昏い血の情景

そうざ

Scene of Dark Family Line

 母の事を思い出した。

 母の事を思い出すと、その連想から祖母の事も思い出す。

 二人が同じ視野に揃う情景は、懐かしさをまとわず、息苦しさにも似た感覚を私に呼び起こさせる。


 祖母の介護生活は実質一年程度だった。まだ学生だった若い私には長く感じたのかも知れない。母にとってはどうだったろう。面と向かってそんな話をした事はない。

 一人娘だった母の周囲には、心底頼りに出来るような人間は居なかったように思う。人様の家庭の事情、それも介護となると、誰もがいつかは直面しそうな課題にも拘らず、迂闊には関わろうとしないものだ。取り敢えず愚痴の一つでも聞いてやり、通り一遍の気休めを提供する程度で距離感を保とうとする。


 父は仕事で何かと留守勝ちだった。生活リズムの前提が介護に置き換わった家は、気鬱な空気に支配される。現実から目を背けたい意識が、父を仕事人間に変えて行ったようにも思う。

 それでも私は父を責めようとは思わない。正直なところ、私自身もなるべく家に居ないようにしていた。

 朝早くに登校し、放課後や休日は図書館で勉強にいそしんだ。その成果か、遠方の大学に現役合格出来た。寮生活を選んだ一番の理由は、その大学にしかない学部に魅力を感じたからだったが、心の片隅に逃避の願望があった事は否定出来ない。


 母と同じく一人娘の私は本来、誰よりも近くで母を支え、理解者に成れる筈だった。けれども、私は祖母に苦手意識をいだいていたのだ。

 祖父母は暇さえあれば喧嘩をしていた。原因は決まって祖父の飲酒だった。

 母にはかつて兄が居た。私の伯父に当たるその人は、幼くして交通事故で亡くなったと言う。それを機に祖父は酒を嗜むようになり、やがて手放せない身体になってしまったようだ。

 祖母にしても息子を喪った悲しみと共にあった筈だが、娘を猫可愛がりする事で忘れようとしていたのかも知れない。激しい剣幕で祖父をなじっていたのも、もしかしたらいつまでも過去を引き摺る存在が目障りだったのかも知れない。

 祖父はと言えば、そんな祖母に暴力で抗する事もなく、粛々と言い負かされていた。そして、言うまでもなく酒と共に先んじて死んだ。


 晴れて大学に進学した私だったが、月に数回は実家に顔を見せに行っていた。

 法律に詳しい友人は私を擁護するように、一義的には介護義務は実子にある、孫の君が負う必要はない、と賢しらに言ってくれたが、母の苦労を考えれば幾何いくばくかの罪の意識が燻っているのは事実だったのだ。

 或る時、祖母が在宅介護サービスから戻った瞬間に鉢合わせた事があった。我が家は殊更に貧しくはなかったが、老人ホームに任せ切りに出来る程の余裕もなく、母は人様の手を借りて束の間の骨休みを得ていた。

 職員が送迎車から下ろした車椅子を玄関先まで送り届けると、母は深く頭を垂れた。世話になった感謝の気持ちよりも、迷惑を掛けた謝罪の気持ちの方が色濃いように感じられた。

 職員が去った後、母は祖母を車椅子から立たせ、負ぶろうとした。実家は古い造りで、高い上がり框が車椅子の走行を阻むからだった。

 私は自然とその役を買って出た。若い私にも祖母はずっしりと重かった。奥の間の介護ベッドまでは大した距離ではなかったが、小柄な老人とは言え、全身を脱力した人間の重量は予想外だった。

 祖母はベッドに横たわると、何方どなたかは存じませんが、と孫の私に礼を述べた。その瞬間、祖母への苦手意識は消えた。

 当時の実家を思い出す時、私は鼻腔に芳香剤の強い匂いを嗅ぐ。同時に、下水のような微かな汚臭も蘇る。何とか汚物の気配を掻き消そうとする母の必死さが垣間見えた。


 父から連絡があったのは、介護が始まってもう直ぐ一年が経とうとする頃だった。久し振りに聴いた父の声は、静かに祖母の急死を伝えた。

 自宅での死は警察の現場検証が不可欠だが、私への連絡は全て済んでからだった。死因は窒息死との事だった。

 それは、いつものように母が祖母の食事を介助している時に起きたと言う。

 祖母が急に食べたいと言い出したのは水団すいとんだった。祖母の故郷の味だったらしい。

 母は、その小さな塊を一つずつスプーンで掬い、祖母の口に運んだ。しっかり食べ終えた事を確認してから新しい塊を与えていたが、幾つ目かの時に突然、祖母が喉を掻き毟り始めた。

 母は祖母の背中を叩いた。叩き続けた。やがて、藻掻いていた祖母が反応しなくなった。母は意識を失った祖母を支えながら119番に電話を掛けた。

 この一部始終を体験したのは母だけだ。一度説明を受けただけなのに、私の脳裏にはまるでその場に居合わせたかのように今も鮮明な情景として刻印されている。


 時に人間は、赤の他人よりも身内に対して容赦なく接するものだ。侭ならない苛立ちを愚直にぶつけ合い、断ち切れない絆に絶望する。三面記事を賑わす殺人の大半は顔見知りに依る犯行で、その中でも親族間の割合が高い事と無関係とは思えない。

 我が家で起きた事故は殺人の統計から漏れた、などと断言するつもりはない。或る母親と或る一人娘との悲しい別離からいたずらな妄想を逞しくしただけだ。

 でも、近頃の私は、母の証言を元にしたが脳裏を過って仕方がない。

 祖母の葬儀から間を置かず自死を選んだ母。その理由は判らない。あれから早、半世紀が経つ。


 ノックの音がする。もう食事の時間らしい。

 娘は私が要求していないものまで用意する。咀嚼し辛いものでも、飲み込み難いものでも、お構いなしだ。

 娘にとって寝た切り同然の私は悩みの種だろう。早々にシングルマザーの道を選んでからは母一人、娘一人で何とかやって来たが、そんな生活の終焉はそう遠くないだろう。

 家族の間にある振り子は、愛だけでなく憎しみに対しても極端に傾く。昏い血の連鎖が不幸にも相似形を成した時、歴史は繰り返されるような気がしてならない。

 救いがあるとすれば、娘に兄弟姉妹はなく、結婚にも子供を持つ事にもまるで無関心な事だ。

 願わくば、私の死を以て昏い血に終止符が打たれん事を――芳香剤と、汚物と、どろりとした料理とが混じり合い、私の鼻腔を擽ろうとしている。

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