不幸避け傘

刀綱一實

第1話 不幸避け傘

「……あれ、こんなところに傘なんてあったっけ?」


 私は玄関を見て、ふと立ち止まった。


 ありきたりなワンルームマンションの玄関は、おざなりな三和土の横に扉のついた靴箱が置いてあるだけ。その靴箱の扉に、黒くて大きな傘がたてかけてある。昨日部屋の掃除をしたから、出したまま忘れてしまったのだろうか。


「やば、時間!」


 その日は曇っていたため、私は深く考えず、その傘を持って家を飛び出した。



 私がなんとか電車に飛び乗り、会社の最寄り駅を出た時、頭にぽつりと何かが落ちてきた。


「あー、降ってきたか……」


 傘を開き、本降りにならないことを祈りながら道を急ぐ。毎日この時間帯は人通りが多くてただでさえ歩きにくいのに、皆が傘をさし始めたら、あちこちでぶつかってさらに時間をとられる。


 しかし、私の希望とは反対に雨脚は強まってきた。ぼたぼたという大きな音と共に雨粒が傘をたたき、みるみる足下には水たまりができていく。私は自然と小走りになって、会社までを必死に駆け抜けた。


「ふう……」


 十分後、会社の玄関に到達する。屋根の下で傘についた水滴を振り落とし、たたむ。幸い傘が大きかったので、体はそんなに濡れていなかった。


「それにしても、誰ともぶつからなかったな……」


 朝のラッシュの時間、あれほどまでにいつもごった返す道で接触ゼロ。そんなことがありえるのだろうか。それとも、周囲の会社が休みだったとかいう単純な話だろうか。


 私は自分のデスクに到着すると、それとなく隣の人に聞いてみた。


「朝、通勤大変でしたよね。この前の道、人通り多いから」

「そうそう! おじさんの大きな傘と当たっちゃってさ、これよ、これ」


 そう言って同僚は、大きな水の染みができた胸元を指さす。大変だったね、となぐさめながら、私は奇妙な違和感をおぼえていた。


 では、通りはいつも通り混雑していたのだ。それなのに、私は一切それを感じなかった。あんな大きな傘を持っていたのに。


「……タイミングが良かったのかな」


 私はそう思うことにした。そして、今日の仕事を始めるべくメールボックスを開く。


「あれ、返事来てる!」


 いつもはなかなか返事をくれない他社の担当者が、早々に立場を明らかにしていた。それがないと進まない仕事がいくつかあったので、午前中を有効に使えそうだと私はうきうきしていた。


 その日は終始、物事がそんな感じでうまく進んだ。一日の終わりに変な仕事が割り込んでくることもなく、機嫌がいいまま退社することができた。


「雨ではあったけど、けっこういい日だったじゃん!」


 私は足取り軽く帰宅し、雨に濡れた傘を玄関に置いた。するとその時、柄の部分に切れ目があることに気付く。


「何、これ?」


 試しに柄をクルクルと回してみると、切れ目のところですっぽりと抜けた。そこは筒状になっていて、小さな紙片が入っている。


『取り扱い説明書』


 紙片の最初には、そう書かれていた。下に細かい字で説明書きがあるため、さらに読み進めていく。


『この傘は、魔法の傘です。雨から持ち主の体を守るように、降りかかってくる突発的な不運から守ってくれる効果を持っています』


 私はその説明を聞いて、今日一日のことを思い出す。では、行きの道も、仕事の内容も、順調だったのはもしかしたらこの傘の効果だったのか。


『効果範囲は半径五十メートル。傘から離れすぎると効果がなくなるため、お気をつ

けください。さらに……』


 注意書きが下にも続いていたが、雨でにじんだようになっていて読めない。注意書きの続きだったから気になったが、私にはどうしようもなかった。とりあえず同じ体験をした人がいないかネット検索してみたが、出てくるのは似た設定のファンタジー小説ばかりだ。


「なに。使い続けるとなんか派手な副作用がある、みたいなやつ?」


 怪談ネタでよくある話だ。調子に乗って使い続け、しばらく経つと破滅するという落ち。私はそんな愚かな轍を踏むつもりはなかった。


「明日の予報は晴れだし、どっちみち傘なんていらないからね」


 私は傘を下駄箱の隅に押し込んで、その夜は気持ちよく眠った。




 傘を持たずに出勤して、元気が良かったのは午前中までだった。その日、私は疲れてよれよれの状態で帰宅する。


「ああ、もう……」


 昨日のツケがきたように、今日は一気にトラブルがやってきた。せっかく返信があったクライアントは考えを変えたし、ミスが見つかって課長にしっかり怒られた。その上、退社間際にたまたまとった電話が長いクレームで、その処理のために結構な残業になってしまった。


 多少の残業代はつくものの、体と精神の消耗は全くそれに見合わない。私は思わずしまいこんでいた傘を取りだし、ぎゅっと両腕で抱いていた。


 明日は金曜日。どうしても定時であがって、見に行きたい映画があった。


「……多少副作用があったって、あと一日くらいなら……」


 私は結局また傘を出し、翌日会社に持っていった。今度は嘘のようにトラブルなく仕事が進み、喜びいさんで映画館に直行する。雨でもないのに傘を持ち歩く私を同僚は怪訝そうに見ていたが、日傘だと言って強引にごまかした。


 一日、また一日。傘の使用日数は、しだいに伸びていく。私はそれがもたらす安寧にすがって、日々を過ごした。


 休みの日、私はスマホを見ていてあることに気付いた。迷惑メールや変な着信、時々やってくる怪しげな勧誘の人々を、最近一切見ていない。


「そういえば、あの傘の効果範囲って、五十メートルもあるんだ……」


 下駄箱に入れていても、この狭い部屋がすっぽり埋まってしまう。私は知らず知らずのうちに、毎日傘を使いながら生活していたのだ。最初は何日使えば反動が起きるとビクビクしていたのに、もうすっかり慣れてしまって恐怖も感じない。


「手放す気にはなれないもんね……」


 私が愛おしげに玄関に立てかけてある傘を見ると、それに応えて傘がわずかに動いたように感じた。




「あれから何年経つ?」

「二十年かな」


 どの町にもある、巨大ハンバーガーチェーン。その一角に、くたびれたサラリーマンたちが向かい合って座っていた。男たちはスーツ姿だが、奇妙なことに鞄や仕事道具を何一つ持っていないし、飲食物も頼んでいなかった。しかし周囲の人間たちは、それを咎めることなく作業や食事に没頭している。


「お前、あの傘を作ってずいぶんうまいことやったよな。悪魔といえど、お前くらいズル賢いのはちょっといないぜ」

「知性派といってもらいたいなあ。人間でも富裕層は、仕組みだけ作って他人に稼が

せてもらうものだよ」


 そう言って片方の悪魔が低く笑った。


「皆、人間が思わず利用したくなるような道具を作るのだけは上手だよ。だが、素人は代償をキツくしすぎる。結果、人間はすぐに死ぬか再起不能になって、長いこと精気を吸い取れなくなってしまう」


 悪魔は契約した人間が死んだときに魂を取るが、実は生きているときも活動してい

る。人間の精気を吸い、己の魔力の源とするのだ。その魔力で、また哀れなカモを引っかける釣り針を作り上げていき、負の連鎖は続く。


「へいへい。どうせ俺は素人ですよ」

「あの傘は、確かにカモを不運から遠ざける。だが、同時に寄ってくる幸運もはね返してしまう」


 予定調和ということは、裏を返せば変化がないということだ。そのことに途中で気付いて傘を手放す人間もいるが、たいていはそのままズルズルと傘を持ち続ける。人間とは極端に変化を嫌う生き物なのだと、頭のいい悪魔は気付いていた。


「……現在の所有者でもある、あの女もそうだよ。傘を手放していれば、一年前に結婚の、三年後に昇進のチャンスがあった。その後も細々あるが、それらを全部すっとばして齢は五十」

「こりゃ、死ぬまで持ち続けるな。それにしても、何十年経っても劣化しない傘に、疑問の一つも抱かないのかね」

「最初に魔法のアイテムだと能書きを渡してあるからね。そういうものだと納得する

んだろう。現代には物語が溢れていて、違和感を持つ者が少なくなっている……そういう点では、我々が最も感謝すべきは、作家という人種なのかもしれないな」

「悪魔が感謝とか言うなよ、気持ち悪い」

「これは失礼」


 男たちの笑い声が、フロアに低く響く。その不気味さに数人の客が視線を向けたとき、二人の姿はすでにかき消えていた。



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