ベランダ

戸右歩

ベランダ

 左手で膝を抱え、真っ黒な夜空を見上げる。心臓が凍りそうなほど冷たい冬の風がぴゅうっと吹く。風の強さからここがマンションの9階であると再認識をする。小刻みに吐く息は白く、背中に滲んだ汗が一層冷たくなった。


「ごはんよ〜」


 ついさっき叩きつけるように閉めたガラス戸に後頭部をひたりとつける。右手はいまだ戸を閉めた時のままで、アルミサッシの細い溝が手のひらに食い込んでじんじん痛む。それでも力を抜くことができない。


「おいで〜」


 足先が冷えてくる。ルームソックスが汚れているのは急いでベランダに出てきた拍子にサンダルを蹴り飛ばしてしまったからだ。


「あけてよお」


 声が、真後ろまで迫っていた。無理やり喉を押し上げて捻り出したような高い声。


「⬛︎⬛︎ちゃあん」


 私の名前だ。

 震える左手を膝から離し、口を覆う。今にも叫び出してしまいそうだった。鼻腔がツンと痛くなった。恐ろしくて泣いていた。


 部屋から漏れる光に、自分の影とその後ろで空中を泳ぐように揺れる影があった。ガラス戸を挟んだすぐそこで、あいつがこっちを見ている。


 目に焼きついた姿はそう簡単に視界から剥がれてくれない。


 宙に浮くぺらぺらの白い面。釣り上がった口角、真っ赤な口内。胴体部分は黒くて長いマントを被っていたが、まるでそこにはなにもないようにしゃらしゃらと揺れるだけだった。


「どうしたのお」


 ガラス戸の向こう側の、耳のすぐ後ろで声がした。生ぬるい息が当たった気がした。


 膝に顔を埋め、目を強く瞑った。


 しゃらしゃら


 マントがガラス戸に擦れる音がする。


 しゃらしゃら



 ---------



 今日は姉の誕生日だった。

 仕事で帰るのが遅くなる姉のために、父と母と私は料理とケーキを準備して待っていた。


 姉からもうすぐ帰ると連絡があった後、ぴんぽーんと、チャイムが鳴った。


「はーい」

 父が答えるが返事は無く、母は料理で手が離せなかったので私と父の二人で玄関まで行った。


 ドアを開けるが、誰もいない。廊下まで出て左右を見渡すが21時前のマンションはしんと静まり返っていて、何の気配もない。


 首を傾げて父がドアを閉める瞬間、わずかな隙間から黒い布のようなものが目にも止まらぬ速さで入ってきた。

 布は私と父の間をすり抜け、台所へ向かう。

 ブツリとスピーカーが壊れたような不気味な音が聞こえて、母がいた方向から包丁がカシャーンと音を立ててフローリングの上を回転しながら滑っていった。


 台所を見ると、母のようなものが立っていた。母の首から上は無くなっており、首の断面からはとろとろとした血がぶくぶくと泡を立てて溢れていた。まるで急速に溶けていく蝋燭のようだった。右手は何かを持っているような形のまま、ぴくぴくと指先を震わせていた。


 私は直立した母の胴体を見て、動けなくなってしまった。あまりのことに息をするのも忘れていた。

 次の瞬間には玄関から走ってきた父に身体を強く押されて、ベランダに出るガラス戸に肩をぶつけた。


「外に出ろ!!にげ」


 言い終わらないうちに、父の頭は黒いマントに覆われた。背面からぐるりと白い面が被さり、ブツッ、とさっきの音が鳴った。


 しゃら


 黒いマントが父の肩を撫でるように取り払われる。そこに頭は無く、母と同じようにとろとろぶくぶくと血が溢れるばかりだった。


 白い面がこちらに近づいてくる前に、私はベランダに飛び出た。


 わずか9秒ほどの間に起きた出来事だった。



 ---------



 どれくらい時間が経ったかわからないが、背後の気配が消えた気がして、私は顔を上げた。


 悪夢の9秒間を反芻し、絶望的な自分の状況を再認識したが、その中に希望があった。


 そうだ。今日は姉の誕生日なのだ。


 私の姉には霊感がある。かなり強い方らしく見えたり聞こえたりする以外にもいわゆる“お祓い”のようなことができる。

 姉の仕事はさまざまな場所の除霊を行うようなものらしく、悪霊と呼ばれる類に会ったこともあるという話も聞いた。


 左ポケットから小さな振動を感じる。携帯だった。画面に表示されていたのは姉からのメッセージを知らせる通知だった。


『ドア開かないけどどうしたの?』


 姉が帰ってきたのだ。

 携帯画面を叩くようにして電話をかける。両手とも、とうの昔に感覚は無くなっていた。唇がぶるぶると震える。

 姉という希望を前に、寒さを感じる余裕が出てきたのかもしれない。


「も、もしも、しっ」

「はいはい、どしたの?鍵挿して回してるんだけど、ドアが開かなくって」


 いつもの姉の声だった。ぐわりと視界が揺れ、涙がぼたぼたとこぼれた。


「うっ……ぐっ、うぐっ……」

「え……泣いてんの?ほんとにどうした?」

「おか、おかあさんと……おとうさ、んが」


 私がそう言った途端、姉は無言になり、ゆっくりと深呼吸した。


「……うん。今全部わかった。厄介だね。ここに来るまで少しの気配も感じなかったよ」

「わっ……わたし、どうっ、したら」

「大丈夫。私が全部準備するから。あんたはそこから動かないでね」

「おねえちゃん……」

「心配しないで。お姉ちゃんが助けてあげるから」


 そう言って電話が切れた。ブツリと通話が切れる音があの音にそっくりで吐き気がしたが、姉という希望でなんとか耐えることができた。


 溢れる涙を拭い、携帯を胸に握り締め、もう一度膝に顔を埋めてうずくまる。

 自分を落ち着かせるように、あの日の記憶を思い出す。姉に霊力が宿った日のことを。



 ---------



 あの日も姉の誕生日だった。


 その日10歳になった姉と、5歳だった頃の私は当時よく行っていた遊園地で両親とはぐれてしまった。今は潰れてしまった遊園地だ。

 二人一緒だったこともあり、ちっとも寂しくなかった私たちはこれはチャンスだと笑い合いながら、遊園地を隅々まで冒険しようと駆け出した。

 噴水の広場を抜けて、花壇の小道を通り、洞窟のトンネルを抜けた先に、見たことのない大きな屋敷があった。ひっそりと佇むその姿は昼間でも暗い雰囲気で、割れた窓の奥から誰かがこちらをじっと見ているような、どこか不思議な魅力があった。

 お化け屋敷か、迷路ハウスか。

 遊び慣れた遊園地で、初めて見るアトラクションに私たちは興味津々で近づいて行った。

 周囲にはお客さんも従業員もおらず、木製の大きな扉を見ると『ろうそくのいえ』と小さく文字が掘られていた。


 遠くで誰かが風船を空に飛ばしていた。青空が赤い風船を吸い込んだ。


 気がつくと私と姉は屋敷の中に入っていた。目の前には外国のお屋敷で見るような長いディナーテーブル。真っ黒いクロスで覆われていて、その上にはたくさんの蝋燭がにょきにょきと生えるように並んでいた。床や椅子、壁も黒く、そこからにょきにょきと様々な大きさの蝋燭が植物のように生えていた。全てに火がついていて、時おりゆらゆらとひとりでに揺れている。数えてもいないのに、ろうそくは999本あるとなぜかすぐにわかった。


 長い長いテーブルの向かい側に、誰かがいた。


 その誰かは、姉に何かを告げる。私はうまく聞き取ることができず、その後はどうやって帰ったか覚えていないが、ベンチで寝ていたところを両親に…………。



 --------



「……ん?」

 私は膝から顔を上げ、首を捻った。記憶がおかしい。

 今までは何度この日のことを思い出しても、『ろうそくのいえ』の中の出来事はうまく思い出せなかったのに、今ははっきりと情景を思い浮かべることができた。夥しい数の蝋燭に照らされた室内……ろうそくのいえの中はあんな風になっていたのか。


「…………」

 まだ違和感がある。私はまだ思い出せることがある。



 --------



「999本の蝋燭がやっと集まった」

「君たちは運が良い」


 ディナーテーブルの向こう側の誰かが姉に向かって話していた言葉が、脳の内側を撫でるように浮かび上がってきた。


「いいかい。今から君たちのどちらかに私を住まわせるんだ。そうすればここから元の世界に帰ることができるよ」

「私の不思議な力も使わせてあげよう。ただし、9年間だ」

「きっかり9年が経ったその日、君は裏返り、私が姿を現して、全てをもらいに」



 ---------



 どんどんどん


 ガラス戸が叩かれて、体が揺れる。その衝撃で顔を上げ、後ろを振り返った。

 姉が立っていた。


 優しく微笑む姉は「もうだいじょうぶだよ」と大きく口を動かす。

 よろめきながら立ち上がった私はカラカラとガラス戸を開け、姉に抱きついた。


 しゃら


 そこには黒いマントがあった。

 部屋には2本の大きな蝋燭が立っていて、足元には姉の携帯が落ちていた。


「きっかり9年が経ったその日、君は裏返り、私が姿を現して、全てをもらいにいく」


 今日は姉の19歳の誕生日だ。

 そうか、あの日から。

 姉の中に住む誰かが、この日を待ち続けていたんだ。


 しゃら、と音がして、黒いマントが私の顔を覆った。




 ブツリ

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ベランダ 戸右歩 @tohuhuhu

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