスしてくれなかったらわたしはきっと我慢できなかっただろう。


 そして彼がわたしがバージンと気づいたときにはもう手遅れだった。


 でもそれがきっかけでわたしたちは付き合い始めたのだから…



 シャロンはまだジェリーが好きだった。決して嫌いで別れたわけではなかった。彼があまりにも信じれなくなって、もう彼といることが辛すぎた。だからケンカになった時ジェリーに出て行ってくれと、離婚したいと言った。


 あの頃はただ彼といることが辛かった。でも別れると彼にもう会えないことが辛くてたまらなかった。


 でも彼とのことは過ちだった。そんなことわかってるはずよと自分に言い聞かせて来た。彼はわたしを愛していたわけではないのだから…



 シャロンは、ジェリーを見つめていた。彼の顔には、あの頃なかったしわが出来ていた。笑うと目尻には細かいしわがあった。それに前より痩せた気もする。それでもあの銀色のセクシーな瞳や筋の通った鼻、官能的な唇、少しカールした黒髪、どれも魅力的なままだった。


 シャロンは気づかないうちに、唇を舌で濡らした。舌を少し出して唇を舐めようとした唇を噛んだ。


 こんなこと思っちゃだめ!彼とはもう他人なんだから…ジェリーが何をしていようとわたしには関係ないことよ!



 わたしたちは部屋を出ると、ランチをするために近くのイタリアンレストランに入った。


 「シャロン、何にする?」バクスターはすぐに席につくと即座に聞いた。


 彼はシャロンのしぐさにぞくぞくする気持ちを抑えられなかった。さっき彼女が舌を出した時は…もう…思い出しただけで股間に血流が流れ込む。こんなことで興奮するなんてクッソ!どうかしている。そのせいですぐに席についた。


 「そうね…」イタリアンか…リゾットにする?それともパスタかしら?どっちが安いのかしら?ランチにお金をかけるなんてもったいない…


 「シャロンはエビとアボガドのジェノベーゼにしたら?僕も同じものにするから」彼は何か違うことを考えようとシャロンがまごついている間に話しかけた。



 シャロンは驚いた。それって…わたしの大好きだったパスタじゃない…ジュリーったら今でもそのことを覚えていたの?


 そんなことを思ったせいで顔が熱くなった。


 「シャロン君は今でも照れると頬を染めるんだな…」真向かいに座った彼がそんなわたしを見つめている。


 「ち、違うわ!バクスターわたしが好きだったものを覚えていたくらいで、いい気にならないで!わたしを手なずけようたってそうはいかないんだから…」わたしは顔を背けると、着ていたスーツの上着を脱いだ。確かに今日はいいお天気で、気温も高いからよ。


 濃紺のパンツスーツは、シャロンにしては珍しく大金をはたいて買ったものだった。ツイードの仕立ての良いスーツで、何かあるときはこれが重宝していた。



 「シャロン…」彼の声がつまった。彼女が好きだったジェノベーゼ。僕は自然にそれを頼んだのか…いつしかまじまじと彼女を見つめていた。


 「何よ!そんなに気安く呼ばないでよ!」彼にその名前を呼ばれるたびに、あの頃の甘い時間を思い出して、勝手に肌があわ立っていく。



 わたしはすっかり忘れていた、スーツの下にノースリーブの白いシルクのブラウスを着ていたことを…上着を脱ぐことはないと思っていた。


 それに右腕の上腕には、彼といれたタトゥーが今もはっきり残っていた。


 jyeryloveの文字がくっきりと…


 「それに…そのタトゥーも…」彼がTシャツの腕をまくった。彼の右腕にもsyaronloveの文字がはっきり残っていた。


 「当たり前じゃない。これは一生消えないのよ。あなたが恋しいわけでも何でもないわ」わたしはどぎまぎしていた。


 「後悔してるのか?僕の名前を入れたこと…」彼が銀色の瞳でわたしと視線を合わせた。


 ああ…もうやめて。どうしてそんな潤んだ瞳でわたしを見つめるのよ…



 「もうやめてそんな話をするのは、ここに来たのは仕事での付き合いだからで、個人的な話をするためじゃないわ」何を期待しているのよ!ジェリーとの間に何かあるなんて…そんなことあるわけないのに…


 その時、ウェイターが料理を持って来た。


 シャロンは頼んだ料理を食べずに帰るつもりはなかった。


 黙ってフォークを取ると、パスタをくるくる巻き付けて口に運んだ。


 エビとアボガドのジェノベーゼはたまらなく絶品だった。


 ジェリーとよく食べに行くのはもったいないからと、エビなしのジェノベーゼを作って食べた。あの頃はそれで幸せだったのに…


 突然そんなことが思い出されて、シャロンは慌ててその記憶を叩き潰した。


 彼も黙って食べ始めた。


 シャロンは、一気にパスタを食べ終わると、バッグを探り始めた。


 「何してる?もしかして僕に連絡先でも?」


 「お金を出してるに決まってるじゃない。なによ。あなたに連絡先を教えようなんて、そんなことあるわけないから…」


 「お金は僕が払う。誘ったのは僕だ」彼が怒ったように言った。


 「あら、お構いなく。そうだわ、ここは一緒に払って会社の経費にするから」シャロンは立ちあがると明細をつかんだ。


 「じゃあバクスター金曜日の午後に伺いますから。わたしはこれで失礼します」シャロンは足早にレジに向かった。



 「待てよシャロン。そんなに急いで帰らなくてもいいじゃないか。君を襲うほどぼくが女に困っていると思うか?僕が女に困らないことくらい知ってるだろう?」僕は彼女のよそよそしい態度に腹を立てていた。もしかしてまだ僕のことを…なんてあるはずがないじゃないか!


 ジェリーは自分の意外な反応に驚いた。何を考えているんだ。シャロンが僕を嫌っていることくらいわかっているはずだ。ああ、こんな女を愛した僕がばかだった。二度とシャロンを誘わないさ。



 「ええ、よく知ってるわ。あなたあの頃とちっとも変わってなさそうでよかったわ。わたしはあの時みたいな勘違いを二度とするつもりはないの。ジェリー急いでるんじゃないの。あなたが嫌いなだけ。じゃあ失礼するから…」


 シャロンは支払いを済ませると、領収書ももらわずに表に飛び出すと、急いで地下鉄の階段を駆け下りた。


 滑り込んできた電車に飛び乗ると、やっと後ろを振り返った。誰もいなかった。


 ばかみたい…ジェリーが追いかけてくるとでも思ったの?



 電車の椅子に座って、そんなことを期待していた自分が嫌になった。彼は今でもあの頃と同じよ。女はいくらでも言い寄ってきて…


 それにお金持ちで有名になったんだもの、前よりもっとプレイボーイに拍車がかかっているわよ。


 本当に嫌な奴!


 ジェリーなんか大っ嫌い!



 だが、アッパーマンハッタンの粗末なアパートメントに帰ってひとり寂しくベッドに入るころには、シャロンはジェリーと過ごした頃のことを思い出していた。


 知り合っていきなり同居を始めて、彼には驚かされるばかりだった。何しろジェリーの荷物はスーツケースと大きなディパックだけだった。彼の衣類は7、8枚程度で他には、タイプライターと本があるだけだった。


 「ジェリーって荷物はこれだけ?」


 「ああ、僕は住まいを持ってないんだ。いつも気の合う友達のところに一緒に住まわせてもらっていたから」


 「でも、前はきちんとした仕事をしてたんでしょう?」


 「いや、大学を中退してからは、ずっとアルバイトで食べて来た。食費と本代が稼げればやっていけるから」


 「それであなた何をするつもりなの?」


 「僕は作家になりたいんだ。そのために今も小説を書いてるんだ」


 「だから、適当に女のところに転がり込んでるの?」わたしはあえて女と言ってみた。だが彼は否定しなかった。


 「ああ、今まではね。でもシャロン僕は君とのことは本気だよ。嘘じゃないいずれ結婚したいと思ってるんだ」


 「そんなの…わたしたち知り合ってまだ2週間なのよ。そんなこと決めるなんておかしいわ」わたしは驚いて、心臓が飛び跳ねた。彼と結婚?そんなことを思うだけで辺りが銀色の世界に見え、心は羽のように舞い上がった。


 そして彼の唇が重なると、何もかもがばら色になった。


 脳は新たな領域に入り、今までの常識はすべて覆されると、新しい情報を上書きした。


 彼の全てが正しいと思えた。


 その1週間後にはわたしたちは入籍をしていた。


 初めての男。初めてのセックスはわたしを虜にした。


 彼はたくさんの女を相手にして来たからかどうかはわからないが、彼はわたしの眠っていた欲望を引き出したちまちのうちに燃え上がらせた。彼の巧みな愛撫はわたしを狂わせ、わたしは快楽の泉に溺れた。


 そう…4か月はわたしたちは毎晩燃え上がる恋の炎に包まれていた。愛を交わし愛の言葉を重ねた。


 彼のささやきは悪魔の呪文だったとも知らずに…


 わたしは彼に言われるままだった。彼に求められればどんな嫌なことでも我慢した。ほんとに呆れるわ。わたしは何でも彼が望めば差しだしたのだから…




 なのに…わたしはベッドの上で、知らないうちにパジャマのズボンの中に手を忍ばすとショーツの中に指がさまよい始める。


 ジェリーのあの指先を思い出すと、たまらなくなり、指先が一


 彼はわたしを何度も狂おしいほどの絶頂に導いた。


 ああ…もうたまらない…


 わたしはもっと感じたくて、何度もそれを繰り返す、そこが激しく痺れてきて気持ちがよくなった。


 長い息を吐きだすと気分は瞬く間に急降下した。わたしはいきなり現実に引き戻される。


 ばか!ばか!ばか!


 もう何だってこんなこと…ジェリーのことなんか…


 そうよ、あの後どうなったか考えて見なさいよ。



 わたしはそれからしばらくして彼に内緒で彼のアルバイト先のバーに出かけた。


 彼はずっと週末だけバーテンダーとしてアルバイトをしていた。


 「僕だって少しは働くよ。本も必要だし食費の一部くらいは出すから…」


 「ええ、ジェリーがそう言うなら、実はわたしもちょっときついの」彼の優しさがわたしはうれしかった。


 でもアルバイトはお金のためじゃなかったと気づくまでは…



 わたしは彼に気づかれないように、バーの隅っこの席に座った。そして愛するジェリーが働く姿を見ていた。カウンターできびきびと働く彼は頼もしかった。でもそのうち彼のいるカウンター席の前にブロンド美人が座った。


 その女性はジェリーに気があるみたいで、彼に声をかけて話を始めた。ジェリーは楽しそうに話をしている。わたしだってそれが営業スマイルだって思っていた。


 でもそのうちその女性が気分が悪いとか言い出して、ジェリーは彼女に付き添ってトイレに行った。それから15分?20分?ふたりは帰って来なかった。そしてふたりが一緒に帰って来た時…彼女の髪はくしゃくしゃで服も乱れていた。


 ジェリーは何もなかったような顔をしていたが、それが何を意味しているかくらい誰にでもわかることだった。



 わたしはその時初めて彼がいつもそうやって女とセックスを楽しんでいることを知った。わたしはまんまと罠にかかったおいしい餌に過ぎなかったことを…


 それからわたしはジェリーとの行為に何かと文句をつけるようになった。彼が脚の間に手を伸ばし始めると、嫌だとはねつけた。


 わたしは彼のを受け入れても彼が興奮して声を上げても、同じことを他の女としていると思うと興奮が冷めて行った。


 彼はわたしが燃え上がらないことに腹を立てて、無理やりにでもわたしを奪った。


 彼はわたしの中に入って来ると激しくわたしをいかせようとした。ふたりの溝はどんどん深くなっていった。




 わたしは離婚さえも考え始めていた。とうとう役所で離婚届ももらって来た。


 そして数週間が経った。彼がバーのアルバイトから帰って来た夜だった。彼は香水のにおいをぷんぷんさせて帰って来た。それもお酒を飲んでご機嫌で…


 わたしはその夜、完全に彼を拒絶した。


 もういや……


 「わたしに触らないでよ!」


 「どうして?シャロン僕が触れるのがそんなに嫌な訳を言えよ!」


 「どうしてもよ。あなたが嫌いになったのよ。わからないの?あなたに触られると思うとぞっとするわ」


 「そんなの嘘に決まっている。僕にはわかる。シャロン君にすべてを教えたのは僕なんだ。それなのに…そんなことがあってたまるか!」


 わたしは核心をつかれて頭に来た。


 「あなたになんか会わなきゃよかった。あなたなんか最低のジェリーフィッシュよ!宿無しで女たらしで……もういいから、とにかくわたしの部屋から出て行ってよ。ここはわたしの部屋なのよ。今すぐに出て行って!それからこれにサインして!」わたしは離婚届を彼に叩きつけた。ジェリーがたまらなく憎かった。


 あの時のジェリーの顔が今も忘れられない。彼は引きつったような顔をして離婚届を見つめていた。


 そしてしばらくすると彼はスーツケースに荷物をまとめ始めた。そして出て行く前に離婚届にサインをした。いとも簡単に…すんなりと…もし別れるつもりがなかったらそんなことをするはずがない。


 そして彼はまったく感情のない顔で言った。怒っているとすぐに分かった。それに悲しそうだった。


 「わかったよシャロン。君の言う通りにしよう。僕たちは離婚した方がいいみたいだ。僕は出て行くよ。今までありがとう」彼はそれだけ言うと離婚届と部屋の鍵を置いてすぐに部屋から出て行った。


 それは2年半前の出来事だった。



 バクスターことジェリーは、シャロンと別れてから頭に来ていた。すぐに帰るとシャロンの残り香が鼻をかすめた。その瞬間、何も考えられなくなった。


 抑え込んでいた何かが目覚めたかのように、体の内側が熱くたぎる。


 自分でも抑えようがなかった。



 あの頃のシャロンはキャラメル色の髪を後ろで三つ編みにしていて、前髪を下ろしていた。


 彼女は変わったんだ…


 髪はきれいに肩より少し長めのストレートにしていた。前髪はなくなって、その代わりに大人びた美しい女性が目の前に現れた。彼女は前よりもっと輝いていた。


 それが何を意味するか…


 いいか何も考えるんじゃない!


 彼は夜になると1年前まで働いていたバーに久しぶりに出かけることに…


 僕はシャロンと別れてからしばらくやけになっていた。正気を失いたくて路地の暗がりやダイナーのトイレの中やビルの屋上、夜の公園、地下駐車場…いろいろな所で女を求めた。


 今思えば馬鹿なことをした。


 だがあのバーのトイレだけはセックスの場所に出来なかった。あの場所はシャロンとの大切な場所で、他の女で汚すようなことは出来なかった。あの場所はとても神聖な場所に思えたから…



 1年ほど前バクスターの名前で作家になってからも、彼はプライベートはすべて伏せていたので、バーに行けばいつものジェリーに戻ることが出来た。それは彼にとっても息抜きの場所として役に立った。時々女と遊ぶにも好都合だった。後腐れのない関係に彼は満足していた。


 だが、日増しにもし自分が作家だと知れたらと思うようになると、あまり頻繁にバーに行けなくなったし、仕事も忙しくなった。


 だが、男としての欲望の限界が来ると、彼はバーに行って欲望を吐き出すためだけのセックスの相手を求めた。


 そして今夜ジェリーは激しいほどの雄の性を感じていた。シャロンが彼の欲望を刺激していた。


 僕はシャロンなど気にしていない。


 そう思えば思うほど、彼女のことを思い出す。


 彼女を初めて奪った日。


 初めて僕の一部に触れた時。


 初めて彼女の全てを見た時。


 シャロンが喜びの声を上げた時。


 クッソ!何もかも終わったことだ。


 どうしようもない苛立ちが襲って来た。


 僕はバーで声をかけて来た黒髪の女と連れだってバーを出た。お互い名前も名乗り合わなかった。女は僕の部屋に行きたがった。だが僕はバーの表通りを横切り暗い路地に入っていった。女は少し尻込みしたが、女の唇をむさぼり始めると、すぐに女はついてきた。


 暗い路地で女を壁に押し付けた。シャツをあらわにして胸に手を伸ばす。女はすぐに声を上げた。僕はズボンのファスナーを引き下ろした。


 女の唇を奪いながら、ショーツに手をかけた。これは女の声を漏らさせないための手段。そして欲望のはけ口のためだけの行為に及ぶ。


 そして女は声を上げると、ぐったりしたかのように僕の肩にもたれかかる。僕はその頭をそっと持ち上げると女から離れた。女はまだ僕を引きとめようと腰を押し付けた。


 僕はそんな女に嫌悪を抱いた。そして僕はため息をついた。


 まさかこんなことをすることになるとは思ってもいなかったが、作家になって有名になってくると僕はこんなことをしていることにひどく虚しさを覚えた。それなら適当に誰かと付き合えばすむことじゃないかとも思うがそんな気にはならなかった。それにもしこんなばかなことをしているとわかったらなどと、余計な考えが頭に浮かぶのだ。


 「これタクシー代にしてくれ」僕は女に100ドル札を渡した。


 「こんなつもりじゃあ…いいの?ありがとう。ねえ、また会える?」女が言った。


 「いや、そんなつもりがないから渡すんだ」僕がそう言うと女は納得した顔をして路地から消えた。



 一体僕は何をやってるんだ…クッソ!


 そして僕は家に帰ると、たっぷりの熱い湯でシャワーを浴びた。いつもならこれで気分は晴れた。だが、今日はまったくそんな気持ちにはなれなかった。ますます自分に苛立った。まるで見たかった芝居のチケットを買う行列に並んで、結局買えなかった気分だ。


 シャロン、お前のせいだ。お前さえ現れなかったら…クッソ!


 僕はジョニーウォーカーをがぶ飲みしていつの間にかソファーに倒れ込んでいた。



 金曜日が来た。シャロンに会えると思うとそれを楽しみにしている自分に腹を立てた。


 チャイムが鳴ってエントランスの入り口を解錠して彼女を招き入れた。


 もうすぐシャロンがやって来る。


 シャロンは気が重かった。バクスターに会うこともだったが、編集部に彼あての脅迫文が届いたのだ。


 “バクスター・ゴルドーお前の正体を知っている。近いうちにお前のその汚い仮面を剥がしてやる。今に見ていろお前を地獄に突き落としてやるからな!”


 雑誌の文字を切り抜いたその古典的な脅迫文。これを送りつけた人物が本気かどうかもわからない。こんな脅迫文は編集部にも時々届くことがある。だが、万が一ということもあると編集長のジェームスは彼にこのことを報告してくれぐれも私生活を気を付けるように伝えるようにと頼まれたのだ。


 あいつの心配なんかする必要あるの?あんな奴地獄に落ちればいいのよ!


 シャロンはそんなことを思いながらここに来たのだった。


 コンドミニアムのマンションの入り口で、わたしのすぐ後に入って来た男性がいた。チャイムを押すこともなく入って来たが、ここの住人ということもある。


 男はフードを深くかぶりサングラスをかけていて不審者かもと思えた。


 わたしはその男性とエレベーターが一緒になったので、エレベーターの壁際いっぱいにくっついて、何とか知らん顔をして5階を押す。その男性はどこの階も押さなかった。


 だが、わたしはジェリーに会うことに気を取られていた。5階の扉が開き、わたしがおりようとした時、さっきの男性がわたしを押しのけて先におりた。


 わたしはいらっとしたが、無視した。


 その男性もバクスターの部屋の方に歩いて行く。わたしはゆっくり歩いて男性の後を歩いた。


 すると男性がバクスターの部屋のチャイムを鳴らした。


 待って…彼はきっとわたしが来たと思ってるからドアはチェーンもかけていないはず…


 まさか…もしかして…シャロンの心は不安に襲われた。


 シャロンは走ってドアに近づいた。


 「ジェリー開けちゃだめ!」気づくとそう叫んでいた。


 男性が振り返った。その手にナイフが握られていた。


 シャロンの悲鳴が廊下に響いた。


 彼女はそのまま倒れた。


 男はすぐに走って逃げた。



 ジェリーは悲鳴を聞いてドアを開けて廊下に出た。


 そこには血だらけのシャロンが倒れていた。


 「シャロン!しっかりしろ!クッソ!誰がこんなことを…」ジェリーは彼女の抱きあげ片手で救急車を呼んだ。


 「ジェリーあなたは無事なのね…脅迫文が届いたのよ。編集部に…きっとそいつの仕業よ…」シャロンはそれだけ言うと気を失った。


 「シャロン。シャロンしっかりしろ!」ジェリーは彼女が刺された腕にシャロンがしていたスカーフを巻き付けて、救急隊が到着するのを待つしかなすすべはなかった。



 ジェリーはこの時初めて彼女をどんなに愛しているか気づいた。もしも…もしも彼女を失ったら、僕は生きてはいけない。


 彼は地獄に突き落とされた気持ちになっていた。


 いや…僕はシャロンと別れた時から地獄を見ていた。


 シャロンは病院に搬送されるとすぐに救命処置室に運ばれた。


 ジェリーは、処置室には入れず、外の廊下で待った。


 看護師たちが忙しそうに出入りし、すぐにシャロンは手術室に運ばれた。


 そして半日が過ぎたころ、彼女はまだ麻酔が朦朧とした状態で病室に運ばれてきた。


 「それで、彼女の容体は?」


 「あなたはご家族の方ですか?」


 「彼女には身寄りがいないんです。僕はもと夫でちょうど彼女がけがを負った時いたんです」ジェリーはシャロンからシングルマザーの家庭で育ち母親は18歳の時に亡くなったと聞かされていた。


 「そういうことならいいでしょう。彼女は右上腕にかなりひどい裂傷を追っています。幸い致命傷にはなりませんでしたが、かなり出血をしていましたから、しばらくは安静にしていなくてはなりません。抗生剤の投与と少し眠くなる薬を投与します。付き添われますか?」


 「ええ、もちろんです。今晩ここにいてもいいですか?」


 「まあ、ご心配でしょうから、どうぞ付き添ってください」医師はそう言うと病室をあとにした。


 ジェリーは警察からも事情を聞かれたが、犯人は見ていなかった。後はシャロンの意識が戻ってからということで今夜は帰ってもらった。


 編集部にも連絡を入れたので、シャロンが帰って来る前にジェームスが来ていた。だが彼は一度会社に戻ると言って帰って行った。



 ジェリーは横たわったシャロンのベッドわきに椅子を置き座わった。


 顔色は真っ青で血の気が引いて真っ白かった。あのふっくらして可愛いピンク色の唇は紫色に変色している。きっと大量に出血したからだろう。


 彼はたまらずまだ意識の戻らない彼女の左手を握った。


 シャロンの手はとても冷たかった。


 その手をさするように何度も両手でこすり合わせた。そっと息を吹きかけまるで壊れそうなガラス細工のように大切に指の一本一本、爪の先までなぞった。


 シャロンの指は荒れていた。


 ジェリーは一緒に住んでいたころのことを思い出していた。


 彼女はいつも忙しそうにしていた。朝は自分と僕の分の昼食を作るのが彼女の日課だった。僕がまだ目覚めないうちに彼女は仕事に出かけていた。


 僕は起きるとシャロンが作ってくれた昼食とコーヒーポットに入ったコーヒーを飲み創作活動を開始する。日によっては、本屋に出かけたり、図書館に出掛けるときもある。家にいて飽きてくると近くの公園やカフェに出かけた。


 そしてシャロンが帰ってくると、彼女はまず冷蔵庫に食材を入れる。そして夕食を作り始め、僕にシャワーを浴びろと声をかける。


 僕は言われるままシャワーを浴びて出てくるとおいしそうな夕食が出来上がっていた。


 ふたりでそれを食べ、片づけは僕の担当だった。彼女はまだ仕事が残っているからと、デスクに出版社から持ち帰ったファイルやコピーを一生懸命見ながら仕事をする。


 僕はたいくつで彼女にちょっかいを出す。そして決まってベッドに誘い込むのがいつものパターンだった。


 そんなわけで忙しく働く彼女の指はいつも荒れていた。僕は彼女の手にクリームを塗るのが好きだった。一本一本指にクリームをすりこみながら、キスしたり指に吸い付く。彼女はくすぐったがり笑い声を漏らした。そんな時間がとても好きだった。


 何でもないそんな時間がどんなに幸せだったか…


 でもそれを捨てたのはシャロンだ。


 何度もそう言い聞かせて来た。


 でも目の前にいる彼女は、いくつもの管につながれいる。その姿は、はかなく弱々しく守ってやりたい衝動に抑えがきかなくなっていた。


 「シャロン、もう大丈夫だよ。何も心配しなくていい。僕がずっと君のそばについているから」


 シャロンはその声が届いたかのように、顔を動かした。もぞもぞ体を動かすと痛みのせいか顔をしかめた。呼吸をするための酸素マスクがずれたのを直しながら僕は声をかけた。


 「痛いんだね?無理もないよ。君はナイフで刺されたんだ。でももう心配ないよ、傷はすぐに良くなるから…」


 シャロンは、安心したようにまた深い眠りに落ちて行った。


 僕は彼女の手を握ったまま思っていた。シャロンの意識が戻ったら、もう一度話をしよう。僕はシャロンともう一度やり直したい。



 何度か自販機にコーヒーを買いに行った。ジェームスから電話があってまだ眠っていると言ったら明日顔を出すと言われた。


 何杯目かのコーヒーを買いに行って帰ってくると、シャロンが目を覚ましていた。酸素マスクがいつの間にか外されていた。


 「シャロン?」


 「誰?ここはどこ?」シャロンはまだ意識がはっきりしていないらしい。


 ジェリーはシャロンのベッドのそばの椅子に腰かけると、ゆっくり話しかけた。


 「ここは病院だよ。シャロン君はナイフで刺された。それで腕を手術したんだ。まだ痛むだろう?」


 シャロンはまるで幽霊でも見ているかのように僕を見た。


 シャロンは混乱していた。言われたことを考えた。ナイフ…あのフードの男…そうだ、ジェリーは?


 そういえばこの声…ジェリーみたいだけど…


 「あなたは誰なの?わたしコンタクトをしてなくて顔が見えないの。痛っ!」シャロンが体を起こそうとして声を上げた。


 「だめだ。起きあがれるはずがないだろう。君は怪我してるんだ…」



 誰かの手がそっとシャロンの手に触れた。


 その温かい手が指を一本一本なぞり始めると、シャロンはかつてジェリーが良くしてくれた指のマッサージを思い出した。


 「あなたジェリーなの?無事だったの?」心臓がピクンと飛び跳ねた。


 「ああ、僕だよシャロン。僕が廊下に出た時君はもう刺された後で、他には誰もいなかった。脅迫文のことを君がつぶやくように言ってそれで気を失ったんだ」



 シャロンはやっと男に襲われた時のことを思い出した。意識もかなりはっきりしてきて、彼の話も理解できた。


 「わたしがエントランスからあなたの所に行こうとした時、その男も一緒に入って来たの。わたしここのマンションの人かと思って、でもその人フードをかぶってサングラスをかけていたからちょっと嫌な感じがしたの。同じ5階でおりるとその人は先に出てあなたの部屋のチャイムを押したの…わたし、あなたがすぐにドアを開けるはずだから声を上げてたわ。開けちゃだめって、そしたらその男がわたしに向かってきて…もうあっという間のことで…」


 「シャロン…まさか僕を守ろうとして…?」なんてばかなことを…僕を守ろうとしたなんて…



 シャロンは慌てた。


 「まさか…人は誰でもとっさにそうするものよ。あなたのためなんかじゃないわ。ジェリーいいからバッグから眼鏡を取ってくれない」とにかく何も見えないんだから…ばつが悪くて、唇を舌で湿らした。


 「ちょっと待って…」ジェリーはシャロンのバッグの中を探った。


 眼鏡は布製の入れ物に入っていた。取り出してみると眼鏡はフレームがゆがみレンズにひびが入っていた。


 「シャロン、眼鏡壊れてるよ。その男が近づいたときバッグでも振り回したんじゃないのか?」


 「そういえば…」ああ…男が近づけないようにわたしは必死でバッグを振り回したわ…もう…どうしよう。


 「わかったわ。今何時ごろかしら?」わたしはまた舌で唇をなめた。


 「今は…夜中の3時すぎだ。もう少し眠ったら?眼鏡は明日にでも直せばいいさ」ジェリーは優しかった。当り前ね。わたしは怪我をしているし、彼のせいでもあるんだもの。


 「わかったわ。ジェリーもう帰ってもいいわ。わたしは大丈夫だから。あなたも疲れてるでしょう?」もういいから早く帰ってよ!あなたがいたら…


 「こんな時間じゃ…もうここにいるよ。朝になったら君の身の回りの必要なものを取りに行ってくるつもりだ。その時コンタクトや眼鏡も持ってくるから」


 「そんなことしなくていいわ。余計なお世話よ。わたしは大丈夫だって言ってるじゃない!」


 「こんな時くらい人の言うことを聞けよ。いいから僕に任せて、さあ、もう寝たほうがいい」ジェリーはまるで子供をあやすみたいに言った。


 シャロンは腹が立っていたが、起き上がることも出来ず、管につながれていた。これ以上何を言っても同じだわ。


 でもわたしの部屋には絶対に入ってほしくはない。部屋はあの頃のままで何ひとつ変わっていない。変わったのはジェリーとおそろいのカップを捨てたこと。彼の歯ブラシがなくなったこと。あっ彼が育てていた観葉植物は枯らしてしまったけど…それからシーツとベッドカバーを変えたこと。



 そしてジェリーはあとかたもなく消えてなくなった。


 まるであの数か月が夢のようだったかのように…


 まるで魔法だったみたいに…


 まるで彼は最初からいなかったみたいに…


 「ジェリー言っておくけど、荷物は会社の友達に頼むから、あなたは絶対にわたしの部屋に近づかないでね。いい?約束して!」


 「ああ、わかったよ。怪我をしているシャロンが気に障るようなことはしないよ」


 「それならいいわ。じゃあ、わたし寝るから…」シャロンは目を閉じた。起きていてもジェリーはほとんど見えないし、それに彼と話をする気分じゃないもの…


 10分もすると薬のせいもあって、シャロンはまた眠り始めた。


 ジェリーはほっとした。彼女がさっきから唇を舐めるたびに、下半身に血流が流れ込んでいく。彼女が怪我をしていると言うのに、僕は…欲望を感じるなんて…こんな乱れた髪をして化粧っ気のない顔をしたシャロンのしぐさひとつで?



 ジェリーはこっそりシャロンのバッグをつかむと部屋を出た。彼女のバッグから鍵を探し出す。忘れもしないあの部屋の鍵だった。


 シャロンは今もあそこに住んでるのか…あの狭いアパートメントに…僕との思い出が詰まったあの部屋に?


 そう思うと心がうずくのを抑えられなくなっていた。


 ジェリーはタクシーを捕まえて一度自分のマンションに帰った。それから新しいタオルや日用品を自分の車に放り込んだ。そしてシャロンのアパートメントに向かった。


 明け方が近かったが、まだ暗かった。大きな満月が辺りを照らして明るかった。


 僕は追い出された日のことを思い出した。あの夜もこんな大きな月が出ていた。あれから僕は女とは暮らせなくなった。しばらくはバーで寝泊まりしていたが生活は荒れていた。


 そして数か月後、行きつけの本屋で住み込みの仕事を始めた。仕事をしながら作品のストーリー練ったり、思いついたことをノートに書き留めた。そして夜は作品造りに没頭した。



 ジェリーはシャロンのアパートメントのドアを開けた。


 一瞬凍り付いた。部屋はあの時のままだった。なにひとつ変わることなくそのままだった。


 ドアを開けると、まず目に入るのが壁にかけてあるコーラ瓶の形をした鏡。キッチンの床の掛けたタイル。冷蔵庫の猫型のマグネットに止めたレシート。ソファーは少し古ぼけた感じがした。床のマットも少し色あせて端っこのほつれがひどくなっていた。リビングのテーブルのきずは、僕がグラスを落として割った時についたものだった。


 ベッドには新しいカバーがかかっていた。でもヘッドボードについたきずを見つけると、僕はそのきずを指でなぞっていた。それは面白半分でシャロンの手首を手錠でつないだ時に出来たきずだった。


 あの時のシャロンは、僕の愛撫で体をくねらせ、自由にならない体をよじって…ああ…ふたりは熱く燃え上がり激しいセックスをした。そして彼女の手錠をはずすと彼女は僕に抱きついてきて、僕は彼女を狂おしいほど愛していると言った。彼女もあなたはわたしのすべてだと…



 何もかもがあの時のままだった…


 僕はあの頃にタイムスリップしたみたいな気持ちになっていた。もしかしてシャロンはまだ僕のことを……?


 勘違いするんじゃない!彼女は簡単に引っ越しなどできるはずもない。編集部の仕事なんかいくらにもならないだろう。まして肉親もいない彼女にそんな余裕もあるはずがないんだ。ここにいるしかないからあの時のままなんだ。



 ジェリーは感傷的になる気持ちをいぶかしく思いながら、彼女の荷物を入れようとクローゼットを開けた。


 そこにあった大き目のバッグに、Tシャツやジーンズ、スウェットやパーカー、そして彼女のブラジャーやショーツも…


 バスルームに行くとブラシや化粧品をポーチに詰め込んだ。忘れないように眼鏡とコンタクトも入れた。置き場所はジェリーがいたころとなにひとつ変わっていなかった。


 考えまいとしても、Tシャツを見て思い出す。


 これを着て一緒に買い物に行って公園で子犬を見つけた時の彼女のあの笑顔。


 バスルームでシャワーを浴びながら愛し合った時のこと…


 シャロンがコンタクトを入れている時からかって後ろから脅かしたこと。


 そしてバスルームの洗面台で彼女を抱いたときのことを…



 彼女と愛し合った時がどんなに素晴らしいものだったかを…他の女性では絶対に感じたことのない興奮と高揚感とそして心をうめつくす喜びを痛いほど思い出した。


 ジェリーはシャロンに新しいボーイフレンドがいるかもと思ったが、どうもそれらしい人はいないようだと思えた。


 もしいたら…もっと女らしい服や下着があるはずだろう?彼女の下着はコットンの実用的なものばかりだった。


 シャロンを取り戻したい。僕ともう一度やり直してほしい。ジェリーはそんな気持ちを抑えられなくなっていた。


 夜明けの光が月を淡い色に変えるころ、ジェリーは病室に戻って来た。


 「シャロン?」


 「ジェリー?」


 「起きたのか?」


 「ええ、喉が渇いたの」


 「ああ、水を飲む?」ジェリーはペットボトルにストローを入れると彼女の口元にストローをくわえさせた。


 シャロンは上手にストローを吸い込んだ。少しずつ水を飲む。傷が痛いのか時々ストローを口から離すと、ゆっくり息を吐いた。



 「傷が痛む?」


 「ええ、少し…」そう言うとまた目を閉じた。


 「もし痛むなら薬をもらう?」そうだ。看護師を呼んで薬をもらった方が…


 「ううん…どうしてまだいるの?」


 「君の荷物を持ってきた。眼鏡もあるから心配ないよ」


 「わたしの荷物?まさかわたしの部屋に行って来たの?」


 「ああ、でも僕の家から持ってきたものもある。タオルとか歯ブラシとか…」


 「もうやめてって言ったじゃない!どうしてそんなことするのよ!」シャロンは怒るたび顔をしかめた。


 「そんなに怒るなって……傷に障るだろう?必要なものを入れて来ただけだ。そんなに言うなよ。これでももと夫じゃないか。君には肉親もいないんだし、こんな時くらい手伝わせてくれよ」


 ジェリーの言い方は優しくて愛に溢れている。


 もうそんなの気のせいよ。わたしはきっとまだ麻酔が効いてるんだわ。こんな夢のようなことがあるはずないもの。


 シャロンは彼の優しさがまんざらでもなかった。いや、むしろうれしかった。傷は痛いし、目は良く見えないし、仕事のことだって不安だった。これで仕事を休んだらせっかくのチャンスが台無しになるかもしれない。


 不安がこんな気持ちにさせるのよ。


 ああ…でも彼に甘えたい。あのたくましい腕に抱かれて温かい胸の中に顔をうずめられたら…そして彼がキスをしてくれたら…


 「シャロン、眼鏡がいる?」


 「ええ、そうね」そうよ。眼鏡さえあればわたしは現実に戻ることが出来るはずよ!


 シャロンはジェリーから眼鏡を受け取るとそれをかけた。


 目の前にジェリーの顔があった。唇すれすれに心配そうな彼の顔が見えた。


 シャロンは驚いて顔をそむけた。


 「何よ。離れてよ!」


 「ああ、君が無事でよかったよ」彼はそう言うとそっと頬にキスをした。



 唇が触れたところが熱を持ってその熱が水面にインクを垂らすように体中に広がっていく。わたしの頬は小さな子供みたいに赤くなった。


 「赤くなるところがすごく可愛いよシャロン…ねえシャロン今付き合っている男はいないんだろう?」


 「何よ!そんなことあなたに関係ないじゃない」


 「いや、一応僕のせいでこんなことになったんだ。もしいるなら謝った方がいいかと思っただけだ」


 「そんなの…あなたが心配しなくていいわよ!ジェリーこそ待ってる人がいるんじゃないの?こんな所で夜を明かして困るんじゃない?」


 「僕に付き合っている女がいるって?そんなの…付き合ったのはお前しかいない。今も過去にも…」


 また上手いこと言うのね。あなたがいろんな女と付き合ってたことは知ってるんだから…


 二度と騙されないわ。ええ、絶対に二度と…


 「いいのよジェリー、今さら隠さなくたって、わたしたちもう何の関係もないんだし…」そう言いながら胸は嫉妬でうずいた。


 平気な顔をするのよ。あなたに女がいたって関係ないって顔を…


 その時彼の電話が鳴った。


 ジェリーは着信画面を見た。彼は急いで部屋を出ると電話に出たみたいだった。


 ほら、やっぱりね。女から電話がかかって来たのよ。


 シャロンはサイドテーブルにあったペットボトルの水をごくりと飲んだ。だが、ペットボトルを持つ手は震えていた。




 今の彼女はほとんど無力と言ってもいいほど、弱っていた。


 腕は痛いし、仕事は心配だし…おまけにずっと忘れられなかったジェリーが目の前にいる。眼鏡をかけたせいで、彼のハンサムな顔がまぶしい。心配して優しくされるとうれしさで胸がいっぱいになった。


 そんな自分が恐かった。


 「ごめんシャロン。ジェームスからだった。後で様子を見に来るって」


 「えっ?電話ってジェームスなの?」


 「ああ、ほら見てごらん」彼が着信を見せた。はっきり書いてある。ジェームス編集長と…


 もうわたしったら…


 「お前、もしかして女からと思ったんだろう?いるわけないだろう。特定の女はいない。そりゃ僕だって男だからたまには必要なんだ。その…解消するためだけに…」


 「まあね。ジェリーあなたって、わたしといる時だってそうだったものね」何気ない嫌味が口を突いて出た。わたしはまったく意識して言ったわけではなかった。本当に本心がぽろっと出たのだった。


 もう薬のせいよ!


 「シャロンそんなこと思ってたのか?僕がいつそんなことをしたって言うんだ?お前と知り合ってからそんなことをしたことはない!」ジェリーが驚いた顔をした。


 「いいじゃない。本当のことを言えば!何よ!別に怒ってるわけじゃないわよ…」


 「嘘なもんか!お前まさかあの頃そんなことを思ってたんじゃないだろうな?」


 「何よ!だってジェリーあなたはずっとバーで仕事してたじゃない。わたしと付き合うまでは別の人といくらでもやりたい放題してたじゃない」


 「いくらでもって…そりゃ女と付き合ったことは認める。でもそれは一回限りの付き合いで、それもお前と会うまでだ。シャロン、お前は僕を狂わせた。あのトイレで交わってから僕はお前の虜になった。それなのに他の女に興味が湧くわけないだろう」ジェリーは怒った。こんなに怒ったジェリーはあの時…


 そして彼は感情をすっと隠した。別れるときにした顔と同じだった。悲しそうだった。


 何だか胸が締め付けられそうになった。だめよ。きっとそれが彼のやり方なのよ。そうやって信用させるんだわ。


 「この話は君がもう少し元気になってからにしよう。時間はまだたっぷりあるんだ」ジェリーは落ち着こうと深呼吸をした。



 その時看護師が入って来た。


 「あら、だいぶ顔色がいいわ。さあ、男性は出てちょうだい。体温を測って、血圧もね。そしたら食事が出るから、お腹空いた?」ジェリーは追い出された。


 「ええ。そういえば…あれから何も食べてないのね…」シャロンは急にお腹が空いた。



 ジェリーは廊下に出ると、コーヒーの販売機に行った。椅子に腰かけるとシャロンが言ったことを考えていた。


 シャロンはずっと僕を疑っていたのか?いや、そんなことはないはずだ。僕たちはうまくいっていた。別れる1~2か月前までは…1か月前なにがあった?


 ジェリーにはまったく見当がつかなかった。女とは何の関係も持ったことはなかった。あるとしてもバーで女に声をかけられることくらいで、それだって僕は上手くあしらっていた。客を怒らせることなく楽しい気分にさせる。それで他の女と約束があると嘘を言ってバーを後にするのがいつものやり方だった。


 シャロンは何を勘違いした?今はもう考えるな。今は彼女の傷に障ることはしたくなかった。



 部屋に戻るとシャロンは食事をしていた。


 右腕が痛くて、彼女は四苦八苦していた。


 「僕にやらせてくれないか」


 「まったく…」文句を言いながら彼女は僕に従ってくれた。



 僕はフォークでスクランブルエッグをすくうと彼女の口に運んだ。


 かわいいピンク色の舌が黄色い卵に絡みつく。


 またしても僕の股間はたちまちうずいた。あと何口食べさせればいいんだ…



 そうやって卵、チーズ。そしてスープもパンは小さめにちぎって手渡すと、彼女は大人しくゆっくりそれを口に入れた。


 上掛を下げていたので、胸元の薄い院内着からは、ブラジャーを付けていない彼女の乳首の輪郭がわかる。食べ物を飲み込むたびに胸は大きく上下して、その輪郭が同じように上下する。


 このままだと僕の方が酸素吸入が必要になる。


 ジェリーはやっと食べさせ終えると、食器をもって部屋を出た。


 ジェリーはしばらく部屋に戻らなかった。なにしろ興奮が収まらなければ病院内を歩けない。


 病室に戻るとシャロンはいなかった。看護士に尋ねると、彼女は検査に行ったらしい。午前中は帰って来ないと言うので、ジェリーは自宅に帰ってくることにした。出来上がった原稿を持って、取り掛かっていた次の作品を書くためにノートとペンを持ってきた。


 彼の作品作りはノートとペンから始まる。思い描くプロットや人物を決めていく。それをもとにある程度の話を作ってから、ワープロに打ち込んでいくのがいつものやり方だった。


 ジェリーは昼食前までに自分の昼ごはんとシャロンが好きなカフェラテを買って戻ってきた。


 「やあ、シャロンどうだった?」


 「疲れた…」シャロンはベッドに横になっていたが昨日よりかなり顔色は良かった。


 「食事はまだだろう?」


 「ええ、でもジェリー忙しいんでしょ。わたしのことはいいから…」



 「シャロン、怪我は僕のせいだ。だから退院するまでは僕に面倒見させてくれないか?昨日も言ったけど、君はまだ朦朧としていたから…これは頼みじゃなくて僕の責任だからそうしたいんだ」


 「いいのよ。そんな責任感じなくたって、わたしが勝手にしたことなのよ。それにさっきジェームスが来てくれて、これは仕事での怪我だから治療費も出るし、給料も払うって言ってくれたの。だからなにひとつ心配ないのよ」そう、一番心配なのはあなたにこんなことされたら、わたしの心がめちゃくちゃに乱れるってことなのよ…


 きっと心臓発作を起こすかも…いえ、もしかしたら発狂するかもね。


 今やシャロンにとって一番の心配事はジェリーと一緒にいることだった。


 「じゃあ、君が食事出来るようになるまで…これはどうしても譲れないよ。いくら断られてもここから動かない。それにちゃんと仕事道具もここにあるから心配ない」ジェリーはノートとペンを持って笑った。



 そしてジェリーは言った通り、シャロンの食事の世話をした。朝食も昼食もそして夕食も…


 ただ、ずっと部屋にいるとシャロンが怒るので、ジェリーは食事の時にしか顔を出さなかった。そのほかの時間はどこかで時間を潰しているらしかった。彼はノートとペンを持ってどこかにいなくなった。



 シャロンは、次第に彼に優しくされる時間がたまらなく満たされていった。そしてだんだんジェリーはまだ自分のことを愛しているのかもしれないと思うようになった。


 彼とまたやり直せたらどんなにいいだろう。ふと気づくとそんなことさえ思うようになっていた。


 だがシャロンは忘れたりしなかった。何を言ってるのよ!彼は女たらしだ。他の女なしではいられない男なのだ。いくら自分を愛してくれてもわたしはそんなのは嫌だ。


 そして1週間ほどすると、右腕の縫った所を抜糸した。医者は、まだ少し痛みはあるしあと1週間くらいは自宅で休んでくださいと言ったが、明日には退院できると言った。


 シャロンはその夜最後になる夕食で、ジェリーにはっきり気持ちを伝えようと決心した。わたしと結婚してたのにジェリーは浮気していた。そんなあなたとは絶対に仲直りは出来ないんだと、あなたの責任とやらに付き合っただけ、これで終わりよってはっきり言おうと決めた。




 ジェリーは夕食のサーモンを切って、その一切れをシャロンの口に運んだ。


 「さあ、シャロン今日は君の好きなサーモンだね。はい、口を開けて…」彼はこの1週間の間に食べさせるのがずいぶんうまくなっていた。


 大きさもちょうどいい加減にして、上手に口元に運んでくれる。


 シャロンは黙って口を開けるとサーモンをくわえた。そして舌で少したれたソースを舐めとろうとした時、彼がソースを指でなぞって取ってくれた。


 「ありがとう…」シャロンはため息をついた。背筋がぞくぞくして腿の間が熱くなる。


 「いいんだ。僕がソースをつけすぎたから」ジェリーはそう言うと唇を噛みしめた。


 ふたりの間には、一気にもどかしいほど熱い空気が横たわった。静電気にでも触れたみたいに、びりびりした感覚が指先を這いあがる。


 シャロンはやっとの思いで、食事を終えるとジェリーが食器を片付けに行って帰って来た。



 今よ。今しかないのよ。シャロンはベッドに座ったままだった。ジェリーが椅子に腰かけると彼女はジェリーの顔を見た。


 黒いまつ毛に縁どられた瞳はプラチナのように輝き、真っ白い歯を見せて微笑んでいる。


 シャロンは周りにある空気を全部吸い込むくらい思いっきり息を吸い込んでゆっくり吐きだした。



 「ジェリー今日ねもう退院してもいいって言われたでしょう」


 「ああ、僕も聞いたよ。明日には帰れるね。でもまだひとりじゃ大変だ。よかったら僕のところにくるかい?それも話さなきゃって思ってたんだ」ジェリーは予想していたみたいな顔をした。


 「あなたは本当に良くしてくれたわ。それに関してはありがとうって言うわ。でも、あなたとはもう終わったのよ。だからもうわたしに構うのはやめて…」


 「でも…シャロン僕は君を愛してるんだ。別れてからもずっと君を忘れられなかった。だから…それに君だって僕のことを嫌いじゃないはずだ。そうなんだろう?もうお互い素直にならないか?」どうしてなんだ?シャロン、君だって僕を……


 「そんなこと出来るはずないじゃない!」どうして平気でそんなことが言えるの?


 「どうして?どうして僕が信じれない?そのわけを教えてくれ、僕にはさっぱりわからないんだ。君があんなに怒っていた理由が…」


 「いいわ。そんなにわからないなら教えてあげる。わたし見たのよ。あなたがブロンドの美人とトイレに行くのを…彼女はわざと気分が悪いふりをしてあなたは心配そうに一緒にトイレに行ったじゃない。それから一体何分出てこなかったと思ってるの?そんなに長い間…彼女が出て来た時、髪は乱れて服はくしゃくしゃになっていたのよ。ふたりが何をしてたすぐに分かったわ。あなたを信じてたのに…あなたはバーで仕事をしてたんじゃないのよ。バーで浮気してたのよ。それなのにわたしを愛してたなんてよく言えるわ。いいからもう帰って、二度とわたしの前に顔を出さないで。担当は変わってもらうから心配しなくていいわ」



 シャロンは、ずっと長い間ため込んでいたものをすべて吐き出した。悲しさと悔しさと恋しさで心がぐちゃぐちゃになっていた。涙は勝手に溢れて痛みも忘れてこぶしを握り締めていた。




 ジェリーは突然のことで、シャロンの言ったことをただ黙って聞いていた。


 頭の中は、彼女が言ったバーで気分の悪い女性とのことを思い出せとフル回転していた。そしてやっとあの質の悪い女のことを思い出した。あれは最悪だった。


 「シャロンあの日君はバーにいたのか?」


 「悪かったわね。いちゃ悪かったでしょう。あなたの浮気現場を見たんだから…」


 「そういう意味で言ったんじゃない。僕は浮気なんかしていない。じゃあはっきり見たのか?僕がその女とやってる所でも?」


 「見なくてもわかるわ!あんな格好で出てきたら…」


 「シャロン大きな勘違いだ。あの時たしかに女をトイレに連れて行った。彼女は気分が悪くて歩けそうにないって言った。僕は親切でトイレに連れて行った。そしたら彼女がいきなり抱きついてきて、僕はそれをやめさせようとした。そしたら彼女が泣きだして…そして今度は本当に吐き気がして、彼女は何度もトイレで吐いたんだ。だから髪も服もくしゃくしゃになった。それだけだ。僕はシャロンと結婚してから一度だって他の女と浮気なんかしていない!」



 「そんなこと信じれるとでも?」シャロンは彼を見た。


 ジェリーの表情は不満そうで、真剣なまなざしをこちらに向けていた。口元は引き締まり、露わになった腕の筋肉は力が入って筋が浮き出ている。




 「僕が嘘をついてるとでも?」彼の眉は上がり、明らかに怒っている。


 「だって、あなたの周りにはいつも女がいて、あなたはより取りみどりだったじゃない」


 シャロンは顔をそむけた。これ以上をジェリーを見つめていたら…また罠にはまってしまう。


 突然ジェリーの手がシャロンの頬に伸びて来た。次の瞬間シャロンはジェリーにキスされていた。唇が軽く触れたままこれ以上求めていいか彼は待っている。


 「そんなことしても無駄よ!」シャロンは本心を気づかれたくなくて彼の胸を押した。



 「なあ、シャロン。確かにあの頃の僕は仕事もせず君の部屋に転がり込んで何をやっているのかわからない男だった。ジェリーフィッシュって言ったっけ?君が付けたあだ名。そうだよな。クラゲみたいに海を漂っているだけの……わかるよシャロン君がどんな風に感じていたか。まるで何も考えず遊んでいるみたいな生活だよな…君は一生懸命僕のことを思ってくれていた。なのに僕は君と結婚したことですべてが解決したかのように思っていた。僕にとって結婚は特別なことだったから…君はそれを理解してくれていると思っていたんだ。君は僕を信じてくれているとね…だから君が別れたいと言った時僕は何も言えなくなった。君に信じてもらえなかったことがショックだったんだ。あの時僕も意地になった。こんなに君を愛しているのに君は信じてくれないって…」



 ジェリーは離婚した原因が、やってもいない浮気だと知って腹が立った。でもよく考えれば無理もないことだと…


 ジェリーはシャロンの手を優しく握った。大きな手がシャロンの荒れた手を取ると、その指先がシャロンの指をそっと撫ぜた。


 シャロンは、はっと息をした。信じられないわ!そんなの…そんなことって…



 もしかして本当なの?本当にわたしが勘違いをしてたの…


 あの夜見た光景は今も頭に焼き付いている。でも彼の言う通り彼が何をしていたかは知るはずもないことで…


 いきなり心臓に氷水をかけられたみたいに、体中が震えた。



 ジェリーはそんなシャロンを見ているうちに、彼女が愛しくてたまらなくなった。ずっと彼女を恨んでいた。でも再会してから自分の気持ちに嘘が付けなくなっていた。それにそんな風に思わせた自分にも責任があったとわかると……


 「でも今はわかるよ。わかるようになったんだ。作家になって税金だ。経費だ。マンションのローンだ。何だかんだって‥生活していくことがこんなに大変だなんて…」


 シャロンはジェリーの顔をじっと見た。探るようにその瞳の奥に何かがあるのではと…



 「シャロン愛してる。ずっとずっと愛してた。結婚を申し込んだとき僕がいい加減な気持ちだったと思う?僕は本気だったんだ。君との時間は何もかもが素晴らしかった。一緒に買い物に行ったり、テレビを見たり、掃除や洗濯でも君と一緒だと楽しかった。何をしても君と一緒なら幸せなんだ」


 シャロンは一瞬もジェリーから目をそらさなかった。まじまじと見つめたその瞳が、窓から差し込む月の光でサファイアのように輝いている。


 「ジェリーそれって…またわたしと結婚したいってことなの?」ああ…どうしたらいいの。シャロンには、彼に言えない秘密があった。


 「決まってるじゃないか!君だって同じ気持ちだろう?僕を信じてくれないか?神に誓って浮気はしていない!これからも絶対にしない」


 ジェリーははっきりと言い切った。彼の手がまたシャロンの頬を撫ぜた。



 シャロンは喉をごくりと鳴らした。


 本気なのねジェリー…


 「あなたの言うことを信じるわ…あなたを愛してるのジェリー…」シャロンの声は上ずった。


 「ああ…シャロン。愛してるよ。世界中で一番愛してる」ジェリーはシャロンの唇をふさいでいた。彼が激しく唇を重ねてくると頭が真っ白になった。夢中で彼のキスに応える。



 やっと熱いキスから解放されるとシャロンは唇を噛んだ。もう隠してはおけない。早くジェリーに白状するのよ。


 シャロンは意を決して話を始めた。


 「ジェリー…実は…あなたに言うことがあるの」


 「まさか…僕と結婚しないって言うんじゃ?」ジェリーの顔がこわばった。


 「ううん、実はわたしあの離婚届出してないの…」


 「今なんて?」


 「もう…だからわたしたちはまだ離婚してないのよジェリー!」


 「お前…それって…」ジェリーはすぐに気づいた。シャロンも僕をずっと愛してたんだ。ずっと僕を忘れていなかったんだと…



 「そういうことなら、シャロン明日から僕のマンションで一緒に暮らすこと、わかったか?ずっと僕を騙してたんだ。もう僕を騙そうとしても無駄だよ。君はもう僕から逃げられない」ジェリーは嬉しそうにそう言った。


 「それって…」


 シャロンは懐かしいジェリーの胸に飛び込んだ。


 「明日からこの2年半の空白を取り戻さなきゃな。これからはずっと一緒だシャロン。今度離婚するって言っても絶対離婚しないからな!」


 ジェリーはシャロンを抱きしめた。




 「シャロンの右腕のタトゥーは一度切り裂かれた、でも傷は治ってjyeryloveの文字はまた結ばれた。前よりもっと深く結ばれたってことさ」ジェリーが耳元で嬉しそうに言った。


 シャロンは彼を見つめた。月明かりが彼を照らしていた。シャロンはジェリーがいつか見たライトに照らし出された美しいジェリーフィッシュのように見えた。


 すべてが透き通って見えるあの美しい生き物のようだと…


 「ジェリーあなたって最高のジェリーフィッシュね」シャロンは思わずつぶやいた。



                                ーENDー


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シャロンは気づいていなかった最低なジェリーが最高のジェリーフィッシュだったことに はなまる @harukuukinako

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