シュレディンガーの猫

きょんきょん

この世界の君へ

「面白いね。〝この世界の君は〟ボクの姿が見えるんだ」

「きみは……誰?」


 消灯時間をとっくに過ぎていた無菌室に、予期せぬ珍客が訪れた。

 弱々しい心臓の鼓動を映し出す心電図モニターの上に、一匹の黒猫がちょこんとお座りをしている。


 ペロペロと前脚を舌で舐めながら、僕に見られていることに気がつくと金色の眼を見開いて尻尾を揺らした。

 まさか人間の言葉を話す猫なんているはずがないし、もしかしたら……死期が近づいている僕を迎えに来た死神なのかもしれない。


「失礼しちゃうね。死神がこんな愛らしい姿をしていると思うかい?」


 黒猫は心電図からベッドに飛び降りると、大きく伸びをして後ろ脚で頭を掻いていた。喋ること以外は至って普通の猫にしか見えない。たしかに死神にしては可愛すぎるくらいだ。

 

「僕の名前はシュレディンガー。無数に存在する世界を渡り歩いている〝観測者〟さ」

「観測者?」


 猫改めシュレディンガーは、痩せ細った身体の上に飛び乗ると話を続けた。


「人間の目に触れることなんてそうそうないから、今夜は特別に教えてあげる。この世界はね、一つしかないようで実は無限に存在するんだ。観測者はあらゆる世界を見て回る記録員みたいなもんだ」

「言ってる意味がよくわからないけど……他にと世界があるって本当なの?」

「もちろんさ。例えばこの世界の君は不治の病にかかっているけど、別の世界の君は病気とは無縁の生活を送っているだろう。大きくなったら結婚だってするかもしれない。もしかしたらスポーツ選手になってるかもしれない。世界はね、可能性の数だけ存在しているのさ」


 元気な僕が暮らしている世界――想像してみたけれど、人生の大半を病院で暮らしている僕には、上手く思い描くことができなかった。


「そうだ。ここで出会ったのもなにかの縁だし、君が望むのなら〝別世界の君の未来〟と取り替えてあげてもいいよ」

「取り替えたら、病気が治る?」


 シュレディンガーが初めてニャアと鳴くと、興奮して心電図が大きく跳ね上がる。


「あれ? でも、取り替えるってことは……別の世界の僕は同じように病気になるってこと?」

「気にすることはないよ。同じ君とはいえ、次元が異なれば全くの他人だ。気に病む必要はない」


 余命が宣告されて残り僅かな命――健康になったらやりたいことは山ほどある。

 しばらく悩んで、答えを出した。


「やっぱり止めておくよ。たとえ他人でも、違う世界の僕には幸せな未来を生きてほしいから」

「そっか。無理強いはしないよ」


 あっさりと引き下がったシュレディンガーは、枕元で丸々とそばを離れようとしなかった。


「僕は……やっぱり死ぬのかな」


 時計の針が日付をまたいで、徐々にまぶたが重くなってきた僕は出会ったばかりの猫に尋ねると、母が子を慈しむように前脚で頭を撫でられた。


「君は死ぬ。だけど大丈夫だよ。僕が最期まで君の人生を見届けてあげるから。永遠に孤独な僕を見つけてくれたお礼にね」


         🐱


 夜が明けると君はこの世界から消えた。

 約束通り最期を見届けた僕は、今日も何処かで観測を続けている。


 もしも君が住む街で黒猫を見かけたら、一度声をかけてみるといい。運良く僕と巡り合うことができたなら、世界のついでに君の事も観てあげるかもしれないよ。




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シュレディンガーの猫 きょんきょん @kyosuke11920212

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