第95話:服ろわぬ者(四)

 唸りを上げ、赤い風が奔る。自ら頬を差し出す思いの松尾に、外しようもなくめり込んだ。

 踏ん張った足が一尺ほども押しさげられ、ぎゅっと歯を食いしばる。すぐ、押されただけを取り戻した。最後の一歩に自重の全てを傾け、またそれを振り放った右手へ注ぐ。


 灼熱色の肌は僅かたわむのみで、そんなものかと落胆するような吐息を吐かすだけ。

 吐いた息を吸い、酒呑童子の拳が唸る。避けようとも受け流そうともしない松尾は、意識を手放さぬことに腐心した。


 留めた息を新しく取り替え、赤い頬を打つ。と一瞬、拳の形に翳りが生まれた。見誤りでないかたしかめる暇もなく、次の拳が飛んでくる。

 殴られるたび、鉄の味を飲み込んだ。松尾にとって至極、親しんだ味。

 人を喰らう者には、どう感じるのだろう。見合う海色の瞳を覗いたところで、答えは知れない。


「人を喰らって、旨いのか」


 もう何度目になるか、拳を打ち込むのと同時に問うた。喋るなと言われたが、構うものかと開き直って。


「ふうぅ……」


 返答はない。代わりにというのか、殴り返す拳が止まった。

 小休止かもしれない。深く弱々しい呼吸を繰り返しながら、睨めつける眼はそのまま。


 一旦は垂れた腕を、再び持ち上げるのが重そうだった。薄暗くなった小屋の中、端に燃える焚き火が影を大きく見せる。

 風の音はしない。松尾の、当たり前の人間の頬が揺れもしない。

 どうにか拳を押しつけたという恰好で、酒呑童子は膝を突く。


「外道丸──」


 咄嗟に差し伸べようとした手が、ぴしゃりと撥ね退けられた。酒呑童子の鋭い爪は、己の頬を指し示す。

 頷いて、松尾は大きく息を吸った。金太郎に習った足腰の使い方を思い出し、渾身の力を振るえるように。


 いくぞ。

 声に出さぬものを、酒呑童子は頷く。ためらわず突き出した拳が、柔らかな人の肌を打ち抜いた。赤鬼は暗がりへ倒れ込み、起き上がる素振りを見せない。

 顔の間近へ行くことを、松尾は迷う。このまま置き去りに、茨木童子を追うのがいいかもと。


「旨いとかまずいとか、俺には分からねえ」

「外道丸」


 声の聞こえた途端、迷ったことなど忘れた。四つん這いで覗いた酒呑童子は、酒臭い息を浴びせかける。


「分からねえけど、なにか埋まる気がする。俺の中のどこか、なにか」

「ああ……」

「松尾丸、お前が生きてて良かった」


 名を。

 呼ばれて、松尾にできることはない。外道丸の声が微かにでも聞こえれば、頷いて見せるくらいしか。


「目が覚めたら、お前だけ居ねえからよ。お前の親父もお頭も居るってのに、一人でしょうがねえ奴だって。寂しくて泣いてんじゃねえか、捜そうとしたんだ」


 ああそうだ、寂しくていつも泣いていた。たった今と同じに。

 喉から出るのは咽ぶ声だけで。仕方なく、もげ落ちそうなほど首を動かした。外道丸は皮肉に口角を上げ、鼻で笑う。


「みんなでだ。みんな、俺が動けるようにしてやった。村長もRosaローザも」

「──ごめん」


 寂しかったのだ。謝るほかの言葉が、松尾には思い浮かばない。

 外道丸は鬼の姿に相応しく、かかと高らかに笑い飛ばした。眼には涙が、一すじを頬に伝わせる。


「悪い、Rosaローザを追いかけてやってくれ。俺が居なきゃ、どうしていいか分からねえだろう」

Rosaローザだな」

「ああ、Rosaローザ=Duseドゥーゼ。俺の声じゃなく聞くのは久しぶりだ。近所の奴らに教えてやっても、結局は茨木童子になっちまった」


 そう呼べば、茨木童子も松尾の声を聞いてくれるだろうか。やってみなければ分からぬものの、やらぬ理由はない。


「その名前で呼んでほしかったのか」

「外道丸でいいさ。まあでも、たまにはそう呼ばれるのも悪くねえだろ」

「お前は。お前の名は?」


 海色の瞳が、白く濁る。急かす松尾の声に、外道丸は意地悪く笑う。


「ふっ。ふふっ。知りてえのか」

「知りたい。私はお前が、お前とささが好きだ。だから名前くらい知っていたいと、それが悪いか」

「悪いなんて言ってねえだろ」


 ほう、と。外道丸の息が薄く砕けた。肉の落ちた両肩を松尾は掴み、早くと祈りを篭めて揺する。


Steinシュタイン=Duseドゥーゼ


 かすれる声は唇のすぐ近くで潰えた。松尾は聞き逃さず、「分かった」と頬を撫でてやる。


「すぐ。ささを、Rosaローザを見つけてくるから。それまで、ゆっくりしててくれ」

「ああ、お前には世話になりっぱなしだ」

「気にするな、Steinシュタイン=Duseドゥーゼ


 触れる手の中、擦り寄せる頬。人肌の感触が、さらさらと解けた。

 鼻息にも飛ぶ細かな灰を、松尾は抱きしめる。

 濡れて泥と化しても、もはや文句を言う者はない。どれだけ叫んだとして、熾火の囁きしか答える者はない。

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