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 この街に引越して来て丁度一週間が経つ頃。荷解きを終え、部屋の家具たちも綺麗に配置し、一通りの作業を終えた所でした。その日は昼過ぎに全ての作業が終わった為、怒涛の一週間も相まって、蓄積された身体の疲労が溢れ出てしまったのか、ふかふかのベットに腰かけて一休みするつもりが、いつの間にか夢の中へと深く堕ちてしまいました。

 そして目が覚め、気づけば時計の針は二十一時を跨いでいました。仕舞った。まさかこんなにも居眠りしてしまうなんて。部屋の中は既に暗く、月の光と、街の明かりだけが微かにベランダ側の窓を照らしていました。鉛の様に重たい身体を起こし、ベランダに向かい、カーテンを閉め、部屋の明かりを付けて、そこでようやく自分がお腹が空いている事に気が付きました。確かに朝から何も食べていないし、昼間から居眠りをしていたせいで胃の中は当に空っぽです。この時間から晩御飯を用意するのも億劫おっくうなので、仕方なしにコンビニで済ませる事にしました。あまりコンビニご飯は好きじゃないけれど、外の空気を吸いに行きたかったのと、この街に引っ越して来たあるものを見に来たかったのもあり、渋々ではあるが外出する準備を始めました。着ていた部屋着を脱ぎ捨てて、青いスキニージーンズ履き、自分のサイズより大きめのパーカーを頭から被る様に着て、財布だけを持ち家を出ました。


 近くのコンビニに向かう途中に私の目的の場所はありました。そこは川沿いにあり、公園というよりは、広場の様な場所になっていました。そこにある、それはもう目を引くとても大きな木。そう、それこそが私が会いたかった桜の木なのです。広場に入る前から息を飲む程でした。季節はまだ冬。勿論、花は咲いていません。しかし二月の後半、小さな蕾がそこかしらにぽつぽつもう付き始めていました。可愛らしい蕾が、綺麗な花になる。桜はまるで女性の様だと小さい時からそう感じていました。 

 しばらく、ぼうと立って桜を見ていると、何処からか女性の声で話かけられた気がしました。後ろを振り返っても誰もいません。疲れすぎて幻聴げんちょうでも聞こえてしまったのか、遂に頭がおかしくなったのか、困惑の色を出しながら再び木の方に目をやると、そこには一人の女性が立っていました。膝下まである黒のロングコートに身を包み、足元はちらりとロングブーツが垣間見かいまみえ、髪はダークブラウンで長く、後ろで一つ括りにしていました、両耳には淡い撫子色のピアスをして。

 一体いつの間に…。何処から?さらに困惑の色が濃くなっていき、あたふたしていると、女性が私に向けて話しかけてきました。


「 え?私?」「同じ匂いって言われても香水とか付けてないし…。」「話ですか…。少しなら良いですけど…。」いきなり知らない女性に話しかけられ驚きを隠せませんでした。しかし何故だか悪い人には見えなくて、声色もとても柔らかく、自然と安心してしまう、そんな第一印象を抱いた女性でした。

 「冬は私もあまり得意ではないです。」「それ、分かります。」「動物達の事は考えた事はありますが、虫の事なんて考えた事もないですね…。」「人は、あまり得意ではないです。一度嫌な思いをしているので。」「優しい人…。そうですね。良い人もいますよね。」「はい、優しい人は好きです。」「はい。」「吉野よしのさん、ですか。」「はぁ…。」「私は構いませんが…。」

 「確かに冬は長いですよね。」「一番好きな季節?それって、春ですか?」「街を汚す人達ってお花見やバーベキューとかですか?」「確かに、マナーは守って欲しいですね。」「ところで、。吉野さんはどんなお仕事を?」「え…。失踪や殺害?」「そんなにも危険でブラックな仕事なんですね…。」「最後まで、美しく、ですか。」「は、はい。確かにお綺麗です。」「あれ…。私なんで此処で足を止めたんだろう。」「もう、既にお綺麗ですよ。」「更にですか?見てみたいです。」

 「あ、最近引っ越してきたんです。」「ゆっくりと、綺麗な景色が見たくて…。」「いえ、まだ慣れなくって。」「吉野さんはいつからこの街に?」「この街から出たいと思った事はないんですか?」「え、私はたまたま通りかかっただけで…。」「え、もう十二時。」「は、はい。吉野さんもお気をつけて。」


 スマートフォンの時刻を確認して目を疑いました。あれから三時間近く話し込んでいたなんて。それにしても吉野さん…。あんな所で何をしていたんだろう。凛としていて、とても綺麗な女性。歳は、二十代後半か三十代前半位に見えました。それと何処かで聞き覚えのある優しい声。また会えるのかな。会いたいな。次はいつになるんでしょう。そんな事を考えながら、急いでコンビニに立ち寄り、お弁当だけを買い足早に家に帰りました。

 一週間程時間は流れ、私は再び吉野さんと出会った公園へ足を運びました。今日はまだ昼間。小説の執筆のついでとして。前から気になっていた喫茶店も近くにあったのでそこにも寄ろうかと思います。公園に着くと吉野さんは一週間前と同じ場所に居ました。服装は特に変わらず、背筋をぴんと伸ばしただ立ち尽くしていました。


 「吉野さん、こんにちは。」「そうですね、一週間振りですね。」「そんなんじゃないですよ。」「いえいえ、まだまだお姉さんですよ。」「私ですか?私は今少し物書きを…。」「そう、小説。」「大変と言いますか…かなり無謀で、夢のまた夢と言いますか…。小説家デビューしたいって思う人のなかで小説家になれる人は運と実力が段違いなんです。」「え、どうして、だろう…。」「いえ、そんな事ないです。小さい頃から誰よりも本が好きで、頭の中で物語を作るのが好きでした。それを今言語化して、作品にして、自分の作品も皆に読んで欲しいから、小説家を目指しています。」「本当ですか?」「嬉しいです。」「はい!必ず、完成させて吉野さんにも読んでも欲しいです!」「約束ですよ。」

 「あ、これから気になっていた喫茶店に。」「喫茶 ひふみってお名前なんですね。」「ありがとうございます。一度コーヒー飲んでみますね。」「そうですね。ありがとうございます。頑張ります!」


 吉野さんとの会話を終え、その喫茶ひふみへと向かいました。公園からは目と鼻の先で歩いて三分程のとても小さなお店でした。かなり古びた木造の扉を引き開けると、上に付いている小さな鈴がりんりんと音を立て私の来店をカウンターに座っていた男性に知らせました。店内はカウンター席が五席と少し大きなテーブル席が一席のこじんまりとした内装でした。カウンターの壁には八十年代から九十年代のレコード盤が何枚か飾られており、流れていた音楽は私でも聞いた事のあるビートルズの名曲でした。

 「いらっしゃい。」

 「こんにちは、一人なですが大丈夫ですか?」

 「うちは一人でも、二人でも、皆でもいいお店です。」

 「ありがとうございます。」

 「はい、お水と、おしぼり、それとメニューね。」

 「ありがとうございます。決まりましたらまたお声かけします。」

 「はいよ。」

 何だか怖そうな人でした。笑顔がなく、愛想もない。入るお店間違えたかもしれない…。と思いながらも、何も頼まずに店を出るのは失礼極まりないのでしぶしぶメニュー表を開きました。私はメニュー表に目を落とし愕然としました。そこに書かれてあった内容はこうでした。



 ・ドリップコーヒー(深入り・浅入り)

三百円


 ・水出しコーヒー 二百八十円



 と、他にページは見当たりません。嘘、これだけ?あまりの品数の少なさに戸惑っていると、マスターらしき先ほどの男性が再びこちらまで来て話しかけて来ました。

 「まだ決まらないのかい。」

 「す、すみません。あの…。メニューってこれだけですか?」

 「そうだが。」

 「あ、そうなんですね…。では、ドリップコーヒーを一つ下さい。」

 「深入りかい?それとも、浅入りかい?」

 「ふ、深入りでお願いします。」

 「はい。じゃあちょっと待ってね。」

 そう言うと、男性はカウンターに立ち、作業に移りました。コーヒー豆の入った瓶を開け、豆を丁寧にハンドミルに注ぎ入れ、がりがりとゆっくり回し始めました。粉状になった豆をドリッパーにセットし、強面こわもてからは想像も出来ない程に優しく丁寧に、お湯を注ぎ始めました。店内は流れるビートルズと、コーヒーを入れる音だけが静かに鳴っていました。出来上がったのか、マスターがソーサーとマグカップを運んできてくれました、中には香り高いコーヒーが。

 「おまたせ、熱いうちにどうぞ。」

 「ありがとうございます。良い香り…。」

 早速、一口飲んでみると深入りなのにとても飲みやすく、ミルクや砂糖なんていらないくらいすっきりとした後味で甘ささえ感じられました。

 「美味しい…。」

 「それは良かった。じゃあゆっくりしてって。」

 コーヒーの味に関心しつつ、私は本来の目的を果たす為に、鞄から林檎りんご印のノートパソコンを取り出して開き、電源を付けました。そしてかたかたとノートパソコンの上で指を躍らせました。しばらく執筆に没頭していると、マスターから声を掛けられました。もしかしたら、長居のし過ぎで怒られるかもしれないと、身構えていると、「頑張っているみたいだから、これ、サービス。」と、丸くて可愛らしいクッキーが入ったお皿をテーブルに置きました。私はぎょっとして、肩をすくめてしまいましたが、直ぐにお礼の言葉を口にしました。

 「そ、そんな、ありがとうございます。」

 「焼きたてだから、多分美味しいと思うよ。」

 「なんだか、すみません…。頂きます。」

一つ口の中に入れてみる。昔ながらの甘くて美味しいクッキー。どこか懐かしい味。小さい頃よくお母さんが焼いてたっけ。何だか思い出してしまうような優しい味でした。

 再び執筆を再開し、切りが良い所まで書き終えた頃にはもうお天道様はかなり傾いていました。お会計を済ませて、一言「美味しいコーヒーとクッキー、ご馳走様でした。」と伝え喫茶ひふみを後にしました。マスターは口数は少ないけれど、根は優しい人なんだろうなと思いました。今度また行ってみよう。そう思える素敵なお店に出会えました。

 その後私は何に焦らされているのか、家でも憑りつかれた様にパソコンにしがみ付き、執筆を続けました。何日も何日も、徹夜を繰り返し思いつく文体を最大限に絞り出し言葉を紡ぎました。そしてようやく予定していた所の八割まで書き終える事が出来ました。しかしもう頭と身体が当に限界を超えていた為、倒れ込む様にベットの上に転がり、一休みしようと瞼を閉じました。けれど、何故だか一向に寝付けません。執筆時は考えなかったのに、何もしていないと頭に思い浮かぶのは、仕事の事でも恋人の事でもない、吉野さんの事ばかりでした。会いたい。けど何時あの場所にいるか分からない。連絡先も知らないし、年齢も、何が好きで、何が嫌いなのかも。名前ですら吉野さんとしか…。ちゃんと知っている事は何一つとしてない。もっと知りたい。吉野さんの事。会いたい。頭が会いに行こうと思った時には既にもう靴を履いて玄関から飛び出していました。服装や髪型を全く気にせず、ただ公園に向かって足を動かしました。

 吉野さん今日も居るかな。二十三時前、居なくて当たり前の時間。けどもし居るのなら少しだけでも話したい。ただそれだけでいい。居なかったら諦める、仕方ない。だってこんな時間だもの、居る訳ないよね…。

 公園に着きその姿を探すと、その雅な女性は黒い野良猫とじゃれ合い、会話している様でした。「あっ」と思わず声が漏れてしまい、猫と遊んでいた吉野さんに気づかれてしまいました。


 「こんばんは。そ、そうですね。」「はい、順調です。あと八割ぐらいです。」「え、くまですか?嘘、そんなに酷いですか。」「え…。隣ですか?」

 吉野さんにくっ付いてるよ私…。こんなにも近いの初めて。しかも温かくて優しい。寝てしまいそう…。

 「は、はい。寝ません、起きてます。」「どうして来たんでしょう…。えっと、お恥ずかしい話、吉野さんに会いたくて…。」「か、可愛くなんてありません。」「分かりました。日付変わるまでには帰ります。」「確かに寒いですね。けど私は今温かいです。」「勿論、忘れてませんよ。吉野さん読めるんですか?」「今書いてるのは現代ドラマを。」「どんなイメージですか。ミステリやホラーは自分で構想考えるのが大変なんです。」「出来ますかね…。騙されたと思ってですか…。」「分かりました。一度挑戦してみます。」「はい。こんな夜中にありがとうございました。」「では、また。」


 会えた、会えた、会えた。飛び出して来て良かった。まさか会えるなんて。しかも吉野さんにくっ付いてしまった。それにしても私ってなんで吉野さんの前だとあんなに冷たくしてしまうの?もう少し愛想よく出来ないのかな。渡瀬翠、あなたは愛想が良くて礼儀が良い女性。そう自分に言い聞かせながら布団の中でジレンマと共に夢の中に落ちて行きました。

 「吉野さんこっち来て!この服とても綺麗じゃない?吉野さんにぴったり!」

 「こらこら、翠。置いてかないでよ。あら、確かに綺麗な服ね。」

 「ちょっと試着してみたら?」

 「えー、私はいいわ。それより今日は翠の服を見に来たんでしょう?」

 「そうだけど、吉野さんも何か買いなよー。毎日同じ服装じゃん。」

 「私はこれでいいの。もう少ししたらここに並んでる服達よりもっと素敵な服に着替えるからね。」

 「え、見てみたい!」

 「まだよ、あとちょっとしたらね。」

 「そっか…。楽しみにしてる!ねぇハグしたい。」

 「ハグ?しかたないわね。ほら、おいで。」

 抱き寄せられ、その体が触れた瞬間、大きな音が鳴り、頭を強く床に打ち付けました。はっと目が覚め、ベットから落ちたのを認識すると同時に、先ほどの幸せな光景が夢だった事に気づくのに数分かかりました。


 「おはようございます。」「あ、寝癖直すの忘れてました…。」「夢に吉野さんが出てきて、伝えきゃって…。」「三文の得ですか…。」「わ、分かりました。なんか色々動いてみます。」


 そう言われ早速家に戻り、ノートパソコンを開きました。確かに朝から執筆をすれば時間を友好的に使える。そしてキーボードに指が触れたその時、スマートフォンに一通の通知が入ってきました。それは恋人の翔真君からでした。連絡の内容は、『突然だけど明日、デートに行かない?』という内容でした。

 嘘、翔真君は仕事が忙しく、平日の休みなんて滅多に取れない筈なのに。直ぐに返事を返しました。『もちろんいいよ。また時間と場所連絡して。』早速一文得をした気分になりました。その後は、喫茶ひふみに行くとコーヒーを一杯サービスしてくれたり、吉野さんとこの間遊んでいた、黒い野良猫と遭遇し小一時間程遊んだりしました。早起きもたまにはいい事を吉野さんに教えてもらえた気がしました。

 そして翌日、翔真君とのお出かけの為に、いつ振りかにおめかしをして家を出ました。漆黒に染まったハイネックのニットを着て、ぴっちりとしたブルーのスキニージーンズを履き、膝上まであるブラウンロングブーツとロングコートを羽織っていきました。駅に行く前に、もしかしたらと思い公園に寄ることにしました。もし吉野さんが居たら見てもらいたい。普段とは違う私を。


 「こんにちは。」「そうなんです。今日はちょっとデートに。」「あれ?話してませんでしたっけ、恋人がいるんですよ私。」「気合入ってるのやっぱりわかりますか?」「ありがとございます。」「なばなの里へ行きます。」「綺麗な花が沢山あるんですよ。」「はい。お陰様です。」「分かりました。程々に羽目外しますね。」「ふふっ、何だかお母さんみたい。」「え、もうこんな時間。じゃあ行ってきます!」


 公園を後にし、駅に着くと、翔真君はもう来ていました。車の中で待っていた彼に手を振り、鍵を開けてもらいました。中に入ると車内は温かく、静かな音楽が流れていました。彼に会うのは、引っ越しを手伝ってくれた時以来です。

 「お疲れ様。寒いねー、どう、この街は慣れた?」

 「お疲れ様。そうだね、少しは。」

 「なら良かった。じゃあ早速行きましょうか。」

 「運転お願いします。」

 「いえいえ、かしこまりました。」

 そして彼は車を走らせ、目的の場所まで一時間程運転してくれました。そこで私達は美しくていい香りが立ち込める花園を一日かけて見て回り、夕方十七時にはその場を後にしました。その後、そのまま解散するのかと思っていたのですが、どうやら食事の予定まで立てていてくれたらしく、連れられるままとあるレストランまで来ました。けれど、そこでした会話は楽しい漫談や世間話などではありませんでした。そう、それは将来の事。私の、今の現状の話でした。

 「翠、仕事探したらどうだ?」

 「え、そ、そうだよね。」辞めて、その話をしないで。

 「小説書いてるんだろ?けど、それってかなり途方もない夢なんじゃないのか?」

 「そうだけど…。夢ってそういう物でしょ?」

 「僕は夢を叶えた。警察官になるっていう夢を。」

 「それは、翔真君が凄いからだよ。」

 「違う、勉強していたら誰だってなれる物なんだよ、警察官って。何が言いたいかと言うと、努力や、勉強量ではどうにもならないだろ?翠の夢って。才能ってのが…。」

 「そんなことない!努力次第では小説家にもなれるよ!」

 「いや、難しいと僕は思ってる。」

 「そんなのやってみなくちゃ分かんないじゃん!翔真君は叶えられたのにどうして私は駄目なの?」

 「別に、駄目とは言ってないよ。」

 「言ってるよ…。それ…。」

 「僕はただ、安定した生活をしてほしんだ。分かるだろ?とりあえず手に職を付けて、そこからでもいいんじゃないか?」

 「翔真君は、応援してくれないの?」

 「してやりたいけど、今は素直に出来ないかな。」

 「そっか…。今日はありがとう。もう帰るね。」

 「帰るのか?そうか…。家まで送るよ。」

 「いいよ、寄りたい所あるし。」

 そう言い残し、溢れそうになる何かを必死に堪え、まるで逃げるようにしてレストランを出ました。

 なんで、なんで分かってくれないのよ馬鹿。そんな事私が一番分かってる。働かないといけないなんて。私はただ、夢を追いかけていたいだけなのに。それが許される人間と許されない人間がいるなんてあまりにも不公平過ぎる。

 私は後者。小学校三年生の時に両親を亡くしてから私は、母方の祖母に引き取られ生活をしていた。決して裕福ではなかった為、色々と我慢する事が多かった。けれど私は幸せでした。毎日朝と晩は美味しいご飯を食べれていたし、何より祖母が気を使い、私に色々な小説を読ませてくれました。その頃から私は小説に心惹かれ、夢中になって読み漁り、いつかは自分でも紙の上に文字を躍らせたい、と願う様になったのです。


 「吉野さん、こんばんは。」「そうですね、デートだったんですけど喧嘩して、抜け出して吉野さんに会いに来ちゃいました。」「別れた訳じゃないです。」「やだ、私いつの間に泣いて…。」「ちょっと将来の話をしていたらすれ違ってしまって。」「喧嘩するほど仲がいい…。今時言いますかね?」「ありがとうございます。なんだか気を使わせてしまって。」「良いものですか?」「ふふ、楽しみにしてますよ、いいもの。」「できるんですか?」「確かに、吉野さんは嘘つかなさそう。」「はい。少し落ち着きました。」「帰れますよ。」「はい。また彼と向き合って話し合います。」「約束です。」「ごめんなさい。今日は一日ありがとうございました。」「では、また来ますね。」


 吉野さんと話しながら少しずつ頭が冷えてきたのか、私は冷静さを取り戻して行きました。あんな態度で食事もせずに飛び出してしまった事や、彼の気持ちを理解できなかった事をまずは謝らなくてはいけないと感じ、吉野さんの元を離れて直ぐに電話を入れました。切られても仕方がないと思いましたが、彼は直ぐに電話に出てくれました。

 『もしもし、どうしたの?』

 『もしもし。あの…。さっきはいきなり怒鳴ったり、帰ったりして、その、ごめんなさい。』

 『いや、翠は何も悪くないよ。』

 『けど、翔真君の意見や、気持ち、全く考えれてなかったなって反省してる。』

 『それは、僕もだよ。翠がどれだけ本気なのかを考えたこともなかった。あの後考えたんだ、もし自分の警察官になりたいって夢を誰かに反対され続けたらどれだけ悔しいかって。それを僕は君にしていたんだなって。』

 『ううん、そんな事ないよ。翔真君は私の事を想って言ってくれたんでしょ?私はそれを汲み取るべきだったんだよ。』

 『俺からも悪かった。ごめん。』

 『大丈夫だよ。お互い様だからね。』

 『また、今度食事だけでもしよう。』

 『いけるかな?私も時間ないよ。就職するって決めたから。』

 『え、仕事見つけるのか?』

 『そう、小説は一度お休みする。仕事見つけて、また落ち着いてからにするね。』

 『そうか、どっちも応援するよ。』

 『ありがとう。今日はもう切るね。』

 『分かった、おやすみ。』

 『おやすみ、またね。』

 電話を切った後直ぐに、インターネットの求人広告で働ける場所を探した。どこがいいかと流し読みしていると、駅前のカフェテリアで社員募集をしているという求人を目にした。直ぐにそのお店に応募してみると、ものの三十分で連絡が来て書類採用と伝えられました。けれど、最初はアルバイトからで三ヶ月やってみてから、社員という運びでした。よく考えれば当たり前の事ではある。とはいえ、いい方向に一歩前進は出来ました。次吉野さんに会う事があれば、約束通り結果を報告しよう。


 「こんにちは。吉野さん、いい報告です。」「はい、仲直り出来ました。」「この先の事を考えて私、働く事にしました。」「喜んでいいんですよ、小説は一旦お休みです。」「そうですね…。まぁ仕方がない事です。」「はい…。寄れる時はなるべく寄ります。」「やっぱり大変ですよね…。」「はい。頼らせてください。」「勿論忘れてなんかいませんよ。」「分かりました、必ず行きます。」「すみません、吉野さん今日はもう行きますね、早速仕事で…。」「話、聞いてくれてありがとうございます。行ってきます。」


 一週間後、私は吉野さんとの約束を果たす為に、正午頃公園へ向かいました。公園の入り口からいつもの場所に吉野さんの姿が見えました。しかしいつもと何だか服装が違い、一瞬違う人かと間違えそうになるほど。ダークブラウンの糸の様な長い髪は綺麗に降ろされており、淡い花色のロングワンピースを着て、可憐で華奢な脚がそよ風でちらり、ちらりと覗かせていました。普段とは全く違う身なりに困惑しましたが、その姿があまりにも美しく自然で似合っていた為、深くは触れませんでした。


 「吉野さん、こんにちは。」「良い天気で、温かいです。」「いえいえ、吉野さんの為ならこれくらい何ともないですよ。」「はい、なんですか?」「え、あ…。はい?」「そうだったんだ…。」「そういえば、自己紹介まだでしたね…。」「私は、渡瀬翠わたせ すいっていいます。」「そんな事ありませんよ。」「会えなくなる?それってどういう…。」「なに言ってるんですか…?私分かりません。」「そんな!どうしてそれを先に…!」「えっ、そんな急に、好きですよ!大好きですよ!」「時間って、私まだ怒って…。」「お願い、ですか?聞きます。」「目をですか?こうでいいですか?」「え、今なんて言いました?」「二つ目はなんですか?」

 「え、それってどういう、事ですか…」


 閉じていた瞳を開ける。

 目の前にあったのは、桜花爛漫おうからんまん。辺り一面を撫子色に染め上げた初桜の木、風が吹くとともに花びらは儚く散り、それと同時に吉野さんの声も消えた。見惚れ、立ち尽くす事しか出来ない程の美しさ。他よりも高くて広い、あの女性の心を映し出したかの様な清らかで、淡い、今にも消えてしまいそうな花色。ここ数週間の何気ない日常がカセットテープを逆再生したかの様に脳内で流れ出す。

 青いままで枯れていく私の想い。ちゃんと伝えられないまま、さようならも、好きも言えないまま、咳をするみたいに「ありがとう。」とだけ口にして。次の想い、言葉は何処かとポケットを探してみても、見つかるのは貴女を好きな私だけでした。貴女を好きなままで消えていく私の記憶。思い出せなくなるその日まで毎日貴女を想う。その儚い色に触れる度に必ず。

 決して忘れない。貴女にいつも励まされて事。貴女にいつも助けられていた事。貴女にいつも見守られていた事。貴女にいつも甘えていた事。貴女と過ごしたかけがえのない日々や他愛もない会話の数々。寒いねって言ったら、寒いねって聞こえる。あれは幸せだったのね。いつしかその姿を上手く視界に入れる事が出来なくなっていました。止まらない涙、堪えても溢れ出てくる雫をそっと指で拭かれた気がしました。しかしそれは舞い散る桜の花びらで、よく見ると枝先が静かに揺れている様で、

 「そんな顔しないで、翠。綺麗なアナタの顔が台無しよ。」と言われた気がしました。私はそれに応える様に、再び瞼を閉じ、想い、桜に語りかけました。


「決して忘れない、貴女の事を。私が愛した染井吉野ソメイヨシノ。」

















燿羅


あとがき

皆様、新年あけましておめでとうございます。

どうぞ2024年もkaira及び、燿羅をよろしくお願い致します。

「その色に触れる度に君を想うということ」完読、誠にありがとうございます。こちらのBは大変読みにくく、分かりにくい作品となりました。大変申し訳ございません。

少しだけ解説を。

この物語はAとBで分かれた二部構成となっておりました。それはアナログレコード盤をイメージした物となります。アナログレコードはA面とB面があり、一枚の盤の表裏、A面を聴いている時はB面も一緒に回っている状態を指します。

つまりは…もう分かりますよね?

読者に委ねる形となりましたが、解説はここまでに致します。

それではまた、何処かでお会いしましょう。

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その色に触れる度に君を想うということ 燿羅 @nisino26

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