第91話:莫逆の友(十三)

 金太郎は息を詰め、堪えられぬとなって吐き出すのを繰り返した。

 荒二郎と乙姫が、巨漢の大きな傷に手拭いを当てがう。静寂に、布を裂く音が誰かの泣き声に聞こえる。


 そういう中で、無いに等しい足音も耳に障った。太刀を取るべきかと迷いもした。

 しかし、と松尾は巻き布作りを続ける。目の前へ頼光の足が立っても。


「まだ神便鬼毒酒は残っておろうが」

「飲んでなにもないのなら」


 お前に借りなど御免だ。そう発しかけた言葉を書き換えると、頼光は両膝を折った。

 深く首を垂れ、切れぎれに言う。


「ある。だが公時は生きられる」


 揃った巻き布を、さっそく金太郎へ。きつく当てる力が、思わず緩んだ。


「金太郎を?」


 上げた眼に、頼光の顔は見えない。代わりに突き出された両腕は、一方に短刀を握った。

 ずず、と。骨に達する傷が横向きに入る。小さな悲鳴で、乙姫などは顔を背けた。


 朱の液体が片手に掬うほどもこぼれたか。けれどもそれきり、新たに落ちることはない。

 腕の傷から靄が上がり、煮え立つような音とともに裂け目が埋まっていった。


「鬼に」


 はっ、と頼光の頭頂を見る。が、角はない。当人もかぶりを振り、「違う」と。


「都を荒らすような、ここに暮らしたような鬼にはならぬ。ただしおそらく、死ぬること叶わぬ」

「それは……」


 継ぐ言葉を失い、松尾は金太郎を覗き込む。今ここで死ぬのと、これから永遠に生きるのと、この男はどちらを選ぶか。

 生きてほしい、偽らぬ松尾の気持ちはそうだ。

 けれども同じく、不死となることに忌避がある。


 巻き布に力が入らず、荒二郎に奪われた。金太郎の苦痛に、幾つもの顔が重なって見える。

 父ちゃん、お頭、兄ちゃん──

 百を数える間もあったろう。遂に松尾は頷いた。


「金太郎に、そんな物を飲ませない。あとで恨まれても」


 頼光も頷く。黙して、しばらく凍りついたように動かない。

 布を巻き終え、渡辺源次が正気を取り戻す頃には幾らかの時間が過ぎた。とは言えうたた寝にも足らぬほどだが、松尾にはそれこそ永遠に感じた。


「すまぬ」


 起き上がった渡辺源次は、金太郎に頭を下げた。順に松尾にも、荒二郎にも。

 それから頼光に向かい、見つめ合う。やがて二人、大きなため息とともに頷いた。


「松尾太郎。あ、いや、松尾丸と呼ぶべきか」


 頼光の問いかけが、金太郎を脇に座した松尾には煩わしい。名前など今はどうでも良いことだ。


「なにか?」

「うむ、お前は酒呑童子をどうするのかと思うてな。あくまで退治ると、儂らの加勢が要ると言うなら、全力で従おう」

「要らぬと言ったら?」

「ふむ。乙姫を都に帰すとするか」


 融通の利かぬ男だ。納得と呆れる気持ちとを、松尾は同時に感じた。

 ゆえに、続く返答も迷わない。


「ではそれで」

「わたくしは帰りません」


 あとは粛々と成り行く、という見当が直ちに外れた。金太郎を挟んだ対面で、乙姫は震える唇を結んだ。


「──おいえに帰れぬということなら、備前守の屋敷にでも」

「そうではありません。浦辺さまが残ると仰るなら、どうして帰れましょう。わたくしは恩も恥も知っております」


 ここには扇も、艶やかな着物もない。筒袖一枚の乙姫は、まばたきもせぬ瞳を松尾に向ける。


「私は……幼い頃からの友を迎えに来ました。ほかの誰かに任せるわけにはいきませんし、出直すのも難しいでしょう。また会えるかも知れぬ、難しい友ですので」

「ええ。ええ、分かると偉そうなことは申しません。ですが分かりたいと思っております。そのために、ここでお待ちするくらいはしたいのです」


 相応しい言葉を探した松尾に、乙姫は僅かの淀みも感じさせなかった。

 その意気がどんな心持ちから湧き出るものか、正確には測りきれない。しかし金太郎を前にしても、松尾に微笑をくらいは作らせた。


「お気持ちはとても嬉しい。ですからなおさら、安全なところでお待ちいただきたい。ここは服ろわぬ者の総大将、酒呑童子の居城ですので」


 それは、と。乙姫の声が震える。にも拘らず、顔を伏せ、鼻を啜り、再び顔の上がるのは、松尾が息を吸って吐くより素早く行われた。


「お待ち申し上げて良い、と仰いましたね?」

「私はそんな、大層な者では」

「しかとしたお返事を」


 断れば、乙姫は本当に居残るだろう。まだどれだけの鬼が居るかも分からぬというのに。

 待つとは、待つというだけのこと。ならば良いも悪いも、それこそ大袈裟だ。

 己に子供のような言いわけを施し、松尾は首肯を返した。


「ええ」

「分かりました、備前守さまのお屋敷で居候をさせていただきます。坂田公時さまのご養生も、必ずわたくしが」


 こうべを垂れる乙姫に、松尾はなにも言えなかった。これで憂いはない、と肩を軽くした自分に腹も立つ。

 無言のまま、腰を上げる。誰を顧みることなく、足を踏み出した。


「ん」


 たった一歩、なにかが松尾の足に絡みつく。無理やりに引き抜こうにも、到底おぼつかぬほどの力で。


「勝手に決めるな」


 弱っても怪力の主が、やっとの声を絞り出す。松尾には、これを否定する選択がない。


「乙姫殿、先の言葉は誤りでした。私は幼い頃からの友と、幼い頃からの友を会わせてやりたいのです」

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