水草
オキタクミ
水草
雨が激しい。無数の雨粒がビニール傘を煩く叩く。腿から下は濡れそぼち、雨水の溜まった長靴の中にはふやけ切った足裏の感覚がある。けれど、それらの音も感覚も、どこか遠い。腿から上、傘より下の空間のうちに意識が閉じ込められ、そこから外界を眺めているようだ。一歩ごとに、長靴の中で雨水が、そして長靴の下で玉砂利が音を立てる。それらの音を引き摺って歩きながら、体を左に捻り、傘を後ろにもたげる。目線の先には、青く濡れる幾千もの竹が視界を一杯に埋めている。いずれの竹も高く高く真っ直ぐに伸びていて、どれだけ目線を上げても、竹が途切れて十月の重たい雨空が見えることはなく、上向けた顔はついに真正面から雨を受ける。道の反対側に目をやると、今度は同じくらい高く真っ直ぐな杉たちが、その毛羽だった樹皮で視界を覆っている。徳川斉昭は、魂が肉体を離れて陰と陽の世界を体験するような空間を意図してこの道をつくったのだと、入口に立っていた掲示の文言を反芻する。
竹と杉の林を分け入るように小道を歩いていくと、茅葺き屋根の小さな門が見える。門の柱には「好文亭中門」と書かれた札がある。傘を低めてくぐると、竹と杉の林立は終わり、やや開けた場所に出る。別れ道の前で立ち止まり、「好文亭」と書かれた木の札が指すほうの道をとる。料金所のような場所がある。受付のひとに百円玉を二枚渡してチケットをもらい、前を通り過ぎる。少し向こうで、木々に埋もれるようにして、小ぢんまりとした木造の建物が雨に降られている。
——
半年ほど前のその日も、ひどく雨が降っていた。足にまとわりつく濡れた靴下とズボンの裾の不快さをやけにはっきりと憶えている。沈黙が降りるたび、店の外で雨が舗道を打つ音がここまで届いたことも。それから、視線を落とすと目に入る、机のうえにのった見慣れないシチリアの伝統菓子。筒状に丸まった薄く硬い生地の中にまっ白いリコッタチーズがくるまれていて、僕から見て右側にひとくちぶんだけ齧った跡がついている。味は思い出せない。耳馴染みのない名前も。そこは乃木坂にあるシチリア風がコンセプトのカフェで、店内装飾もそれに合わせた凝ったカラフルなものだった気がするのだが、僕の記憶の中では、水に明るい色の絵の具をぽたぽたと垂らしたときのようなぼやけた映像になってしまっている。いっぽう、店の奥のほうで、LEON の表紙のファッションをそのまま真似したような恰幅の良い日本人男性が脚を組んで座り、隣に腰掛ける派手な服装の白人女性の肩をわざとらしい仕草で抱いていた姿は、やたら鮮明だったりする。
嫌な記憶というのはたいがい断片的だ。そのひとに言われた言葉のいくつもが頭にこびりついているが、それらがどういう順序で話されたのか再構成することはうまくできない。
「つまり、下心で近づいて、友だちの振りしてたってこと?」
——
不安を覚えるほどに軋む木造の階段を昇る。三階は八畳ほどの一室のみで、その部屋は三方の障子が開け放たれ、やや弱ってきた雨に煙る空気を透かして、偕楽園とそれを囲む水戸の街が一望できる。緑があるのは偕楽園の一帯のみで、その外側はアスファルトとコンクリートと金属の領域。遠望に、園の輪郭をなぞる道路の上を自動車が走る。斉昭がこの部屋から水戸を一望していたころには、眺めは偕楽園の輪郭で不連続に途切れたりせず、より広々と続いていたに違いない。進み出て見下ろすと、眼下に広がる庭園には、葉も花もなく黒々とした枝をうねらせる丈の低い木々が点々と散らばっている。梅だ。
「好文」とは梅の異名だそうだ。「文を好む」、即ち「学問に親しむ」という意味で、学問に親しめば梅が咲くという故事に由来する。斉昭は、好文亭を、学問に励む人々の一時の休息の場として設えた。苦笑する。学問というものに嫌気が差し、半ば逃げ出すようにして小規模の旅行へやってきた大学院生というのは、この亭の趣旨に照らすとどうも皮肉だ。
——
「あのひとにとっての『友だちとしての信頼』に、『性愛を向けないこと』も入ってたってことでしょ。だから性愛を向けた瞬間に、『裏切られた』って思ったんじゃない?」
と、彼女は言った。彼女はそのひとの研究室の後輩で、僕の同期だ。平日昼時の大学の学食。数年前だったらごった返しているはずの時間だが、パンデミックのせいで人は疎らだった。
「『性愛』って、ただ告白しただけだよ」
「けど『付き合いたい』って言ったときに、『セックスしたい』って意味も入ってたわけじゃん?」
「——友だちとして話したり遊びにいったりしてるうちに好きになっただけだよ」
「まあ、そうなんだろうね」
「それも『裏切り』なのかよ」
「どうだろうね。ていうか君のコミュニケーションの取り方も悪かったんじゃないの、とは思うしね、正直」
「——じゃあ、どこが悪かったの」
「知らないよ。そもそもほんとのところは本人にしかわかんないし」
そう言って彼女は、とっくに飲み干した色つきプラスチックのコップから氷を口を含んだ。その氷を頬の裏側で転がしながら、「まあ」と続ける。
「性愛それ自体が悪いわけじゃないじゃん? たいがいの場合やっかいなのは確かだけどさ、だからって自分の性的指向とかアイデンティティとか恨み始めたら沼だし。だからまあ、コミュニケーションだよね、結局」
「——そんなん言われても、なにをどうしたらいいのかわかんないんだけど」
「私に言われても知らないって」
彼女は氷を噛み砕きながら、空になったコップをくるくると回した。そしてふと、
「あ、ピピロッティ・リスト観に行ったら?」
——
「ピピロッティ・リストってひとの回顧展があるんだよね」
と、そのひとは言った。目は丸く、口もとはわざとらしいくらいににこやかだった。あの日よりもほんの数日前のことだ。どこかいけすかないオープンテラスを、五月晴れの光と風が通り抜けていった。
「知ってる?」
「いや、わかんないです。どっかで聞いたことある気もするけど」
「ジェンダーとかテーマにしてるビデオ・アートのひとでさ。私、このひとで修論書いたんだよね」
「へえ」
そのひとはスマートフォンの画面をこちらに向けた。YouTube の動画だった。スローモーションの映像。なんだか牧歌的な、頭がぼーっとするような音楽。水色のワンピースを着たひと——おそらくピピロッティ・リストそのひとだろう——が、先端が明るいオレンジ色で、槍ほどに巨大な土筆のような植物を手に抱え、楽しそうにこちらへ向かって歩いてくる。
「有名なんだけどね。現代アートは日本じゃ人気ないからさ。日本でこのひとの回顧展なんて、これ逃したらたぶんもう当分やらないんだよ」
映像の中、リストはゆっくりと植物を振り上げ、道路脇の自動車の窓へ向けて、ゆっくりと振り下ろす。ガラスが割れる音が、引き延ばされながら、牧歌的な音楽に重なる。
「どこでやるんですか?」
「水戸」
——
牧歌的な音楽が、部屋いっぱいに満ちている。水戸芸術館。会場の第一室。床には色とりどりの大きなクッションが置かれていて、来場者の半分くらいは、それらにもたれて半ば横になっている。その来場者たちを囲むように、壁の二面が大型のスクリーンになっていて、そこにはあの、スローモーションの映像が流れている。水色のワンピースのピピロッティ・リストが、窓ガラスの割れた自動車の横で警察官に会釈し、警察官も朗らかに手を振り返す。
スクリーンから離れて奥へ進む。次の展示室は、誰かのプライベートな部屋のような空間だ。薄暗い中に、極彩色だがなぜかこちらを落ち着かせる色合いの家具が設えられている。そして、本や花瓶の置かれたテーブルの脚もととか、キャビネットに並べられた空き瓶のうちのひとつとか、半ば開いた救急箱の側面とか、そこにいない誰かの生活の端々に、その誰かの夢想の名残のように映像が投影されている。それから、さっきの部屋と同じように、あちこちにソファやクッションが用意されていて、やはり来場者の半数はそれらに腰を下ろして寛ぎ、中には微睡んでいるひとすらいる。
一番奥の部屋は寝室だ。何台かのベッドが円形に並んでいる。空いているひとつの上に身を横たえ、仰向けになると、ベッドの柔らかさと心地良い音楽が身を包む。天井にはやはり映像が投影されている。水中の映像。魚や水草に混じって、しわしわのゴムのようなものがゆらゆらと揺れている。やや遅れて、それが萎れた男性器であることに気づく。ちょうど同じタイミングで気づいたらしい誰かが、部屋の反対側で、短く小さな笑い声を漏らす。その笑い声に、なにか救われたような気持ちになる。
——
憶えている断片がもうひとつある。そのひとの、喋りながら、かすかに歪み、かつ小刻みに震えていた唇。それが、怒りではなく怯えの顕れだったのではないかと思うようになったのは、ずいぶん後になってからだ。
——
パネルの下辺りにカードキーをかざすと、縦一列に並んだボタンが一斉に光る。八階を押すと、僕ひとりを乗せた狭いエレベーターは静かに上へと昇り始める。八階に着いて扉が開く。外へ出ると、ビジネスホテルらしい、清潔で素っ気ない廊下に扉が等間隔で並んでいて、壁に書かれた「大浴場」の矢印に沿って目を奥に向けると、「女」と書かれた赤いのれんと「男」と書かれた青いのれんが見える。手前からみっつめの扉にカードキーで触れる。鍵の解除される音が扉の内側で聞こえる。ノブを掴んで開き、中に入る。濡れたビニール傘を扉のそばに立てかけ、リュックサックを部屋の奥に放り、無意識に手に取ったデスクの上のリモコンでテレビを点ける。液晶画面には、地上波と同列に男性向けアダルトビデオのチャンネルが並んでいる。ベッドに腰掛けて長靴を、それからびしょ濡れの靴下を脱ぎ捨てる。ふやけて白い足の裏が萎れた男性器に見えて、僕は自嘲気味に笑う。
水草 オキタクミ @takumiOKI
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